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2017年2月20日
私はJ.D.サリンジャーのファンです。
面白いけど、私はキャッチャー・イン・ザ ・ライをもっと愛しています。
私はそれを読んで楽しんだ。
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2017年2月26日
サリンジャーの作品の中で一番好きな本です。学生時代に読んだ時の想いと今を比べたくて購入しました。ゆっくり楽しませて頂きます。
商品はカバーも中のページも綺麗に保たれ満足のいく物でした。値段の安さも魅力でした。
ありがとう
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2014年9月15日
「ズーイ」の冒頭に「散文によるホーム・ムーヴィーに近いもの」とあり、会話が多いこと、舞台がニューヨークであることから、ちょっと違うけどウディ・アレンの映画みたいだなと思いながら読んだ。
いろいろな読み方・感じ方のできる小説なのだと思うけど、私には(最近の個人的事情もあって)微妙なバランスの上に成り立つ家族愛の物語、という風に感じられた。
登場人物は7人兄弟姉妹の末の二人、ズーイ、フラニーと、その母親。そして、語り手である(らしい)次兄バディー。残り4人の兄弟姉妹と父親は直接的には登場しないが、登場人物の会話からなんとなく人となりはわかる。ある日の状況を描いているだけなのだけど、家族の関係性がわかる。はっきりとはさせていないのだけれど。
「エゴ」と「わかってる」という言葉が読みながら妙に引っかかってくる。7人の兄弟姉妹はそれぞれに秀才タイプで自己中心的である。自分勝手というよりは自我をうまくコントロールできないというか、思いをうまく表現できないというか。
演技や宗教に安直に逃げ場を求める中、家族のバランスを取ろうとして、それが結果として本当の表現や信教に繋がっていく。他者との関係性の中で自己の安定を見出していく。そんなお話に私には読めた。
決して素直ではないけれど、親の子に対する愛情、兄弟姉妹それぞれのそれぞれに対する思いなどが、会話の中のひと言や地の文での仕草や部屋の描写に表れていて、とても心に残る作品だった。
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2016年7月13日
 「フラニー」は、1955年一月〈ニューヨーカー〉に掲載された。グラス家七人兄弟姉妹の
五男ゾーイ―(訳者により、ズーイ、ズーイーと呼ばれている)と末娘フラニーの物語であ
る。グラス家の家族構成については本書に詳しく書かれている。七人は、世界的に有名なボ
ードビリアンであった両親レスとベッシ―に生まれ、天才的頭脳をもち、美男美女の子ども
たちである。ラジオ番組『これは神童』で活躍していた。長男シーモアは若くして自殺して
いる。双子兄弟のうちウォルトは占領軍で日本駐在時に不慮の事故で死亡している。従って、
現在生存しているのは、長女ブーブー、次男バディ、ウェイカー、ゾーイ―、フラニーである。
本書は、序章的な役割を果たす「フラニー」と、母親ベッシ―、ゾーイ―、フラニーが作中
人物になる「ゾーイ―」の二部構成である。

 フラニーは、大学で英文学を専攻し、演劇部に所属している。彼女とボーイフレンドでア
イヴィーリーグ大学生レーンの一日から始まる。週末の、イエール大学とプリンストン大学
のフットボール試合にあわせて、レーンがフラニーを駅に迎えに来ている。フラニーからの
手紙も駅舎で読み返してみた。手紙には、サッフォー以外の詩人は尊敬できない、と今後展
開していく芸術論の先行きが暗示されている。そして、会った瞬間から、二人の心理的なも
つれが感じられる描写になっている。フラニーが、心理的に「何か」に追い込まれている態
度をとることに、レーンが一向に理解を示さない。従って、最後までかみ合わない会話が続
いていく。「手紙ついた?」「どの手紙だい?」のやりとりに象徴されている。また、レー
ンに対して「会えなくてすっごく淋しかったわ」の発言に、「心にもないことを言ってしま
ったわ」と意識するほど、彼女の精神的な変調が現れている。変調は、レストラン「シック
ラー」での昼食時にクライマックスを迎える。フローベールの小論で「A」を貰ったレーン
は、その自慢話をしたくて饒舌になる。フラニーは「耳を傾けなければ」と思うが集中でき
ず上の空で聞いている。食事も、レーンの「蝸牛、蛙の脚」料理にたいして、フラニーは「
チキンサンドとミルク」で、それも食べられないほどである。二人の会話は、レーンの聞き
役でフラニーの「病」の原因が明らかにされていく。フラニーは「小さな陽光の温かな斑点
を見つめ、その中に寝転んでみたいという顔つき」になっている。

