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カスタマーレビュー

2019年2月28日
プロレタリア文学といえばイデオロギー先行の芸術性のないオワコン……という紋切型理解も、いいかげん廃れてきただろうか。プロ文がモダニズムに背反するどころか新感覚派と軌を一にした表現的革新を目指していたことは、研究者ならば島村輝「「新感覚派」は「感覚的」だったのか?」(2011)あたりを引くかもしれないが、本書では当然の構えのように冒頭に「モダニズムとしてのプロレタリア文化運動」(中川成美序論)を解明するという目標が掲げられていて小気味よい。いや、それ以上に痛快なのは、プロレタリア〈文学〉ではなくプロレタリア〈文化〉へと射程を広げることで、単なるお原稿書きでしかない貧相な芸術観を捨て置き、演劇、美術、メディア、ジェンダーなど総合的で複雑な錯綜をみせる組織体として戦前左翼運動が甦っている。文学に対して政治の優位性を訴えることも、それは偏狭だといって文学文学と連呼することも、村田裕和論文が述べるように、「スポーツから法律までを視野に収めていた」種々の文化運動を切り捨てて成り立つ図式だ。「ここでもう一度、プロレタリアートの〈文化〉とは何かと問うなら、それはプロレタリア文化運動の指導者たちの中ではなく、文化運動にたずさわった末端の人々の日々の実践のなかにあったといわねばならない」(村田論文)。理論家にNO。専門家にNO。作家先生にNO。いまここで文化しろ。研究も闘争も、研究という名の闘争も、まだ始まったばかりだ。同志求ム。
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