好きだという気持ちに、理由なんていらない。
それが、それであること、これが、これであること
あなたが、あなたであること、私が私であること
あなたの前に私がいること、私の前にあなたがいること
そして、私の前にあなたがいないこと、あなたの前に私がいないこと
そこにあったものが、そこになく、あそこにあったものが、あそこになく
昨日まであったことが、今日はもうなく、今日あったことが、明日にはなくなること
しかし、それでも、だからこそ、そうだからこそ、
私は、そうしたことたちが、好きなんだ
好きだということに、理由なんていらない。根拠なんて必要ない。説明なんて必要ない。言葉も必要ない。
どうしてもその理由を知りたいと思うならば、空を見上げればいい。そこに、その答えがある。
空の青さと、雲の白さと、その雲が地面に作る陽炎のような影と、街角を曲がる風のささやきが、
その答えの全てだ。
何かを好きだという気持ちに、理由は必要ない。
カシワイさんの第一作品集「107号室通信」には、私のそんな「理由もなく、好きなことがら」が標本箱の中のような端正で清楚な精密な空間に収められている。それは水彩画で彩られた夢の結晶の標本箱。
(1)カシワイさんの作品の生まれた場所、その力の可能性、あるいは、地平線を超えた遠い場所
カシワイさんの作品について、言葉で説明するということは、行ってはいけないことなのかもしれない。
正確に言えば、「言葉で説明してしまうと、壊れてしまうもの。だから、それを言葉で説明してはいけない。」となる。「漫画は、基本的に、全部、そうでしょう。」という話もあるが、カシワイさんの場合は、この部分が、その作品の根幹を成している。もしかしたら、カシワイさんの作品が何処から来たのか? その答えがその中に潜んでいるのかもしれない。慎重に自分が立てる足音に気を付けながら、繊細に注意深くカシワイさんの作品の生まれた場所を訪ねたいと思う。
そして、カシワイさんの作品の生誕の秘密、その作品の持つ真の力、その力の可能性について、まるで、長距離射程砲で放たれるかのようなその一撃が、何処まで届くのか、その一撃が、この世界のシステムに対して、何処まで抵抗を示すことができるのか、そうしたことについて、少し考えたいと私は思う。
辿り着いた場所は、遥かな地平線を超えた遠い場所だったのかもしれない。振り返り、後ろを見れば、そこには茫漠とした廃墟の残骸が積み重なったような世界が広がっているだけなのかもしれない。私の試みと思考は、無謀であり、無知であり、幼稚であり、滑稽な誇大妄想的な愚かなものであったのかもしれない。しかし、カシワイさんの作品が、廃墟の残骸の寄せ集めのようなこの世界の中で、ひとつの淡い小さな花として、凛然と輝くように咲き、あるいは、一群の小鳥たちとして、生の切片のように自由に空を飛び交いさえずっているということは、信じるに値する確かなことだと、私は思っている。
(2)カシワイさんの第一作品集「107号室通信」、あるいは、標本箱の中の夢の結晶の欠片
カシワイさんの第一作品集「107号室通信」では、「植物」、「収集」、「記憶」、「宇宙」という名前を持った
4つの扉の中に3個から6個の夢の結晶の欠片がひっそりと佇んで、私を待ってくれている。初めて会うのに、なぜだか、久しぶりな懐かしい気分にさせてくれる。突然、入り込んだのに、驚くわけでもなく、知らん顔するわけでもなく、馴れ馴れしくもなく、そうかといって、よそよそしいわけでもない。
うん、そうだったのか。「ここに、いるのは、わたし、なんだ」(と、わたしは、気が付く。)
ずいぶん長い時間、待たせてしまった。ここにあるのは、全部、わたしの忘れ物なのだ。
宇宙・天体・星・風・鉱物・記憶・孤独、この世界の小さな鼓動に耳を傾ける、鉱物抒情派とでも呼びたくなる数少ない先人の漫画家たち、たむらしげる、鴨沢祐仁、森雅之、彼らの夢の切れ端を何処かに残しながらも、カシワイさんはカシワイさん独自の視線と筆さばきによって、この世界から零れ落ちたことがらを丹念に掬い取って描き出している。たむらしげるより生真面目で日常的で、鴨沢祐仁ほどかしこまることなく普段着で、森雅之ほどセンチメンタルでなく。ここには、わたしたちが忘れ去り、捨て去った、失った、そして、失ったことさえ気が付かない、とても大切なことがらが静かに息を潜めるように書き留められている。それは、漫画で描き出された、私の中に眠る閉ざされた記憶の中の時間の断片とも言える。
カシワイさんの作品、それが私に気付かせる。
私は、一体、どれほど、酷い言葉と映像と音響の世界の中に埋もれ溺れているのだろう。私の住んでいる世界は、一体、何時から、こんな廃墟の残骸のごみの掃き溜めのような場所になってしまったのだろう。廃墟の残骸のような街の中で、サイバースペースを覗くと、画面から、廃墟の残骸のような言葉が溢れ出る。廃墟の残骸のような匿名の人々が吐き出す廃墟の残骸のような言葉たち。嬉々として繰り広げられる罵り合いと侮蔑の応酬を記録する廃墟の残骸のような言葉たち。目を背けたくなる惨状をまるで今日の天気のように懇切丁寧に説明する廃墟の残骸のような言葉たち。血に飢えた獣の如く、暴力を求めて獲物を、さらに、その暴力を正当化する理由を、探し出すように彷徨う、廃墟の残骸のような言葉たち。そこにあるのは、この世界とそっくりの写し絵のような廃墟の残骸のごみの掃き溜めのような世界。
(3)廃墟の残骸のような街が続くこの世界の中から、カシワイさんの作品が生み出されるという謎
こんな廃墟の残骸のごみの掃き溜めのような世界から生み出された、カシワイさんの夢の結晶の欠片のような作品(!?)。いや、これは何かの間違いだ。何かが異なっている。見渡す限り廃墟の残骸のような街が続くこの世界の中から、カシワイさんの作品が生み出せる訳がない、と私は思う。何か、大変な決定的な思い違いを私はしているのだろうか。そこにある私の死角ともいうべき、見ることが不可能な領域。私がその方角へ目を向けると、私の視界からそれは素早く姿を消し、私の背後に回る。私には捉えることができない何か。私が生きているこの世界の様相と、カシワイさんの作品の間に横たわる巨大な落差。深い闇のような謎がここにある。
なぜ、カシワイさんは、この世界の中で、このような作品を生み出すことができるのか?