*「君の大学の英文科に優れた詩人で教授がいるね?」。二人の教授は「本当の詩人ではな
いわ」、「美しいものを何一つ残していないじゃない」。詩人については、サリンジャー中
篇『倒錯の森』が参考になる。おそらくフラニーが考えていたことは「詩を作る人」と「詩
を発見する人」の違いではなかったか、と思う。そして、学友については「かっこよく見せ
ようとするばかりで、みみっちくて、つまんなく、型にはまっているばかりだわ」と具体的
に「何が」不満なのか、個人的感情が優先してしまっている発言。会話を中断してトイレに
駆け込み「胎児のようにも見える姿勢」をし、五分間泣いていた。レーンは「胃の具合でも
悪かったの?」とフラニーの異変に気がつかない。

*「芝居のほうはどうなんだい?」の質問に、「演劇部はやめるの。自分が厭らしいエゴむ
き出しの人間」になっていく恐怖を感じている。「どこかに到達したいとか、何か立派なこ
とをやり遂げたい」とか、自分自身のエゴを強く意識し、それにうんざりしているのだ。

*「その本はなんだい?」と、彼女が大切にバックに入れ、持ち歩いている本について聞く。
トイレのなかで胸に抱いていたお守りのような本である。図書館から借りたという『巡礼の
道』。「ゾーイ―」で明かされるが、シーモアの机から持ち出した本だ。フラニーは、ロシ
ア人農夫が巡礼者になって「イエスの祈り」を繰り返す意味、その到達すべきところなどを
懸命に説明する。「この祈りを繰り返すだけで、祈る人の心臓の鼓動と連結し、何かが起こ
るのよ」。仏教の「ナム・アミダ・ブツ」を唱えることも同じだし、十四世紀に出版された
宗教書『無知の雲』にも同じことが起こると書いてあるし、インドの「オム」も同じよ、と。
 レーンは「それでどんな結果が出るの?」と冷静に理論的に迫ってくる。青白い顔になっ
ていく彼女が「神が見えるようになるのよ」と言うと、レーンは「心臓がおかしくなったり
するのかい?」、「宗教的経験には心理学的背景がある」と神秘性を理解しない。フラニー
は立ち上がり気絶してしまう。レーンは「朝ご飯を食べなかったとか、そういうことなの?
」と、どこまでも彼女の精神的悩みを感知していない。
フラニーの病の原因は、大学をとりまく高等教育に対する不満、演劇に対する自分のエゴに
あり、それらの苦しみを『巡礼の道』という宗教書と「祈りを繰り返す」ことで解決しよう
と模索していたようである。

 「ゾーイ―」は、1957年五月〈ニューヨーカー〉に発表された。次男バディが「グラス家
の記録映画」と書いているように、語り手はバディである。出演人物は、男一人ゾーイ―、
女二人、「いくたびか鼻をかむ癖」があるフラニー、古ぼけた家庭着を着ている軽演劇女優
タイプの母親ベッシ―である。舞台は、マンハッタンにあるマンションの五階。本編では、
序章でのフラニーの悩みに、ゾーイーがこたえ、フラニーを回復させていく内容である。バ
ディからの手紙を読み込み、自殺したシーモアの厚紙に書かれた「伝言」などを参考にしな
がら、説得していく。忘れてならないのは、ゾーイ―が有名なテレビ俳優であるということ
だ。愛する妹フラニーに対する様々な動作や声音などに「俳優」としての呼吸が感じられる。
バディが「純粋にして入り組んだラヴ・ストーリーである」と書いている。会話に宗教的な
側面が強く感じられるが、グラス一家で、神経衰弱におちいった末娘をなんとか救出してや
りたいという気持ちが読み取れる「愛情物語」である。「ゾーイ―」は、三つの構成から成
り立っている。 *「バディからゾーイーへの手紙」、*「ゾーイ―とベッシ―の会話」、
*「ゾーイーとフラニーの会話」である。

