上位の批判的レビュー
5つ星のうち3.0対談相手の力不足
2018年12月29日に日本でレビュー済み
私は執行氏の著作のファンである。
「生くる」「友よ」は10回以上は読んだし、「憧れの思想」「根源へ」も5回以上は読んでいる。
今まで執行氏が出版 (復刊) に関係した本は、「ベラスケスのキリスト」以外すべて読んだが、
その中では「友よ」「憧れの思想」、三浦義一の「悲天」が特に好きだ。
先月出版された「夏日烈烈」も、対談したお二人の「熱」が本全体から伝わってき、
私自身も「熱狂して」読ませてもらった。
そして、その余韻が残る中、次は「円覚寺のすごいお坊さんとの対談本」が出るとの話を聞き、
発売日を「まだか、まだか」と首を長くして待っていた。
この白い表紙の本を初めて手にした時、装丁を見た時、なぜか胸の高鳴りをおぼえなかった。
さて、まだ一度しか読んでいないが、読後の感想を簡潔に書く。
「風の彼方へ」は、「円覚寺管長」との「武士道と禅」を主題とした対談本としては、失敗ではないか?
少なくとも、まえがきで執行氏が述べていたような「成功」だったとは、一読者として決して思えない。
その対談が「成功しなかった要因」の大部分は、横田氏にある。
つまり、執行氏の禅の対談相手として、横田氏では力不足だったのだ。
(夏日烈烈の佐堀氏を、「若者の読者代表」として評価する。
円覚寺管長である横田氏を、禅がテーマの対談相手として批判する)
肩書きは関係ない。
今回の内容がすべてである。
そして対談の内容は、期待以下であった。
具体的な批判に入る。
⑴誰が、どう読んでも、執行氏の方が横田氏よりも、禅に関して、深い洞察を得、それを体得していた。
それにも関わらず、横田氏が「円覚寺管長」であるために、「禅」に関する話題では、
執行氏はかなり気を遣いながら話をしていた。
「断定」の有無を言わせぬ力強さが、執行氏の著作の大きな魅力である。
しかし、禅に関する話題、この本の中心テーマでは、その魅力が失われていた。
その分、横田氏が執行氏の禅の捉え方を受けて、横田氏ならではの持論?を述べてくれればよかったのだが、
ただ同意、ただ共感するだけでは、何の深みも見出せない。
執行氏の話を上書きするだけならば、円覚寺の管長でなくとも、見習いの坊主にだってできる。
むしろ、見習いの僧が執行氏に「禅について教えを乞う」形で出版した方が、より深い内容になったのではないか。
⑵ 執行氏と横田氏の対談本と聞いて、多くの読者が期待していたのは、
お二人の異なる考えがぶつかり合い、より高次のものが生まれる、その瞬間だったと思う。
円覚寺の管長と、執行氏とのぶつかり合いによる魂の弁証法である。
横への広がりではなく、縦に深く。
禅についての知識やエピソードを、聞きたかったのではない。
そんなものは、他の本にいくらでも書いてある。
お二人の体験から掴んだ「禅」を聞きたかったのだ。
それを受けて、対談の場に生まれる「化学反応」を見たかったのだ。
しかし、四回に及ぶ対談で、私(たち)が期待した場面は、一度も訪れなかった。
新たな言葉も、生まれなかった。
執行氏の禅の捉え方は、深かった。
横田氏は、何を話しただろうか?
⑶ 横田氏が書いた「あとがき」についてである。
そのあとがきで横田氏は、対談を終えた執行氏と、すべてが同じ考えではないこと。
そして、人間は異なる考えを持っていてもいいのだと書いている。
私はこのあとがきに「坊主の卑怯さ」を見た。
対談中は、ひたすら執行氏の話に同意、共感、質問ばかりしていた人間が、
執行氏のいない場所で「私は異なる考えを持っている」である。
その「異なる考え」を我々は、対談中に、聞きたかったのだ。
武士ならば、執行氏ならば、横田氏のいないあとがきに、そんな文章は絶対に書かない。
坊主ならではの表現で、武士に対して失礼であろう。
横田氏は、己の至らなさを恥じるべきである。
武士の前で「己の異見」さえ言う勇気を持たぬ坊主が、
悟ったようなことを書いてはならない。
⑷ そして、「風の彼方へ」を読み終えて、執行氏には是非、戦後日本人がかけられた
「洗脳」を解く本を書いてほしいと切に願う。
執行氏は、日本精神の正統を受け継いできた人物である。
横田氏が受け入れられなかった「特攻」や「国家」に関する話も、一昔前のまっとうな日本人ならば、
「当たり前」に持っていた感覚のはずだ。
少なくとも、執行氏が言っていることは、私は当たり前としか受け取らなかった。
問題は、横田氏ほどの人物が、その正統を受け入れられなかったことにある。
武士と坊主の違いといえば、それまでだが、ここに現代の日本が抱えている最大の問題を見た。
⑸ 最後に、靖国神社での第四回目の対談で、執行氏は一人で話し過ぎだ。
あれでは対談ではなくて、演説である。
武士ならば何をしても許されるわけではない。
対談相手の横田氏に失礼であろう。
執行氏もまた、己の至らなさを恥じるべきである。
横田氏の批判を多くしたが、対談は「関係性」から生まれる物語なので、
対談相手の執行氏にも、もちろん非がある。
そして、こんな受け取り方、こんな至らぬ文章しか書くことのできない自分自身を、私は心の底から恥じる。