カシワイさんの作品の中心に何があるのか? そして、カシワイさんとは、一体、何者なのか?
カシワイさんの作品に流れる光と風と時間、その感覚に、目を凝らし、耳を澄ませ、その謎を解き明かす手掛かりを見つけ出したいと思う。
(4)カシワイさんの作品の中の三つの存在の感覚、あるいは、作品の誕生を解く鍵
カシワイさんの作品には、三つの存在の感覚が流れている、と私は思う。
〈存在の感覚〉とは、そこに、存在しているその存在が、どのように感じられ、どのように感じ取られる事柄としての存在なのかという、存在の在り様としての、感覚の中の形。あるいは、感覚の中に立ち現れる、その存在の様式。感覚として物語られる、その存在の形式。
その一つ目の存在の感覚。
カシワイさんの作品の中に流れる、漂泊する風のような、〈理由もなくの感覚〉。
その理由を言葉にした途端、その根拠を明確にした途端、それについて説明しようとした途端、それがあったはずの場所から、それがあったはずの時間から、それが消えてしまうような、それが逃げてしまうような、それが零れ落ちてしまうような、それとすれちがってしまうような、それを見失ってしまうような、一瞬の間の、さらにその奥の一瞬の中にしか存在しないような瞬間の感覚。今、私の手のひらの中につかみ取ったはずのものが、今、私の瞳に写し撮られたはずのものが、今、私の耳が聴き取ったはずのものが、今、私のからだが触れていると思ったはずのものが、理由を口にした途端、失われ、消え去ってゆくような、そんな感覚。
それが、それであること、あれがあれであること、私が私であること、あなたがあなたであること。
その理由。
その理由を問うこと自体を拒絶し禁止し否定すること。理由を口にしてはいけないということ。それは個別性の中の、主観性の中の、名付けられない何か。個別性を超えて外へ出してしまうと形が崩れてしまう何か。それは個別性を超えるために切り捨てられることがら。主観性の中から脱出し客観性の中にそれを連れ出そうとすると、するりとすり抜けて跡形もなく消えてゆくもの。
その二つ目の存在の感覚。
カシワイさんの作品の全編に音楽のように流れる、ささやきのような、〈モノローグの感覚〉
それは、誰か相手を必要とするものではなく、むしろ独りでいることによってしか見出せない何かの感覚。独りであること、個別であること、集まらないこと、語り合わないこと、口を閉ざすこと、孤独であること。そのことによってしか見つけ出せないもの、そのことによってしか守れないもの、そのことによってしか維持できないもの。集まることによって消失してしまうもの。つながることによって失われるもの。あるいは、その相手となるべき誰かとの間に、距離の遠さと時間の大きさが必要であるという感覚。孤立し、自由であり、個別であり、束縛と同調の集団から遠く離れた、無縁の感覚。ひとりぼっちの感覚。孤独の中にある、掌で優しく囲わなければ無くなる、掌の中の小さな光と風の感覚。
その言葉を受け止める相手がいると、その言葉を聴く相手がいると、失われる、モノローグの感覚。
その三つ目の存在の感覚。
カシワイさんの作品を示す概念(concept)としての、〈フラジャイルの感覚〉
松岡正剛の画期的な論考「フラジャイル 弱さからの出発」(1995年 筑摩書房)によって、その姿の全貌が初めて明かされた概念。歴史の表舞台に立つことなく、その後ろ姿がちらちらと見えるだけであったフラジャイルな存在たち。私の稚拙な言葉でフラジャイルについて述べるより、松岡正剛の言葉をそのまま引用するのが最も適切なことであろう。松岡正剛の独特の絶妙な節回しで語られるこの文に、フラジャイルの本質が凝縮されている。(本の帯に記載されている約200文字の文章と、本文の約100文字の文章、この二つの文章をここに引用する。批評、かくあるべし、批評の奥義が炸裂する名文。)
「「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力を持っているのである。その不可解な名状しがたい奇妙な消息を求めるうちに、私の内側でしだいにひとつの感覚的な言葉が、すなわち「フラジャイル」(fragile)とか「フラジリティ」(fragility)とよばれるべき奇妙な概念が注目されてきたのだった。」(本の裏の帯に記載の文(本文8ページ)より引用)
