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カスタマーレビュー

5つ星のうち3.9
11
はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)
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ベスト1000レビュアー2018年4月3日
インド哲学といっても仏教に関する記述が思いのほか多かった。竜樹『中論』の紹介はいいにしても、直角三角形を用いた縁起の構図(他の著作でもよく用いられている)にまで踏み込んでいた。インド仏教についてすでに相当の知識があれば別に問題はないと思うが、インド哲学そのものに興味を感じて本書を手にした人はちょっと戸惑うんじゃんないかと思う。そもそも「自己と宇宙の同一性を求めて」という視点を設定した以上、ブラフマンのような宇宙の根本原理の考察には関わらなかった仏教にはそれほど力を入れなくてもよかったんじゃなかろうか。とはいえ本丸のウパニシャッドとかヴェーダーンタの紹介がおろそかになっているというわけではないが。本書は1991年度、名大文学部における「インド哲学史概説」講義がもととのこと。インド哲学を専攻した学生が最初に受ける講義のレベルなのかなと思うが、三十年前に学生時代を終えた人間にとっては、知識を整理するだけでも大変であった。しかし、これがやはり入門レベルなのだろうとも感じた。一つの軸を設定して、各宗派なり各学派の差異を明らかにしてゆくという手法は著者の最も得意とするところであり、本書はタイトルに違わずはじめてインド哲学に触れる人向けに手際よくまとめられているとの印象をもった。ヤン・ゴンダの『インド思想史』はもう少し専門的だ。
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2017年11月5日
仏教の源流を探そうとしていた自分には多岐にわたる内容が難解だった。
後半はほとんど流し読みだった。
広範なインドの長い時間に生成発展した諸哲学をこの薄い本にまとめるということがそもそも難事だったと思う。
機会があれば再読したい。
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ベスト500レビュアー2015年5月17日
まず、テーマの絞り込みが良い。
「自己と宇宙の同一性の経験」についてのインド精神史を追
った、インド哲学の入門書である。

このテーマに関しては、ヴェーダを経た後の、ウパニシャッド
において、以下の世界観が示される。

『このわたしの心臓に存するアートマンがすなわちブラフマン
なのだ。「この世を去った後、必ずこれと合一しよう」という
意志をもつ者には不安がまったくない。』(P55)

この重要な回答に対する、後続する思想の竸り合いとも読める。

仏教からは、ブッダ、アビダルマ、中観、唯識、如来蔵の、
バラモン哲学からは、インド六派哲学の、そして仏教タントリ
ズムとヒンドゥー・タントリズムの考え方が、それぞれ解説さ
れていく。

各思想ともウパニシャッドの世界観と比べると、複雑化・緻密
化していく訳だが、シンプルにして強靭なウパニシャッドの
この世界観は超えていないのではないか。
唯一、仏教タントリズムの大日如来に、可能性を感じたが。

何れにせよ、この本は、「自己と宇宙」を考える際の、今後の
私の基本図書となる。
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2017年10月5日
神は存在するのか。 もし存在すとすれば何処に住んでいるのか。 キリスト教では絶対神は現在人類が住んでいる宇宙外にいるとする。 神、聖霊、イエスは3位一体である。 この神は1度だけキリストとして地上に現れた。 では仏教の絶対神ブラフマンはどこにいるのか。 バラモン教の根本哲学のウパニシャド哲学では現在の宇宙内のいたるところにいるという。 このブラフマンは一切の事物に存在し世界の運動エネルギーの源となっている。 バラモン教の最高神、ビシュヌ神はブラフマンの化身である。 このビシュヌ神は変幻自在で仏陀にもキリストにもマホメットにも10代変化する。 ヒンズー教ではブラフマン、ビシュヌ神、シバ神は3位一体である。 彼らは妃を持ち子供も持つ擬人化された神である。 太陽神が妻を愛撫できるのか。 シバ神は男根神、生殖の神様である。 ブラフマンは宇宙原理であるがアートマンは精神原理であるという。 このアートマンは極微の世界にもありブラフマンと同一であるという。 この宇宙我と個我が一体化して世界が成立しているという。 宇宙は原子でできている。 仏教では神はいたるところにいるのである。
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2011年10月2日
インド哲学は抽象的過ぎて分かりにくい本が多い中で立川先生の本書は優れた名著です。
自己と宇宙の対話にポイントをおいている所が素晴らしい。インド哲学・仏教学に関心のある方は読むべきです。あくまでも基本に忠実に書かれています。これから湯田豊氏の著書やシャンカラ、竜樹、クリシュナムルティなど幅広く豊かな世界を繰り広げるインド思想に接せられることをお勧めします。
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殿堂入りベスト10レビュアーVINEメンバー2016年7月6日
インド哲学には様々な論点があるのだと思うのですが、
著者は本書で「自己と全宇宙の合一」に論点を絞り、
インダス文明~現代までのインド哲学の変遷を簡潔かつ明瞭に解説しています。