*1955年十一月、ゾーイ―は二十五歳、美貌でエスプリに満ちた顔つきをしている。浴室で
バディからの手紙(1951年三月十八日付け)を読んでいる。何回も読み返した形跡がある。
手紙から、フラニーを説得するにあたり、演劇や宗教について参考にするべく知識の補給を
しているのだ。
 演劇について、お前(ゾーイ―のこと)は、俳優として資質が備わっている、とか、チェ
ーホフの『桜の園』での「本当の見事な演出」を観たことがあるのかい?、とか、お前は「
現代すでになくなっているものを期待している(お前がすべてのものに対して期待しすぎて
いる)、(お前が一つのものごとから欲深く成果を要求する)」など。これらの表現は、フ
ラニーが演劇を続けることを促し、「太ったオバサマはイエスだよ」、という慰めの言葉に
つながっていく。

 宗教について、バディがスーパーマーケットで体験した少女とのやりとり(ボーイフレン
ドの名前に、ガールフレンドの名前も入っていたこと)に、教育とは「知」の獲得から始ま
るのではなく、「禅」でいうところの「無心(悟りの境地)」の追求する「非知」の獲得か
ら始めるほうがよい。従って、シーモアとバディは、ゾーイ―とフラニーに、「低次元の芸
術、科学、古典」よりも、宗教をまともに勉強すれば、「見かけだけの相違(男ともだち、
女ともだちの相違)」にとらわれないはずだ、ということで教育を引き受けたんだ。ゾーイ
―とフラニーは、兄二人の教育により、食事の前に「四弘誓願」を唱えなければ食事が喉を
通らないという。宗教教育が先行された二人は「畸形児」だと自認している。また、多くの
宗教家や教義を勉強しすぎたことが、フラニー自身「イエスの祈り」に集中できない理由か
もしれない。引き続いて、バディは演劇のこともゾーイ―に書いている。「技巧を超越した
美しい演技をするんだ」、と後にゾーイ―がフラニーにアドバイスする演劇論の一部になっ
ている。

*ゾーイ―が入浴していると、フラニーのことが心配になっているベッシ―が、いろいろな
口実をもうけて浴場へ入ってくる。「あんたはまだあの娘に話をしていないんだろう?」と、
新しい「歯磨き粉」やきれいな「タオル」を持ち込み、フラニーが「早く大学へ戻るように
説得してちょうだい」と繰り返す。そのための準備をしながら考えているゾーイ―にとって
は迷惑であるが、口論しながらも母親の気持ちをよく理解しようとしている。ベッシ―との
会話は、「髭剃り」から「爪やすり」を使う段階まで続く。『巡礼の道』の内容も説明して
やる。ベッシ―は、「チキンスープ」を飲んでくれない末娘が心配で、身近にいるゾーイ―
が頼りなのである。母親と息子の会話は、グラス家の温かい愛情が育まれてきたことを印象
づける、ユーモラスで感動的な時間である。「お前が早く結婚してくれるといいんだけど」、
「そろそろヘアカットをした方がいいんじゃないかしら」、「お前は肩幅がずいぶんひろく
なったね」など話を逸らすようだが「出かける前に妹と話をするつもりがあるのだろうね」
と念を押す言葉も忘れない。

