King GnuはオルタナティブロックをJ-POPにしてしまった新しい存在だ。J-POPを特徴づけるものは強いメロディだと思う。King Gnuの音楽は、音楽的でありつつ、メロディが強いのだ。だが、強いメロディがずっと続き、メロディに強弱がないようにも僕は感じていた。だから、一部の曲はサビがどこなのかも分からない。
また、メロディだけではなく、ブラックミュージックのフィーリングを取り入れた重たいビートにより、リズムも強い主張を持っていて、King Gnuの音楽は強靭なメロディとリズムの二刀流なのだ。だから、メロディもリズムも一曲通して強靭で、一息つける抜きがないようにも感じる。アルバム曲では、一息抜けるところが増えていたので、音楽的にシングル曲よりも良くなっていると思う。
King Gnuの自由さと自由な音楽が若い人たちに勇気を与えることを願ってやまない。ただし、その斬新さを好きになったこともあったけど、正直、彼らの音楽の良さは分からなかった(ボーカロイド以降の複雑で新しい音楽だとは感じる。ファルセットと地声の男性ツインボーカルのバンドというのも新しい)。しかし、僕がスピッツに10代の頃にハマったように、彼らの音楽にハマる若い人は幸せだと思った。
歌詞にも目を向けてみよう。「人生にガードレールは無いよな/手元が狂ったらコースアウト/真っ逆さま落ちていったら/すぐにバケモノ扱いだ」(「どろん」)、「どうしようもないこの世界を/悪あがき、綱渡り」(「ユーモア」)、「自分の替えなど/いくらでもいるんだ/自惚れんなよ/世界はそんなもんだって/生きてりゃわかるさ」(「Overflow」)など、社会に対するシビアな現状認識の歌が続く。
だが、King Gnuの歌は、そんな社会に対して、「きらりこの世を踊るんだ」(「ユーモア」)、「この時代に飛び乗って」(「飛行艇」)などのリアクションしかしない。つまり、時代と共に踊ったり、時代に飛び乗ったりするだけで、現状追認しかしないのだ。その点、僕が人生の名盤だと崇める中村一義『ERA』とは全く違う。『ERA』には社会を変えようとする気概があったが、King Gnuは権威に迎合しているようにしか思えない。
「明日を信じてみませんか/なんて綺麗事を並べたって/無情に回り続ける社会/無駄なもんは切り捨てられるんだ」(「どろん」)という歌詞には絶句。社会をもっと頼ってもいいんだよ、社会にもっと甘えてもいいんだよと言いたくなる。だが、小泉政権以降のネオリベラリズム政策の時代に生まれ育った若者にとっては、これが自然な心情なのだろう。れいわ新選組が主張するような、誰だって生きているだけで認められる社会に変えようだなんて、ちっとも思わないのが若者の多数派なのかもしれない。
シビアな社会認識の歌は、タイトなリズムと相性が良い。社会のギリギリスレスレを綱渡りする感覚と、これしかないというタイトなリズムはお互いに存在を補強し合う。強いメロディ、強いリズム、強いハーモニー、強い歌詞、強いテクニック。僕の嫌いなマッチョイズムが顕現する音楽に半ば幻滅する。
最強な音楽は弱さを認めない。社会の袋小路に突き当たり、弱ってしまった人間を「バケモノ」扱いする(「どろん」)。僕も統合失調症を抱え、Xジェンダーだから、彼らの音楽は僕をバケモノ扱いするのだろう。そして、僕には、そのような音楽は到底認められない。
だが、スタイリッシュで新しい音楽であることには間違いない。これだけ批判しておきながら、僕もたまに聴きたくなってしまうのだ。音楽として、隙のないクールなデザインであることは間違いない。
★追記★2020.1.19.