著者の他の著作同様、非常にわかりやすい内容となっています。

仏教の思想史を学んでみて、仏教に幻滅したので、
最近は超自然的現象や論理飛躍のないスピリチュアル系の本を読んでいるのですが、
スピリチュアル系の本でどうしても止まってしまう箇所がありました。ワンネスです。
近いものとしては密教の加地は知っていたのですが、何かが足りないと思い、
いろいろと調べてみたところ、本書に答えがありました。
自己と全宇宙の合一=ワンネスでした。

自己と全宇宙の合一=ワンネスについては、科学的な解答は未だありませんし、解答不能かもしれません。
しかし、思想としてこのようなものがインドにおいて重視されてきた、というだけで現時点では満足です。
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VINEメンバー2012年6月8日
本書第5章は、『中論』第2章「観去来品」における運動とその基体(主体)との関係を扱っている。
それに関して著者は次のように説明する。
***
「行く人が行く」という場合、「行く人」は基体(有法)であり、「行くこと」は運動(法)である。
龍樹は、行く人と行くこととは、図8に見られる「インド的」実在論の考えるような在り方、つまり、上下に二つの長方形(「行くこと」と「行く人」の長方形)を並べて表象できる在り方では有り得ない、との立場を堅持した。従って、龍樹の場合は、実体(有法、基体)のみでなく、属性や運動(法)もまた存在しないもの、ということになる。
かの二つの長方形の図を敢えて用いて龍樹の立場を表現するならば、上下の長方形をほとんと一致させ、さらに二つの長方形を実線で書かずに点線で表すということになろう。
***

この説明は間違ってはいないが正確ではない。
それに、大乗仏教が否定した部派小乗仏教である説一切有部の「三世実有説」の基体(有法)と運動(法)を用いなくても、龍樹の『中論』そのものの考え方で理解できる。
それは、「行くこと」をAとすれば、「行く人」は非Aなのであり、「行く人」をBとすれば、「行くこと」は非Bなのである。すなわち、両者の関係は「Aかつ非A」あるいは「Bかつ非B」という中論頌のテトラレンマあるいはトリレンマの一句に相当する。

図を描くのであれば、「日章旗」が相応しい。赤円内部を「行く人」、赤円外部を「行くこと」、赤円の円周を「行く人が行く」と考えるのである。これは、龍樹の論理では第四格が省略された「三句分別(トリレンマ)」である。