*舞台は、浴場から「居間」に移動する。寝椅子には、フラニーが飼い猫「ブルームバーグ」
を抱き「こぶしを握って言葉なき抗議を示す幼児期の仕草」のような姿で寝ている。ゾーイ
―が葉巻をくわえ入ってくる。「じっとそこに立って眺めていた。それから優しく、葉巻を
持った手を妹の肩の上にそっと置いた」描写は、フラニーへの「愛情物語」の幕開けである。
俳優の役割を有効に使い、兄としての愛情がしみじみ滲み出るクライマックスへ通じる入り
口でもある。俳優の役割を意識しているのは、ゾーイ―の室内を歩く態度、窓外をなにげな
く見る姿勢、絨毯の上に寝転んだり、ピアノベンチで譜面をみたり、声の調子をベッシ―に
まねたり、会話と沈黙の「間(ま)」、顔の表情の変化などを巧妙に演出し、同時にフラニー
の顔色やしぐさが変化していくさまを観察している。

 フラニーの会話は、序章「フラニー」で表現されている内容である。やり玉にあがるのが、
『宗教概論』を教えている「タッパー教授」である。オックスフォード大学からの「貸与教
授」らしい。「自分は悟っているようで、いんちきご老体、私を嫌っているようだわ」との
のしり、大学も「地上に宝を積む(マタイ伝6章19節)いかれ狂った施設にすぎないわ」、
大学で「知識が知恵に通じるという話は聞いたことがないわよ」など高等教育に対する反抗
である。

 ところが、フラニーから「台本はどうなったの?」と質問がとぶ。この場面は「演劇部を
止めた」いうフラニーが演劇にまだまだ未練をもっていることを示す問いかけである。ゾー
イ―はフラニーの心理を読み計算しつくしている。テレビ仲間からの台本における自分の役
柄を説明し、フラニーの目線までなんとか降りていこうとしている。もちろん、ゾーイ―自
身も業界の「エゴ」を痛感したと発言たり、「おれと君は兄二人に畸形にされたんだよ」と
同情心をかい互いに慰め合うことも演技のうちだろう。三本の台本の役柄、「リック・チャー
ルズ」(浴場で読んでいた台本)、「多感な地下鉄車掌」、「若い農夫」などを説明し、精
神分析の用語、勇気と誠実さの重要性、巡礼者を思わせる話などをフラニーに聞かせたのだ
ろう。そして、5階の窓下の腰掛けに「まるでダンサーが特殊な姿勢を維持しているような」
優雅な恰好で、窓外の「少女と飼い犬」の光景を眺めながら「世の中には素敵なことがちゃ
んとあるんだ。ところが愚かにも脇道へそれていき、すべてを薄汚いエゴのせいにする」と、
ゾーイ―は「気難しい(苦み走った)顔」をしながら、徐々にフラニーの病巣に入りこもう
としている。
 絨毯の上に仰向けに横たわったり(ゾーイ―が横たわる場面が多い)、突然立ち上がる滑
稽さを演出しながら、「まだお祈りは続いているのかい?」と「ロンドン上流社会風の重い
なまり」で質問する。この場面はまさしく映画のシーンだ。主演男優の発言の「間」の素晴
らしさがが観衆(読者)に響いてくる。バディが「映画」と言っていることも忘れてはなら
ない。宗教論争の幕開けでもある。「世界中でどの宗教にも、偽善を正当化するような祈り
はないんだぜ」と、フラニーが意味もなく祈り、寝椅子に猫のように寝転んでいる姿を批判
しはじめる。「そろそろ君の偽善が悪臭を放ち、独善的になって来た」「やるなら甘えられ
ない大学に帰ってやれ」と、横たわった胸の上で指を組み合わせたままいう。「君は10歳の
とき、マタイ伝21章12節、6章26節を読んで、イエスが嫌いになった、と仏陀の方に赴いた
のだ」。ゾーイ―は、フラニーが本当のイエスを理解しようとせずに、「イエスと聖フラン
シスとハイジのじいさん(ヨハンナ・スピリ『ハイジ』)とまとめて祈っている」ことを非
難している。そして、「神経衰弱にかかる原因がここにあるんだ」と結論付ける。イエスの
ことだけを念頭において「祈る」ように諭している。「エゴ」の問題も、「エゴ」の判断は、
「神が最終的な決定権をもっている」、と。
 人生における「君の義務、日常の義務」をきちんと果たすことから逃避しているのではな
いか。たとえば、ベッシ―の「チキンスープ」をなぜ飲まない、レスも蜜柑を食べさせろ、
と気をつかっている。これらは神からの神聖な賜りものではないか。それを理解できないで、
どうしてイエスに祈ることができようか。ゾーイ―の宗教論はすんなり理解できるものでは
ない。ただ、妹への愛情をこめた言葉として考えればよいのではなかろうか。厳しい言葉を
投げかけたあと、「悪かったね、フラニー、すまなかったよ」と、シーモアとバディが使っ
ていた部屋に去っていく場面は、読者が感涙にむせぶにふさわしいシーンだ。

