THE KING OF FIGHTERS 98UM OL CTL2018 クリスマスに贈りたい本 psm Amazon MasterCard nav_flyout_biss nav_flyout_videogame WinterSale 【新登場】Fire HD 8 Fire TV おせち料理特集2019 ドラッグストア年末年始大セール30%OFFも DIY・ガーデニング タネ・苗ストア 春のガーデンストア Echo Kindle  Amazon Music Unlimited - 3か月99円で音楽聴き放題 ウィンタースポーツ ドキュメンタル シーズン6

カスタマーレビュー

2014年4月19日
 現代の多くの日本人は、学校の国語の時間に古文を習うせいで、なんとなく江戸時代までは日本人はみんな旧かなづかいで文章を書いたり本を出していたと思っているかもしれません。

 そしてまたもう少し知識のある人は、戦後すぐの時点まで日本ではいわゆる「歴史的かなづかい」が用いられ、1946年に内閣告示によって今につづく「現代かなづかい」に改まったと考えているのではないかと思います。
 (歴史的かなづかいが戦前用いられていたという事実は現在では少し見えにくくなっています。というのは、文語文で書かれた'鴎外の『舞姫』のような小説をのぞいて、たとえば漱石が口語文で書いた小説は、現在の国語の教科書で、また広く流通する文庫本で、漱石が実際用いた「歴史的かなづかい」ではなく、あろうことか「現代かなづかい」に変えられてしまっているからです)。

 上記のことはまったくの間違いではないにせよ、事実はかなり違った面もあることを本書は教えてくれます。

 日本語の書き方としてのかなづかいがかなづかいとして意識されるためには、規範としての(正しい)かなづかいがなければなりません。そして同時にその規範にしたがって(正しい)日本語を書かなければならないという規範意識もそこに付随しなければなりません。
 規範意識があればこそ、かなづかいを間違えると人はちょっと「恥ずかしい」と思ったりするわけです。

 また戦前歴史的かなづかいが使われていた頃、のちに早稲田の教授にもなった学者詩人、日夏耿之介や西条八十は、萩原朔太郎や室生犀星について、「…だらう」を「…だらふ」と書く教養のない無学な連中と馬鹿にしましたが(ただ皮肉なことに後者二人のほうが近代詩史上よっぽど偉い詩人たちですが!)、規範意識はいっぽうで――送りがなや筆順のばあいでもそうですが――差別意識、すくなくとも間違った相手をちょっと「レベルが低い」と思うような意識を生みだすわけです。

 他方、そういう規範はある程度やはり法令や教育(全国一律の学校教育)というある種の強制的システムでなければ世に広まらず、規範意識はその強制的システムの結果および効果として広く人びとに植えつけられるものです。

 (ただし、現代仮名遣いという、学校や役所など公的な場で通常使われているかなづかいの規範にもとづかず、ひとは、歴史的かなづかいのみを用いる、あるいはたしか丸谷才一のように、歴史的かなづかいを用いつつも、しかし字音語は和語ではないので歴史的かなづかいにしないという(個人的な?)ルールにもとづいての独自のかなづかいでも、まあ自由に用いることはもちろん可能です。後者の場合、たとえば「左様」や「この様に」における「様」は字音語なので、丸谷方式だと、「さやう」、「このやうに」ではなく、「さよう」、「このように」と書くことになりますが、彼はこのように書いていたのか、それとも例外的にこれは「このやうに」と書くと宣言していたのか残念ながらよくおぼえていません。)

 ところで、日本語を書くときの「かなづかい」にかんして、広く共有される規範と規範意識が、ごく一部の知識人・教養人というのではなく、日本列島に住む人びと全体のあいだに共有され、日本じゅうに(この「日本じゅうに」ということが重要です)普及し定着しだしたのがようやく明治になってからであり、明治初期にはしかもいくらか混乱もあったのですが、1900年代以降になってようやく教育の普及やメディアの発達もあっていわゆる「歴史的かなづかい」が日本語の書き方の(正しい)規範として広く日本人に用いられるようになりました。
 つまり「歴史的かなづかい」が日本じゅうで多くの人びとに「(ほぼ)正しく」用いられていたのは日本の長い歴史のなかで,せいぜい1900年代前半のわずか50年ほどだったということになります(その意味で「歴史的かなづかい」は,国家神道などと同様に、まさに歴史家ホブズボームらのいう「創られた伝統」といってもいいかもしれません)。

