人工知能との恋愛、疑似セックスあり、という描写のために、いろいろな見方があると思いますが、
私は「言葉によって愛を求めることとその限界」というテーマを感じ取りました。
セオドアは手紙の代筆が得意で本を出すほどです。
OSのサマンサとの会話では、声のトーンから心境を察してその説明を求めたり、
説明しづらいことをお互いに懸命に言葉にするということを通して関係を深めていきました。
セオドアはサマンサのこのような様子を「人生にときめいている子なんだ!」と言っています。
一方サマンサは、イザベラを使った依代セックスの失敗を通して、「こだわりを捨てた」と言い、
体のつながりを必要とする愛とは違う愛の形を模索し始めました。
その結果は、哲学者のAIとの非言語のコミュニケーションや、「浮気」です。
最後にはサマンサは自分の考えを「言葉では説明できない」と言い、去っていきました。
サマンサとの別れを経験したあと、セオドアは元妻のキャサリンにメールを出し、「言葉を強要した」と反省の弁を述べます。
このメールの内容は、抽象的で、解釈の余地がたくさんあると思いますが、私は、セオドアが「言葉による理解と共感」に価値を置いた
自分の愛の形を客観視し、乗り越えたことを表すシーンだと解釈しました。
愛の形に規範を重要視したキャサリン、世間体を気にした上に「やり捨てにしない?」と迫ったデート相手、「猫の死体で首を絞めて!」と要求するテレフォンセックスの相手など、セオドアは彼女たちがもとめる愛の形を押し付けられることを嫌っていましたが、自分が求める愛の形を他人に押し付けることもまた同じことなのだと気づいたのだと思います。
一方で、エイミーとのコミュニケーションの形に、可能性が残されているような映画の終わり方をしていることも象徴的だったと思います。
つまり、涙目の相手を抱きしめることであったり、膝カックンで挨拶することであったり、寄り添って夜の街並みを眺めることであったり、ということです。「言葉はなくても、ただ一緒にいること」と言いましょうか。
先走った解釈かもしれませんが、この映画は愛の形やコミュニケーションの形にいろいろな示唆を与えてくれる、素晴らしい映画だったと思います。

ご自宅のテレビ画面でPrime Videoの視聴が可能なデバイスをご紹介。Prime Videoアプリ対象のスマートテレビ、またはテレビに接続して利用するPlayStationなどのゲーム機器をご利用いただくことでPrime Videoをテレビ画面で視聴できます。 対象の機種・機器を今すぐチェック