 ゾーイ―は、シーモアとバディの部屋からバディの声色を使ってフラニーへ電話するが、
すぐに見破られてしまう。「低次元の精神的助言に限られてしまったようだ」とゾーイ―自
身がフラニーに説教するような資格もなく、内容が「低次元だった」と謙遜している。「イ
エスの祈りは唱えたければやりつづけたらよい」と言われたフラニーの心理は想像がつくだ
ろう。
フラニーは、「不自然なくらいしゃんと身体を起こし座っていた」と、ようやく、自分に向
けられた両親や兄たちの優しさを感じたのである。そして、演劇の世界でも、「アーティス
トが関心を払わなければならないのは自分自身にとっての完璧さ」であり、観客の馬鹿さ加
減をわあわあと言うべきではない。「太っちょのオバサマ」のために芝居をやることだ、「
太っちょのオバサマ」はキリストなんだ。フラニーは、両手で受話器を握りしめていた。そ
して、「夢のない深い眠りに落ちる前の数分間、彼女は静かにそこに身を横たえ、天井に向
かってそっと微笑みかけていた」。

 本作品は、当時の大学教育への批判、宗教についての問題、芸術など、重いテーマではあ
るが、グラス一家の末娘への「愛情物語」「兄弟愛物語」として読まれるものだろう。シー
モアからバディへ、バディーからゾーイ―への手紙がフラニーの「病」を救う手段を果たし
ている。ただ、ゾーイ―が絨毯の上に横たわり、胸の上で指を組んだり、軽く手をポンと打
ったり、白いハンカチを頭に被る姿は、何を意味するのだろうか。イエスになったつもりだ
ったのか。「役者」としての効果をねらったのだろうか。

 なお、詩について、チェコの詩人ヤン・スカセルが言っている。「詩は詩人たちが勝手に
作り出すものではありません。詩は遠い遠い昔から、そこにそのうしろのどこかに存在して
います。詩人は詩を発見するだけなのです」(ミラン・クンデラ『小説の精神』)。

 訳本は、村上春樹、原田敬一、野崎孝を参考にした。各々素晴らしい感性で持ち味を発揮
した訳になっていると思う。三者の訳本をぜひお読みいただきたい。しかし、日本語に変換
されると、なぜこのような訳になったのか理解できない箇所があるはずだ。たとえば、仏教
用語の「四弘誓願」「四つの誓願」「四つの偉大な誓願」など。普遍的である「四弘誓願」
になぜ統一できないのか。「セクションマン」「特研生」など。「臨時講師」とは意味が違
うんだろうか。「貸与教授」「武器貸与プログラム」「貸与契約」など、「派遣教授」の意
味だろうか。『これは神童』『豆博士』『なんて賢い子ども』などにわかれている。理解困
難な表現や言い回しについては、三訳者本を読み比べるとわかりやすい。
 