アルバムを最初に聴いた時と評価が覆る時は、僕はほとんどないから、最初に3回ループした後の感想をamazonレビューには書いているけど(上記レビューもそう)、King Gnuだけは違った。
これから、前回レビューの際の評価を覆す文章を書く。そのことによって、自分への信頼を失ってもいい。ブレていると言われようが、今の自分に正直な文章を書きたい。
レビューを書いてから気になって何度も聴いているうちに、彼らの音楽の中毒になってしまったのだ。レビューで書いたような強靭なメロディとリズムが癖になってしまい、頭から離れない。
『CEREMONY』を聴いた時、前作と比べ、作品が"表現"になっていると感じた。感情の主張が息づいていると思った。でも、そこで見えてきた彼らの人間性はすごくイヤな奴だった。「人生にガードレールは無いよな/手元が狂ったらコースアウト/真っ逆さま落ちていったら/すぐにバケモノ扱いだ」(「どろん」)とか、社会と他人を信頼していない歌詞に憤ったりもした。
しかし、何度も聴いているうちに、初めは拒否反応を示していた歌詞も、この時代のリアルを描写しているんだなって腑に落ちた。この世知辛い時代に生きる一人の人間のリアルが『CEREMONY』には詰まっている。
僕はレビューの時に、現状の社会は「誰だって生きているだけで認められる社会」ではないことを書いた。だが、「Teenager Forever」の「明日を信じてみたいの/微かな自分を/愛せなかったとしても」という歌詞に、そんな社会でも明日を信じてみようとする彼らのリアルな心情である"微かな希望"を感じたのだ。
本当に泣きたい時に限って
誰も気づいちゃくれないよな
人知れず涙を流す日もある
「壇上」の上記の歌詞に、強がりではない彼らの本音をそこに見る。ソングライターの常田さんは、この曲だけは自分のみで歌いたかったのだろう。彼の飾らない本音が愚直に歌われている。
紅白出場を果たして"何もかも"を手に入れた彼らが「壇上」で吐露する今の気持ち。「目に見えるものなんて/世界のほんの一部でしかないんだ/今ならそう思えるよ」というのなら、今なら彼らの人間性を信じてみても良いと思えるのだ。
レビューで書いたように、彼らの音楽は新しい。彼らの音楽の新しさに拒否反応を示していた僕は、何度も聴くうちにアレルギーが消えたようだ。革新性とポップを同時に鳴らした彼らの音楽は、間違いなく2020年代の邦楽史に残る傑作になると思う。
----補足2020.1.21.----
(ここから先は興味のある方だけ読んでくださいね!)
King GnuはオルタナティブロックなのにJ-POPであるという魅惑的な矛盾をはらんだバンドです。
この補足は、中高生や音楽用語に初めて触れる方には少し難しい文章も含みますが、頑張ってついてきてくださると嬉しいです。
オルタナティブロックという言葉を初めて知った方のために、wikiから引用しますね。
「オルタナティヴ・ロック(Alternative Rock)は、ロックの一ジャンルである。日本ではオルタナティヴ、オルタナと略称されることが多い。オルタナティヴ(Alternative)とは、「もうひとつの選択、代わりとなる、代替手段」という意味の英語の形容詞。大手レコード会社主導の商業主義的な産業ロックやポピュラー音楽とは一線を画し、時代の流れに捕われない普遍的な価値を求める精神や、アンダーグラウンドの精神を持つ音楽シーンのことである。 」
僕は大ざっぱにメジャーなロックの音楽性やアティチュードではないオルタナティブ(もう一つの選択肢)なロックと解釈しています。狭義のオルタナシーン独特の音楽性もあるけれども、そういった解釈でも問題ないのではないでしょうか。
日本のオルタナティブロックについては、南田勝也・著『オルタナティブロックの社会学』(花伝社,2014.3.)に詳しいです。
この本からちょっと引用してみましょう。
「1997年を始点とする日本のオルタナティブロックの成り立ちをややドラマチックに記述したわけだが、しかし、これらの動向は、全体的な音楽シーンにおいて革命的なモニュメントとして記銘されたわけではない。むしろ、静かにはじまり静かに展開していったといえる。Jポップというメインカルチャーではなく、1980年代までのロックが目指したカウンターカルチャーでもなく、オルタナティブカルチャーとして代替的に歩んでいく道程だ。
三つの動向すべてに共通していたのは、洋楽のオルタナティブロックに接近しようとする心性である。英米のインディサウンドそのものの97世代、英語詞で歌いアメリカのメロコアシーンと連携したエアジャム勢、イギリスのフェスティバルを範として始まったフジロック。担い手としての日本のミュージシャンたちは、洋楽的要素を取り込んで歌モノ文化を創り上げたJ-POPよりも、もっと洋楽的エッセンスをストレートに反映して発信している。」(p.191.)
