カスタマーレビュー

2006年3月5日
 いつにも増して、幾多の視点、問題点が目まぐるしく提示され、その流れの行き着く先が見えない。一見、思いつきの連鎖のようにも見える。そう、読み始めは。ところが第五章あたりから、霧が晴れたように論旨の中心が見えてくる。終章から逆読みしていくと良いかもしれない。

 この本、憲法前文の連作、「物語の体操」、「サブカルチャー文学論」、「物語消滅論」、「憲法力」といった大塚の最近の仕事の意味を包括的に捉えるためのハブのような役割を果たしている。“大塚はネットを過小視してるんじゃないか?”と浅はかなヨミをしていたんだけど全く違った。“ネットにさわらない”大塚だからこそ、 “ネットの力”を客観的に掌握していることが、この著書でわかった。

 “「私」の存在証明”“自らが発信者になりたいという欲望”が活字メディアと結びついたのがそもそも“近代文学の成立”だったのではないか、と大塚は言う。ところが「近代文学」は、「作者」となった側が「読者」との間に一線を引くことで特権化し、「誰でも発言者になれる社会」への可能性を見失ってしまった。「コミケ」はひとつの突破口で、あれは“「受け手」が大挙して「送り手」の側に越境していく、巨大な運動だった”。大塚は決してそうした欲求、運動を全面肯定する訳ではなく、“表現したいものがあるから表現するのではなく、送り手になりたいからこそ、「本」を作る必要があり、そのために「まんがを描く」のだ”といったシニカルな指摘も忘れないが。そしてネット、ブログは、「近代文学」の早回しの再現であり、今度こそ、「あなたたち(「既得権」としてのマスコミ)は私たち(ブロガー)とどう違うのか」という、「送り手」となった「受け手」の問いに答えていくべきだと大塚は言う。もう一歩先の論議、「公民の民俗学」につながってく部分はまだまだ弱いけど、ちょっと可能性を感じられる著書だった。
12人のお客様がこれが役に立ったと考えています
0コメント 違反を報告 常設リンク

商品の詳細

5つ星のうち4.6
5