「ONE」(リチャード・バック、集英社)の小説としての失敗と重要な試み。
東京新聞の記事「銃を撃った君も犠牲者 パレスチナの父 イスラエル兵に語る」に絡んで「ONE」と言う小説で語られるものとの相似性を指摘され、読みました。その感想です。
ONEは小説としてあまり成功したとは思えない。日本では有名な著者の作品であり、著者名にひかれて読んだ読者もある程度いたはずにもかかわらず、またユニークな試みがそこにあるのは多くの読者にも分かるはずであるにもかかわらず現実にその本は今では絶版となっている。読み終わった自分も、試みとしてのその長ったらしい事例を読みながら、さほどリアリティを感じさせられなかったし、面白いと思わなかった。
しかし、それにもかかわらず、そこから読み取れる構造は何にもまして重要である。それは何かというと、以下のようなことである。
A.敵でもある他者とは自分である。敵とは自分の人生の選択によっては自分そのものである。あるいは自分の生まれ方によっては自分であったものである。敵とは自分の生まれ方、自分の選択の仕方によっては自分の帰属する集団となったものである。だから自分を理解するには敵である存在を理解せねばならない。この場合の理解とは、自分たちへの危害を加えり可能性を念頭において、その人間の動きをのある予想したり把握することではなく、その人間の生き様を自分のものとして理解することである。この考えが社会の最も基本となるべきであろう。
逆に言うと、以上のような考えとは真逆な「敵」と言う言葉の理解で社会が動かされている面がある。
B.(後者)「敵」と言う言葉は、ある意味、「自分ではないこと、自分の帰属する集団ではないこと」を意味する。そこから、敵とは理解されるべき存在ではないこと、理解されるべき価値がない存在であることへと展開される。あるいは自分や自分が大切にしている存在や価値に危害を加える存在であり、「自分が大切にしている存在=理解されるべき存在」へ危害を加える存在だから、理解される価値がない存在だとみなされる。そこから短絡的な発想を持つ人の場合は、彼が社会で生きるにあたって重要なキーは自分の目の前に現れる存在やその集団が「敵か味方か」を判断することこそ重要なものとなり、その判断で「敵」となった存在は、その敵の動きを予想し把握することの重要性は残るにしても、その現在の生き様や彼らがどのように生まれ育ったのかなどは理解不要なものとなってしまう。
作品ONEはその構造の中でA(前者)を訴えている作品である。また前者のような思索的姿勢を、小説を通して読者に植え付けようとした大きな試みを行った小説であると思う。小説としての成功、失敗は別として、その試みの重要性は変わらない。また「敵」「味方」と言う言葉が言語世界で、また社会で喪失されることなどあり得ないだろうが、同時に自分であったかもしれない自分でもあり得るかもしれない「敵」と言う存在として、その相克を乗り越えるためにも前者の姿勢は重要である。
だから、この小説は多少とも読者に忍耐を要求するにもかかわらず、本気で読まれるべき小説の一つだと思う。
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