 西欧諸国をみても、まずは正しい単語の綴り方からはじまるそれぞれの国語の正書法が成立するのはやはり法や学校教育や軍隊などが整備されてゆく近代の国民国家の成立とともに、ということが多いようで、フランスでほぼ現在にまでつづく正書法が確立するのは大革命のあと19世紀になってからであり、ドイツ全体で統一的な正書法が定まるのは日本とほぼ同じ20世紀初めです。
 また、私などWednesdayをウェドネスデイと覚えた口ですが、そんな綴り字のややこしい英語にも、英語の本家本元イギリスで正書法改革の機運がなかったわけではないようです。しかしすでに早くに海外に進出して植民地を数多くもち、その多くが遅かれ早かれ独立していくなかでは、世界各地に普及し使用されている英語の書き方をイギリス一国の一存ではもはやどうにもできなかったようです。

 いずれにせよ、明治維新前後あたりからはじまった漢字廃止(前島密)や日本語ローマ字化あるいは(漢字を使わない)日本語全かな文字化の創案など「日本語」をめぐる混乱や激しい議論、争論を経たのち、ようやく緒についた「国語」の創出、すなわち円朝の落語口演を速記したものを原型にした「言文一致」体の標準的書き言葉の誕生、正書法としての「歴史的かなづかい」の成立、異体仮名を淘汰したかな文字表記の統一、等をともなった「国語」の創出は、明治以前まである意味存在しなかった、あるいはすくなくとも日本列島に住むふつうの人びとにそれまでほとんど意識されなかった「日本国」や「日本国民」そして「日本語」をいかに作っていくかという列島全体の近代的(再)編成と統合の問題とふかく関係していたはずです。

 それはまさに、日本近代最初の国語辞書『言海』を独力で完成させた大槻文彦がのべたように「一国の国語は、外に対しては、一民族たるを証し、内にしては、同胞一体なる公義感覚を固結せしむるものにて、即ち、国語の統一は、独立たる基礎にして、独立たる標識なり」ということでもあったわけです。

 欧米においても、19世紀になって近代の国民国家の成立とともに、国民意識、国語意識のたかまりのなかで、たとえばドイツでは『グリム』、フランスでは『リトレ』、アメリカでは『ウェブスター』と、それぞれの国の国語辞典の金字塔ともいうべき辞書が編纂刊行されました。それとほぼ軌を一にするようにして『言海』が日本で出たというわけです。そして上で引いた大槻の文にある「同胞一体なる公義感覚」とは、ほかならぬ国民意識といいかえてもよいものでしょうし、ひるがえって「国語」こそが「日本国」、「日本人」という「同胞一体」なる「想像の共同体」(ベネディクト・アンダースン)を作り出すものでもあったわけです。

 (日本列島に住むふつうの人びとにそれまでほとんど意識されなかった「日本国」や「日本国民」そして「日本語」、と上に書きましたが、江戸時代、江戸や天領に住む人びとはともかく、当時の人びとにとって「国」あるいは「国家」という語は「藩」を指していたといわれ、法律(法度など)や税(年貢など)、教育(藩校など)や言葉(今では方言と呼ばれるようになりましたが)等も藩のそれがまずすべてであり、藩から出るにもパスポート(手形)が必要でした)

 ではそれ以前の日本人(厳密にはこのばあい日本人はカッコつきにすべきかもしれません。上で用いたように網野善彦にならって「日本列島」の人びととすべきか)は「日本語」をじっさいどのようなかなづかいで書いていたのかというのが本書の3分の2ぐらいまでの内容です。

 (もし「日本人」がどのように書いていたかという問いなら、古典中国語(漢文)、和式漢文、和漢混淆文、和文、擬古文、俳文、戯作文、候文等々のヴァラエティゆたかな「日本語」(?)を書いていたという答えになるでしょう。そして明治の初期、国民国家を作ってゆく上で「日本国民」が書く「日本語」がはたしてあるのか、あるのは上のようなただただヴァラエティゆたかな、とはいえそれぞれにその習得に長い年月を要する書き言葉ばかりで、たとえば英国やアメリカで書き言葉としてあるEnglish(英語)に対応するような、ほぼどんな用途にも使え、国民のだれでもが学べ書け理解できる、広く共有された標準的な書き言葉としてのJapanese(日本語)がないのではないか、と気づいたのがあの森有礼でした。

