メディア掲載レビューほか
沖縄民謡界の最高位に君臨し、多くのミュージシャンへ影響を与えた登川誠仁の代表ナンバーを収録。プロデュース&デュエットで、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬が参加している。
-- 内容(「CDジャーナル」データベースより)
登川誠仁の芸風を決定づけているのはウーマク(わんぱく)かな、と思う。1930年生まれ。2001年で71歳。物心ついた頃から実家近くで行なわれる毛遊びを聴いて育ち、10歳の頃には毛遊びに出て夜遅くまで三線を弾いていた。おかげで学校は遅刻ばかり。それでも授業をサボって三線を弾く毎日、イタズラも人一倍で先生に殴られてばかりいた。この出っ張った性格は戦後、米軍統治下の混沌とした時代になってさらにエスカレートする。戦後の沖縄芸能復興の核となった三劇団のひとつ「松劇団」で地謡として唄三線の基礎を身に付けた後、喜納昌永、津波恒徳を誘って沖縄初の民謡グループ「三羽ガラス」を結成、その一方では米軍の物資集積所に命がけで忍び込み、銃弾をかいくぐりながら“戦果”と称してさまざまな物資を抜き取っていた。沖縄民謡界の表通りだけでなく、戦後の闇の世界も経験しているのだ。しかもウーマクで憎めない性格が人脈を広げ、自身の芸を豊かなものにした。時代を読む眼力、目新しいものには何でもトライしてみようという精神もある。敏感な感性の持ち主なのだ。ソウル・フラワー・ユニオン中川敬のギターや伊丹英子のチンドン太鼓が入った(2)(5)も、だからまったく不自然ではない。チャンプルーの素地があるからというのでなく、精神的に若いことがセイ小を時代の人に押し上げている。加えて本作では登川流の弟子たちが多数参加している。琉球民謡協会名誉会長ならびに琉球民謡登川流の宗家としての一面も打ち出された格好だ。私的な好みを言わせてもらえば、しかしセイ小は弟子を従えて大勢で歌うよりも一人の弾き歌い、もしくは2、3名での演奏のほうが遥かに似合う。わんぱくな性格がよく唄に出ている。人徳があるゆえに偉い肩書きを持って人の上に立っているが、本来はどこにも属さない自由奔放の人なのだ。(7)はセイ小の等身大の唄であり、これが一番沖縄らしい雰囲気。また(12)は「門たんかー」のタイトルで知られる知名定繁の名曲。久々に心に染みるいい唄を聴いた。 (森田純一) --- 2001年06月号 -- 内容 (「CDジャーナル・レビュー」より)