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2016年11月18日
内容はぜんぶわかるので(参考程度に)別に買わんでも良いですが、現代作家がやったのを読むのも、悪くもなんともなく、良いことだと思います。サリンジャーはずっと好きで、とにかく関わるものも読み続けています。大工を屋根の梁を、と言うのも訳出してほしいです。
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2015年5月26日
内容については、他の素晴らしいレビュアーのコメントを見ていただきたい。
私がレビューしたいのは訳者についてである。
他のみなさんの言うように村上春樹が訳したものというのは、良くも悪くも村上春樹の匂いが付いて回る。
キャッチャーにしろ、フィッツジェラルドにしろ、カポーティ―にしろ。
そしてそのことを私は、いた仕方がないことと思っている(本人は、この作品では出来るだけ身を隠そうとしているようだが)。
なぜならそれによって良い面の方が大きいと思われるからだ。
村上春樹もあとがきの形で述べているのだが、この作品の特筆すべき点はストーリーはもちろんのこと、何と言ってもそれ以上に類稀なるサリンジャーの文体の奔放さである。
縦横無尽でかつパワフル。面白おかしくあるが、知的な要素もふんだんに編み込んでいる。
そして、原作を読んで見るとわかるのだが、サリンジャーは恐ろしくも、知的さにおいて優位に立つ語り部の言葉にスピード感をトッピングして、涼しい顔で、私たちの目の前にあるテーブルにそのゴージャスな料理を運び込んでくるのだ。
何とも憎らしいではないか。
その上で、その素晴らしい文体を加速させているのが、村上春樹の訳であると私は思うのである。
彼の訳はどこかこじゃれていると感じるかもしれない。
だがそれは、この知的さとスピード感のミックスというややもするとゲテモノになりそうな代物を村上春樹がどうにかして読者に味わわせようと非常に努力して訳を行った結果であり、彼なりの表し方なのだ。
そして、それを断固として受け付けないというの読者いるのなら、それは仕方がないというしかないのだが、私としては、それならその料理をこちらに回してくれと言いたいのだ。
これらの面において、村上春樹の訳を私は評価するし、サリンジャーの持つその魔力性をどうにかして日本語に置き換えようとした村上春樹の仕事の心づもり、その訳者としての力量に拍手を送りたい者の一人なのである。
一応付言しておくが、前訳である野崎訳も素晴らしいとは思う。だが、その知的な言い回しにおいては村上春樹の方が一歩抜きんでていると感じる。それに野崎訳は何よりも古臭い。訳はその質において変わらないのならば、最近の話し言葉に合わせた方が読みやすいし、心に響くことが多い。
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VINEメンバー2014年4月22日
私ははっきり言って、サリンジャーはどっちかというと苦手。いまいちよくわからない。学生時代に何度も挫折した。でも、村上春樹訳なら読めるような気がした。もうずいぶん前のことになるが、「Catcher in the Rye」はかろうじて読んだ。Fitzgerald の「Great Gatsby」はかなり楽しめた。なので、「Franny and Zooey」も村上春樹訳なら、筋くらいは読めるだろうと期待して本書を購入した。
「フラニーとズーイ」を読んで、「Catcher in the Rye」にも通じるところのある、世界観(というと大げさだが)のようなものが分かったような気がする。これが私には抹香臭いし、きな臭い感じがして、だから、私はやっぱりサリンジャーが苦手なんだと思う。なんか、若かった頃のうしろめたい思い出を穿り返されている感に耐えないからなんだろうと思う。もう何十年か経ってもっと自分が枯れてから読んだら、また違った感じがあるのかもしれない。

サリンジャーは自著の出版には、前書きやあとがきを許可しないんだそうだ。だからという訳で、翻訳者によるちょっとした解説文が別紙に印刷されていて、その内容が面白かった。(だから中古を買うとついてこないかも知れないが、ネットのサイトでも読めるらしい。)とくに、サリンジャーの魅力の一つが、その文体であること、原文のもつリズムが独特なのだという段は、以前に「Catcher in the Rye」読んだときに私自身そうじゃないかな?と思っていたことだったので、ちょっと嬉しかった。何度も決まり文句のように繰り返されるフレーズが出てくるので、韻を踏んだり、弱強のリズムだったりがあるんだろうと思う。