この本では、日本のオルタナティブロックが始まった年を1997年としています。この意見に僕も同意します。「洋楽的エッセンスをストレートに反映」した邦楽が作られたのは、 くるり、スーパーカー、ナンバーガール、中村一義など が登場し始めた1997年からですね。その以前にも渋谷系など例外がありますが、渋谷系はオルタナティブなカルチャーではありますが、ピチカート・ファイブ、オリジナル・ラブ、小沢健二などJ-POP(あるいはポップス)の文脈で捉えられることも多いですからね。
多くの人がKing Gnuが売れた理由を説明できない理由は、King Gnuがオルタナティブロックの志向を持ったバンドだからです。日本のオルタナティブロックでこんなにバカ売れした例は過去にないでしょう。 (海外だとニルヴァーナなどがいますが。) オルタナティブロックの自由独立の精神を持って彗星のごとく現れたバンドがKing Gnuです。
彼らが「トーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイル」と称する自らの音楽性は、洋楽のあらゆるジャンルのエッセンスを汲み取っています。狭義のミクスチャーロックはラップがあるロックのことですが、King Gnuはロックやヒップホップだけではなく、R&B、クラシック、ファンク、ラテンなどあらゆるジャンルを取り込んだ音楽を作っています。これは、日本のオルタナティブロックの定義である洋楽的エッセンスをストレートに反映したロックの文脈に沿っています。
しかし、こんなに売れ(メインストリームな音楽であることの現れ)、音楽性も歌謡曲の要素があると、J-POPとも定義できます。彼らは「同世代の他のバンドは洋楽を目指し、俺達は邦楽をやる。そこが違う」とインタビューで答えています。
ただし、オルタナティブ的な精神も持っていると僕は思っています。彼らは音楽番組に出る際、通常のアーティストが行っている当て振りではなく、生で演奏することにこだわっています。そういった彼らの姿勢は、非常に音楽的だと僕は思います。彼らの音楽自体も、歌モノとしてだけではなく、音楽的なこだわりを非常に感じます。上述のフジロックに2017年から2年連続で出場していることも、音楽的にオルタナティブロックであることの証左でしょう。King Gnuは音楽的にも姿勢的にも、オルタナティブロックバンドが持つ精神性を備えています。
レビューでも書きましたが、以上のことから、King Gnuはメインストリームな音楽であることを意識するJ-POPでありつつ、オルタナティブロックであるという魅惑的な矛盾をはらんだ新しい存在です。J-POP(歌謡曲)と洋楽のそれぞれのエッセンスをこんなに高い次元で融合したという点で、日本の邦楽史に残る存在となるでしょう。
かつて、「アイドルなのか。 ロックなのか。 どうでもいい。」というキャッチコピーを掲げたflumpoolというバンドがいますが、それに倣って言うのなら、「メインストリームなのか。オルタナティブなのか。どちらも意識する。」ですね。King Gnuのメンバーはこんなカッコ悪いキャッチコピーは使わないけど。それどころか、King Gnuは自分たちの音楽のことをオルタナティブロックでもあると思ってさえいないかもしれない。
「白黒で単純に割り切れやしないよ/人はいつだって曖昧な生き物でしょう」(「どろん」)
上記の歌詞がKing Gnuの音楽性についても言えますね。J-POPを目指しつつ、背景にはオルタナティブロックがある存在。そんな両義性が僕が彼らの音楽にハマった理由の一つです。