「神仏」とは、国家成立と同時に生まれる。
そして、精霊の祀られていた場所に神社が建つようになると居場所を失った「古層の神」たちは神社の脇のささやかな祠や道ばたの粗末なところに放置されるようになってしまった。
禅竹は、猿楽の創造空間を「六輪一露」であらわした。
1 寿輪。未分、完全な円として描かれる、万物を生む器である(序)。
2 竪輪。始めに分化が起こった状態の円として描かれる、万物を生む器である。円の真ん中を直線が突っ切る(破)。
3 住輪。差別世界が将に生まれ出ずる状態(急)。円の下部に杭のようなものが描かれている。それは、「幽玄」とも言う。
そして、「翁」とは、寿輪で動きを開始し、竪輪において立ち上がりを見せ、住輪において出現を果たし身体運動の後再び潜在空間に戻っていく。潜在空間と現実世界との境界に形成される薄い膜のようなものを通して不断に出入りを行っている。
4 像輪。現象世界、その背後には寿輪、竪輪、住輪がある。
5 破輪。「壊し力」をあらわしている。輪の内外を自在に行き来して広大無辺の法界に遊ぶ。
6 空輪。寿輪と同じく完全な円として描かれるが生成した世界を消滅させた後に残る空として深まりを持つ空である。
「一露」とは、潜在空間にも現象世界にも偏らない。概念にせよ物質にせよ障害とならない自在無礙、宇宙全体が一露となるということである。
ところで、禅竹とは「幽玄」を潜在空間と現象世界とのトポロジー構造として捉えていた。メビウスの帯、クラインの壺の構造のように。その時、区別はなくなるのである。過去・現在・未来も、という事は生者も死者も。動物も、植物も、石も、山も、川も、外も内も、何もかも。行き来出来る時空間となる。
そして、その時空間は「ここにも」、「いつでも」遍在しているのである。
一言で言えば、世界は「幽玄」の構造をしている。
日本には哲学はないと云われているが、それは「西欧的な意味」でのと言うべきであろう。
「哲学」を語ることは少なかったが、その代わりに芸能や芸術を通して極上の哲学を語ってきたのである。(中沢新一)
600年前、禅竹はそのことを語ったのである。「禅」の生ずるところであり、「神道」の生ずるところであり、「シャーマニズム」の生ずるところであり人類原初の思考である。
現代のわれわれにとっては、それは「非僧非俗」に生きるということであろうか。
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