 森は、ある種の人びとには評判の悪い人ですが、上の点についてだけはかれの認識そのものはまちがってはいなかったといえます。また森は、外国にいたからこそ、「国語」と呼べる「日本語」が自分の国にはたしてあるのかという問題に直面できたのだともいえます。なお森有礼の論敵にして明治初期の代表的知識人でもあった馬場辰猪などは英学によって知的形成をなしとげたため、当時のフォーマルな書記言語だった漢文や和漢混淆文を生涯書けなかったといわれ、もっぱら英語で著述したといわれています。日本語の著述で残るのは口述筆記によるものだったようです。いっぽう中江兆民は、藩校で儒学を、長崎でフランス語を学んだ後、フランスに留学し、帰国後はあらためて漢学を学びなおし、ルソーの『社会契約論(民約訳解)』を漢文で訳しました。

 ともあれ、森に見るような「日本語」をめぐる困惑と混乱のあと、上に述べた「国語」(「日本語」)の創出をめぐるあわただしい動きが政府や学界、教育界、文学界をまきこんではじまったというわけです。そしてそういうことからすれば、現在、自明のように私たち「日本国民」が日常書いたり読んだりしている標準的な「日本語」書き言葉は、まだたかだか百年ぐらいの歴史しかないということになります)。

 全国一律の法令も学校教育もなかったこと、いいかえれば人びとに広く共有されていた規範も規範意識もなかったことを考えれば、当たり前といえば当たり前のことですが、本書によれば、明治以前の日本では、

 (1)歴史的かなづかいで書かれていた(川は「かは」と発音していたから、「かは」と書いていた平安前期までのかなづかいによるもの。本書では契沖によって復元された仮名遣いに淵源する「歴史的かなづかい」と区別して平安前期までじっさい用いられていたと想定されているかなづかいということで「古典かなづかい」という用語をつかっているが、ここではわかりやすく「歴史的かなづかい」の語をつかう)

 (2)少し表音的表記(川は「かわ」と発音しているので「かわ」と書く表記)を交じえながら歴史的かなづかいで書かれていた

 (3)歴史的かなづかいを交じえながら表音的に書かれていた

 (4)完全に表音的に書かれていた(「川へ行く」を「かわえゆく」と書くこと)

までの、それぞれのあいだにさまざまなレベルをふくんでの、さまざまなかなづかいで、教養(とくに読み書き能力つまりリテラシー)や身分や書く文書の種類に応じて日本人はものを書いていたということです。

 (長く漢文(古典中国語)がフォーマルな書記言語だったこともあり、和文で書く以外は、その漢文に添える訓点などに使う程度のものでしかなかった仮名(づかい)は、あくまで補助的なものであったがゆえに、和文を使う文学者(歌人など)や古代の日本語を探求しようとした研究者(契沖など)や漢意(からごころ)を排そうとした一部の研究者(一部の国学者など)をのぞけば、等閑視され、それをきちんと規範化して整序しようという機運が生まれなかったのでしょう。
 他方、江戸時代は寺子屋などでの教育をとおして庶民でもその識字率は高かったといわれていますが、それでも書くためのかなづかいの規範がそこで統一されたものとしてあったわけではないはずです。教えるほうも教わるほうも、当時の日本人は自分が見たり読んだりした本をふくむ文書一般から見よう見まねで、つまりたとえば「耐(た)える」は表音的に書かず「耐へる」(<耐ふ)と書き、「絶える」は「絶える」(<絶ゆ)とそのまま表音的に書かないといけないとか、かなづかいを何かそういうものだと思いながら経験主義的に身につけていったのかもしれません。
 また現代人のような規範意識がほとんどなかったはずなので、かなづかいの間違いを意識することも、現代人のようにかなづかいの間違いでちょっと「恥ずかしい」と思ったりすることもなかったのかもしれません。