一読の価値のある一冊だとは思う。星3つは評価が低いのかもしれないが、私の好みの小説ではない。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も星3つだ。「キャッチャー」に星5つつけた人には、本書も星5つで良いと思う。
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VINEメンバー2014年3月14日
この言葉に出会ったとき、この小説に意味合いがはっきりとした。
自分ではなく、他人になりすますことが必要なのだと分かった。
宗教とはそういう側面もあるのだ。
非常に教訓的だった。
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VINEメンバー2014年3月12日
 サリンジャーは「ライ麦畑〜」を読んだのが最初ですが、以降サリンジャーの著作を読み続けましたがこのフラニーとズーイも25〜26歳の頃非常に感動した思い出があります。野崎孝訳を何度も読み返して理解しようと努めたと思います。フラニーはサラッと読めるのですがズーイになると難解な議論が続き途中で投げ出したくなるのですが、後半の電話あたりから兄妹愛溢れるズーイの健気な姿勢にいつも感激してしまいます。最後のFat Ladyの一言は僕もハッとしたセリフで宗教をどう感じるかという日本人ではあまり探究することの無いことではあったとしても非常に影響を受けた考えが記されていました。村上春樹訳は現代風な形で進められているのと読み手の我々も人生を重ねていくことで内容への理解力が高まっていたのではないかなと感じました。25歳くらいでの感想と57歳になった今の感想は大筋では同じですが、サリンジャーが言いたかったことを少し先に進んだものとして受け止められたことは読後非常に満足できました。

 付録に着いていた村上さんの「あとがき」も傑作で、我々のようなアマゾンレビュー達が書きそうなことを含めてすべてを語っているような判りやすさがありました。村上さんも一人の読者としてサリンジャーと向き合っていたんだなぁと親しみを感じました。素晴らしい翻訳ですね。
 作品のレビューを読んでいつも疑問なのはアマゾンで購入もしていない輩たちのレビューと購入した方々のレビューを区分けしてもらいたいなぁと思いますね。こういうのは公平ではないような気がしますけどね。「参考になる・ならない」という評価も疑問が多いですね。別に参考にしてほしいと思ってレビューしているわけでもなく感想を書いているだけの人が殆どでしょうしね。自分の意見を参考にしろという考えで書くのも傲慢だと思いますけどね。
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2014年3月12日
村上氏の翻訳によるサリンジャーの古典の新訳だが、村上氏が「面白い」と絶賛する程の内容には映らなかった。村上氏の評の原点は<文体の自在さ>にある様だが(少なくても3種類の使い分けがある)、如何せん、村上氏の力量を持ってしても翻訳では一般読者にその面白さは伝わって来ない。

また、本作のテーマが極めて曖昧な点も、現代の読者にとって馴染みを薄くしている様に思った。「ライ麦...」という先行作があるので、当時のアメリカの若者の反戦(反権力)指向に基づいた自由への渇望を新鮮な文体で描いたというだけでは本作の意味合いが薄い。本作を読んで誰しも感じる点が<宗教>であろう。実際、作者は本作執筆当時、東洋思想に傾倒していたらしい(鈴木大拙の名前が出て来るのには驚いた)。作者は一貫して「<祈り>続ける」事を主張しているが、イエスの否定とイエス絶対主義とが交互に語られ、到達点が良く見えないのである。東洋思想と考え合わせれば、"誰"という対象は別として、「<祈り>続ける」事によって、スノビズムや権力からの束縛を逃れられるという事なのであろうか。

ストーリーの起承転結といった、物語の構成手法に惹かれる読者には正直向かない作品だと思う。思想小説の趣きがある(作者の意図ではないかも知れないが)点から、1950~60年代の思想的潮流に詳しくない読者にも向かないと思う。サリンジャーに個人的興味があり(その作品の変遷を知りたい等)、かつ原語でその作品を読んでみる意欲を持った方向きの作品なのではあるまいか。
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