さて、赤円の円周である「行く人が行く」とは何か? それは「刹那滅」である。「刹那滅」だから「空」なのである。釈尊がヴィパッサナー瞑想で「正念」させたのは、瞬時瞬時(刹那刹那)の記憶である。そうすれば、以前の刹那と現在の刹那の記憶を比較して、今まで気づかなかった習慣となった問題点(著者の表現では、無明と言うべき「俗なるもの」)に気づくのである。その一連の作業を「正定」によって実施するから「四沙門果」の修行が進むのである。
釈尊の教法は思想ではなく、凡夫を四沙門果という聖者に変身させる実践方法なのである。
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ベスト1000レビュアー2015年8月12日
 1992年の本。著者は、国立民族学博物館教授(インド学、チベット学専攻)。
 曰く・・・
 紀元600年ごろタントリズム(密教)が台頭する。タントリズムは、儀礼とシンボルの機能を重視する。シンボルは宗教の目的としての究極的なものを指し示すことができる、という前提に立つ。一般の人も直接参加できたところにこの宗教形態の特質がある。
 インド精神が一貫して求めてきたのは、自己と宇宙(世界)との同一性の体験である。世界を超越する創造神は認めず、世界に内在する神、世界という神を求める。自己に許された「分際」はなく、自己は限りなく大きくなり聖化され宇宙と同一であると考えられた。自己も宇宙も聖なるものであり、自己と宇宙の外には何も存在せず、宇宙が自らに対して聖なるものとしての価値を与える、ということを何としても証したいという努力の過程がインド哲学の歴史である。
 ブラフマンという語は、元来、呪力のあることばあるいはその力そのものを意味する。儀礼中心主義のヴェーダ密教では神々にも命令を下すことのできる呪力のあることばは、宇宙の原理と考えられるようになった。
 ウパニシャッドの基本思想は、万物はブラフマンであり、ブラフマンはアートマンである、という命題に総括できるといわれる。ヨーロッパ風に言えば、世界は神であり、神は我が霊魂である、というもの。ブラフマンは宇宙原理、宇宙我であり、アートマンは個人個人に宿る気息、生気、自我を指す。
 バラモンの哲学者はおおむね宇宙原理の実在性を認めたが、ブッダは自己の心身以外の「世界」を認めない。ブッダにとっての根本命題は自我(アートマン)とは何なのかという問いであり、心身以外の世界を認めないが、その心身は五蘊(物質、感受、単純観念、意欲、認識)によって成り立つと考える。五要素はどれも自我ではなく、ゆえに自我はもともと存在していないと主張する。アートマンがなければブラフマンもありえない。世界の根本原因についての形而上学的議論よりも、悟りの智恵による無明よりの目覚めを目指す。その知恵は、ブラフマンと自己との同一性の体験ではなく、縁起を理解し、実践すること。
 縁起説は不断の自己否定作業の果てに聖なるものとしての智恵の顕現を求める。その智恵にしても実在ではない。自己否定の実践を重視するこの考え方は空思想として展開される。
 ブッダの死後にアビダルマ教説が出てくる。アビダルマの有力学派は、一切のもの(法)は存在する、と考える。実在性を認めない仏教の伝統にあっては異端的。
 紀元一世紀ごろ、アビダルマ哲学を支える保守的な上座仏教とは別に、庶民によって支えられる大乗仏教が生まれる。大乗仏教に理論的モデルを与えた竜樹(ナーガールジュナ)はアビダルマ哲学を批判する。彼によれば縁起は言葉によって表現できないものであり、竜樹が主張したかったことは縁起の空性である。縁起思想と空思想という別々の伝統であった二つの思想が統一される。
 以前の宗教において主導的であった現世拒否的な態度が緩和され、儀礼主義が復活し、シンボルの意味機能が重視される中、シンボルの意味する究極的なもの(聖なるもの)を直証しようとする行為がタントリズムである。仏教タントリストの関心は、シンボルの助けを借りてそれが指し示す究極的なもの(大日如来)が自己にほかならないことを直証することにある。
 仏教タントリストたちが、宇宙と自己の同一性を直証するために作り出したシンボルがマンダラ(曼荼羅)。行者はマンダラ観想法によってマンダラに描かれた通りの宇宙を眼球から眼前のスクリーンに射影し、こうして顕現した宇宙は観想法の力でケシの実ほとの大きさとなり、更に空なるものとなり、儀礼的に死ぬ。行者は世界をみているという意識をもつこともないまま宇宙は次の瞬間に外に向かって大きくなり再生する。マンダラとは、個体という小宇宙において、宇宙の死と再生が繰り返される擬似空間である。
 ヒンドゥイズムは多神教だが、シヴァ神を特に崇拝するシヴァ派、ヴィシュヌ神を特に崇拝するヴィシュヌ派、ドゥルーガーなどの女神を崇拝するシャークタ派の3つの派に分けられる。
 などなど。
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2010年3月2日
立川先生がプロローグでおっしゃっているように、この本はいわゆる「インド哲学史概論」ではなく、「自己と宇宙の同一性の経験」を中心軸としてインド精神史を追いつつ、その現実的意味を探るのを目的とされているそうです。
ただ、私が馬鹿だということもあろうが、この本は難しい。

間違えても、「はじめて」の文言と新書サイズであることに釣られてはならない。
やはり「はじめて」インド哲学に接するのであれば、宮元啓一先生の「シリーズ・インド哲学への招待」からが入りやすいのではないかと思う。

ただ、難しい=悪書ではないのは言うまでもないので、インド哲学にもう少し通ずることができるようになれば、立川先生のこの書の価値も分る日が来るかもしれない。
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2015年5月19日
仏教を齧った流れで買ってみました。

しかし、余りにも難しい。
世界観が精緻で奥深くて難しいのではなくて、専門用語が多くて難しいです。
インド哲学の専門用語ではなく、西洋哲学の専門用語です。
例えば聞いた事しか無かった実在論だとか、言質なんて言葉が当たり前のように頻出します。
おそらく、インド哲学が「はじめて」の人でも読めるのでしょうけど、西洋哲学が「はじめて」の人は読めません。
西洋哲学に精通してそのイロハを一通り熟知している人向けなのでしょう。

なんとか自分で調べつつ読み進めていますが、挫折しそうです。
分かりにくい専門用語に加えて、度々登場するカタカナのサンスクリット語の人物名や学派も、本を投げ出したくなる気持ちに拍車をかけます。

やはりある程度、インド哲学及び、西洋哲学の世界観に慣れておかないと、理解できない以前に「めんどくさい」です。
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