 ともあれじっさい評者の見たことのある例でいうと、原本の字句の状況が忠実に翻刻された蓮如筆写本『歎異抄』も芭蕉自筆本『奥の細道』も(どちらも現在文庫などでかんたんに見ることができます)、それぞれ当時(連如は15世紀室町時代、芭蕉は17世紀江戸時代の人)のすぐれて学と教養のある僧侶と文学者によって書かれたものながら、歴史的かなづかいからすると間違いが散見されます。
 これは本書著者の分類でいうと上の(2)のパターンということになるのでしょう。けっきょく、明治以前の日本にあっては、かなづかいはかなりゆるく意識されていただけなのでしょう。そしてそれはそれで変とも思われず、ふつうのことだったのでしょう。もとより、明治以前は、かな文字の表記じたいも、「異体仮名」が種類も多く並行して使われていて(「正体」が意識されていない以上異体というのはおかしいのですが、かな文字の書き方が現代と違って幾通りもあったということです)、文字としてのかなの書きかたもゆるく意識されていただけなのでしょう)。

 さて、著者によれば、上に挙げた分類のうち、とりわけ両極端としての上の(1)と(4)とでそれぞれ完全に書かれた文献文書はきわめてまれ、あるいはごく一部ということのようです。
 とくに(1)にかんしては、完全な歴史的かなづかい(本書でいうところの「古典かなづかい」)で書かれていた(はずの)平安前期までの文書がほとんど現存していないこともあり(『土佐日記』でも残っているのは後世の写本であり、紀貫之がじっさいどのようなかなづかいで書いたかは厳密にはわからない)、後出の築島裕の本によれば、「用いる」や「或いは」が、正しい歴史的かなづかいでは「もちひる」「あるひは」ではなく「もちゐる」「あるいは」であったことがわかったのはようやく戦後の国語学研究の進展のなかでのことです。

 逆にいうと、正しい歴史的かなづかいとは何かということでは、契沖いらいの学問的蓄積にもかかわらず、まだまだわからないこともあるということです。(現代かなづかいが問題の多い不完全なものであるとしたら、いっぽうで歴史的かなづかいは、あとでふれる築島裕のいうように、正しいありかたに向けて今まだ進行(あるいは遡行)途上にある未完成形といえるかもしれません)

 かなづかいの問題はとにかく複雑で、また日本人で日本語を話す人間であればだれでもみんな一家言をもてるとばかりに「人を狂的にさせる何ものか」(福田恆存)があり、歴史的かなづかい(旧かなづかい)か現代かなづかい(新かなづかい)かでもその是非に妙に「熱く」なる人もいて、少々ひとを疲れさせる問題です。

 (私自身は現在現代かなづかいを用いていますが、歴史的かなづかいはきわめて理にかなったものであるという、あくまでその一点で徹頭徹尾論陣を張る福田恆存の『私の國語教室』は、偏狭な復古主義とか胡乱な伝統主義とか趣味的な審美主義とかとは完全に無縁なところで、まったくもって筋のとおったものと思っています。ただ、歴史的かなづかいが合理的であるということとそれを現代日本語を書くときの規範とするかどうかということは別途考える必要があるわけですが)

 こういう問題は、論じる前に、とにかく事実と知識をきちんと整理しておくことが重要です。
 本書とあわせて、上記の福田恆存の『私の國語教室』(文春文庫)のほか、2008年刊の白石良夫『かなづかい入門』(平凡社新書)と最近復刊された築島裕『歴史的仮名遣い』(吉川弘文館、元版は中公新書)を読めば、それぞれの観点・立場のちがいもあって、かなり立体的に日本語のかなづかいについての理解、とくに後二者の本では歴史的理解が深まるかと思いますので、ぜひ併読をおすすめします。

 最後に本書の指摘でひとつ驚いたのは、文部科学省のHPに公開されている「現代仮名遣い」では、「促音に用いる「つ」はなるべく小書きにする」とあり、つまり「なるべく」ということなので、「事故が起こった」と書くのではなく「事故が起こつた」と書いてもまったくのまちがいではないということであり、とにかく後者のような書き方は必ずしも「現代仮名遣い」に反するものではないというものでした。意外に現代のかなづかいもゆるく設定されているところがあるといえるのかもしれません。
 まあでも学校の教育現場では、それはほぼバツになることはまちがいないでしょうね。
27人のお客様がこれが役に立ったと考えています
2コメント2件 違反を報告 常設リンク

商品の詳細

5つ星のうち3.1
6