カスタマーレビュー

2011年7月20日
 第一章で、なるほど、“転向”とはアプリケーションソフトの安易な乗り換えと、今風には喩えられるかと気付かされた。著者も記すが、それが単にソフトの更新なら、(近代的知を拘束し続けた)思想的問題はもはや消滅(時代遅れ)だ。今や、近代を担保してきたOSの耐用年数が尽き、このOS上で作動してきたソフトの動作不良(やフリーズ)が多発し、OSの更新とか新たなOS開発こそ急を要するというわけだ。
 こんなコンピュータの喩えで現状を捉えれば、問題の所在の何割かは確実に脱落すると著者は一応断るが、本書はコンピュータ化する現代に徹底して(一冊丸ごと)拘った書だ。コンピュータに触りもしない著者がどうして?とも思うが、その立ち位置ゆえの発見かもしれない。
 著者は、この現在に生ずる諸現象に危機感を持つが、コンピュータが誰でも創作者になれたり(創作支援ソフト)、発信者になれたり(ネット)という、近代の(夢を)実現可能にする技術であることは一方で認め、それゆえ現状を両義的に捉える。書くことや発信することは、近代の必須の与件にも拘わらず、かつてそれらは特権化・ギルド化し一部の者たちが独占し、近代は徹底しなかったのだから。
 で、ネット上に記されていく(生成する)無数のことばは、近代の黎明期に言文一致体で無数の「私」が立ち上がったように、新たな共通言語を求めながら無数の「私」が立ち上がる、近代のやり直しの光景ではないか、と著者は捉えてみる。著者に見える現状からは、ネット上に現れつつある「私」の奇形化等で楽観的にはとてもなれないが、その現状を近代のやり直しへと何とか向けるべく、幾つかの具体的(思想的)方策も示す。それは著者ならではの(一連の仕事を踏まえた)貴重な視点で、目を通す価値は十分ある。
 著者の視点への反論までいかないが、少し疑問を記してみる。著者は、ネット上の無数のことばを、共通言語を求めつつ「私」を立ち上げる、近代のやり直しの光景と捉えるのだが、著者も記すようにネットは無数のスレッドに分かれ(言葉も通じぬ)細分化が急速に進んでいるという。すると、ネット上のことばが求めているのは、本当に新たな「共通言語」なのだろうか?
 むしろ、求められているのは新たな「方言」ではないか。新たな無数の「方言」による無数の「私」の立ち上げ――それはあり得ないことだろうか? その見かけ上の(近代の見立てによる)ひ弱さを、あまり早急に否定しなくていいのではないか。新たな「共通言語」の確立は、その後の(あるいは、同時か?)の課題かもしれない。現今の、広い意味でのグローバル化こそ、近代を成立させていたOSにとどめを刺したのだろうが、それは実のところ、新しいローカル化を浮上させ、そこに新たな可能性が見え隠れしていないか?
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