25年前に出版されて批評家に激賞された小説。主要登場人物は哲学者だが哲学小説ではない。主人公ウィトゲンシュタイン、副主人公にバートランド・ラッセルとG.E.ムーアを配し、だいたいのところ史実に忠実に、実際の書簡を散りばめつつ、ウィト青年が二十世紀哲学を支配することになる一冊の本(『論考』)を生み出すまでの「青年の遍歴」を描く。しかし著者は「これはフィクションです」と言っている。へぇ〜。
最近クルト・ゲーデルとアラン・チューリングを題材にしたJanna Levin女史の小説を読んで感激したもので、長年本棚で読まれずに干からびていた本書を取り出してみた。私が所有しているコピーにはDavid Leavittによる「まえがき」はない。新装版を見て、なんでここにDavid Leavittが絡む?と思いきや、この方は最近チューリングやG.E.ハーディを題材にした小説を書いていたのだった。再び、へぇ〜。
David Leavittったら「ゲイ文学」の有名作家である。違っていたらゴメンナサイだが、本書の著者氏もゲイなのではなかろうか。ちなみにJanna Levin女史は物理学者だ。これはひとつのコトであるなぁ、と思う。文系人間が、メタ言語、メタ数学の領域で血眼になって何やらやっているような人間の内面を探索するにあたって、「ゲイ」という要素は果たして有効な入口になるのであらうか。数理ロジシャンの頭の中身は、「小説家の想像力」で捉えられる領域にあるのだろうか。Janna Levin女史の場合には、まず「不完全性定理」への理解と愛があったのだが。
華麗な文才が披露された小説ではある。背後に膨大なリサーチ量を感じるし、情熱が筆に乗っており、その波動が読者に伝わる。陳腐な文章や陳腐な心情は一行もない。しかし、プロット展開のない「小説」を600頁読むのはなかなか辛いものがあって、第一次大戦勃発までに何度か途中放棄したくなったりもした。さらには、ユーモアを持って高踏と卑俗を渡り歩き、異性も含めて周囲からの影響に翻弄されつつ幾分軽薄ながら様々な体験をしていくラッセルの大車輪人生の方が読んでいて楽しかったりする。一貫して傲慢で一貫して陰鬱なウィト青年がいささか単調な主人公に思えてくる。とは言ってもこれは好みの問題で、私は『若きウェルテルの悩み』のウェルテル君を「なんだよコイツ〜〜」としか読めなかった人間なのであった。著者の「フィクションです」との予防線を一発信用してみようか、という方は、「長い!」のを覚悟して、どうぞ。