他力本願のすすめ (朝日新書)
カスタマーレビュー

★☆☆☆☆ ひどい本。
 ├2012/9/19
 ├参考になった(45人中40人)
 └ちひ

一般の人や作家(五木寛之氏など)が「他力」や「他力本願」を完全に誤解した上で説明するのは、残念だが、まあ、よくあることである。「ひとまかせ」という意味で得々と語られるのはさすがに減ってきた印象もあるが…。

だが、この本の著者は、本願寺派の僧侶であるのに、真宗の他力本願とは違う、独自のオカルトを「他力本願」と銘打って他人に勧めようとしている。やめてほしい。

「わたしの往生浄土は、すべて阿弥陀如来の本願力によるのであり、わたしの「はからい」が差し挟まれる余地がまったくない。わたしがわたしの往生浄土の条件に一切関わらないからわたしはお浄土に往くことができるし、阿弥陀如来と同じさとりを阿弥陀如来の力でいただいて成仏することができる」。

これが他力や他力本願で語られるべきことである。

他力は、この本が言うような、「自分の思いに都合よく(結果的にであれ)はたらく何らかの力」(取意)ということではない。そこを他力と言ってしまうと「ひとまかせ」の意味に限りなく近くなる。

他力本願によってご信心をいただいた後の日々の暮らしは、往生浄土を自分で何とかしなければならない!という心配がなくなっているので、「肩から力が抜けた感じ」にはなる。しかしそれを評して「自力が抜けて他力になっている」とは言えない。それは単に、浄土往生とは関係のない、自力でやっていかなければならないところから「悪い力」が抜けているだけのことである。浄土真宗の教えは「他力だから日常も何もかもすべておまかせ」ということではない。

また、わたしの往生浄土が決まるのも日々の暮らしもすべて縁起の法の中である。そして、縁起の法というのは、自分に都合の良い相互関与的な関わりだけを言うのではない。自分に都合の良くない巡り合わせも、縁起の法の中の出来事なのである。

これは「諸行無常」と似ていると思う。人が亡くなったり何かが滅んだりするのだけが「無常」なのではない。人が生まれるのも、成長していくのも「すべては変化していく・うつろいゆく」という無常の性格そのままの出来事である。都合の良いことを「無常」で語らないというのなら、それは真宗でないのみならず、仏教でさえない。

この本は、その前者だけ、自分に都合良くはたらく自分以外の何らかの力を「他力」と都合良く珍解釈している。「わたしをお浄土に導くために、阿弥陀さまのはたらきがこの世界に充ち満ちている」という文脈で語りたいのなら、差し当たって都合悪くはたらくように思えてしまう力をもその場合の他力には含めるべきなのに、そうしていない。ひどくおかしい。

勉強していないことを勉強したかのように語ってはいけない、わかってないことをわかったと勘違いしてはいけない、野狐禅は野狐禅でしかない。……そのことをわからせてくれる本。

参考文献の紹介の仕方にも本当にあきれた。親鸞会の本を「安心して読める」と言うなんて本願寺派の僧侶としてどうかしている。今からだって遅くない。本物の真宗をお聴聞してほしい。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言いたい著者の気持ちはよくわかる気がする。悩んでいる人を見ると放っておけないのが僧侶であるから。しかし、言い方はきちんと考えなければならない。「他力本願」をこんなふうに間違えて解説すべきではない。

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