「脆くて壊れやすいのにもかかわらず、その本質的な脆弱性ゆえに、たとえ外部から破損や毀損をうけることがあっても、なかなか壊滅しきらない内的充実がある。それがフラジャイルであって、フラジリティなのである。」(本文9ページより引用)
カシワイさんの作品の本質を、これほど的確に表現する概念は他にはない、と私は思う。フラジャイルとは壊れもののことであり、カシワイさんの第一作品集「107号室通信」は、フラジャイル(壊れもの)の目録(カタログ)ということになる。
さらに、フラジャイルの意味を示す言葉を「フラジャイル 弱さからの出発」の本文から、一部を書き抜き、列挙するならば、以下のようになる。
弱さ、細部感、希薄、あいまい感、寂寥、はかなさ、さびしさ、わびしさ、華奢、繊細、やさしさ、優美、憂鬱、葛藤、矛盾、低迷、たよりなさ、おぼつかなさ、変異、不安定、不完全、断片性、部分性、例外性、脆弱性、もろさ、こわれやすさ、敗北感、劣等感、貧弱、弱者、疎外者、愚者、欠如、欠点、不足、損傷・・・
フラジャイルの存在たちが持つ、弱さ故の戦闘性がここに垣間見える。彼ら彼女らそれらあれらは、弱き故に、強きものたちに、抵抗し、反撃し、それらに一撃を与えるのである。カシワイさんの作品の見掛け上のつつましさとその中に存在するフラジャイルが持つ戦闘性は相反するものではない。「弱さ」は「強さ」の欠如ではない、のである。
(5)三つの感覚の建築的タピスリ(錯綜体)としての〈孤立者の感性と論理〉、
あるいは、自由であること
〈理由もなくの感覚〉、〈モノローグの感覚〉、そして、〈フラジャイルの感覚〉、
この三つの感覚がカシワイさんの作品の誕生を解く鍵だ、と私は思う。この三つのものは、互いに切り離されることなく、複雑に絡み合って、ひとつのものを構成している。個別性を超えるために切り捨てられたことがら、個別性の中でしか存在できないことがら、客観性が取り込めないことがら、そうしたことがらを集めたものを、語るには、描き出すには、モノローグしか方法はなく、そのモノローグで語られる個別性は個別であるが故に、フラジャイルな存在となる。言葉より沈黙が、客観性より主観性が、普遍性より個別性が、永遠性より瞬間性が、ダイアローグよりモノローグが、選び取られ、より優先され、より重要となる。しかし、そのことによって、それはフラジャイルとなる。あるいは、フラジャイルな存在を掴み取るために、理由を避け否定し、言葉を脇に寄せ、孤独を迎え入れ、誰もいない空間で独り言のように語る。その手で掬い取ろうしただけで形が壊れるフラジャイルなものを、それでも懸命に受け止めようとして、理由を放棄し、言葉を忘れ、モノローグの中にそれを封印する。
〈理由もなくの感覚〉、〈モノローグの感覚〉、〈フラジャイルの感覚〉、この三つが交錯し、水平糸と垂直糸と奥行き糸として建築的タピスリ(錯綜体)が形成される。
そして、この三つの感覚が統合された建築的タピスリ(錯綜体)に名前を付けるとすれば、それは〈孤立者の感性と論理〉となる。
〈孤立者の感性と論理〉とは何か?
それは理由を否定し、根拠を否定し、言葉を否定し、相手を必要としない、他者を必要としない、群れを必要としない、場合によっては、社会を否定さえし、孤独であることを必然とする孤立者の感性と論理。その根底にある自由の存在。孤立者の感性と論理とは、別の名前で呼べば、自由の存在とその論理となる。人は自由であるが故に、孤独であり、孤独であるが故に、自由となる。絶対性と相対性の間に切り裂かれながらもその何方にも組することなく、何者をも拠り所にすることなく、宇宙の只中で漆黒の虚空の闇の中に、宙吊りにされたかのように存在する孤立性を唯一の根拠とする21世紀の人間の存在。その完全なる自由と孤独、そして、その尊厳。そこには、天空から人間を見下ろす継ぎ接ぎだらけの絶対的なるものの入り込む余地など、ありはしない。
孤立者とは、自由である者のことである。自由であることは、孤独であることと同義語である。
巖谷國士のTwitterの言葉を借りるならば、「孤独こそ自由の前提」となる。さらに言えば、「連帯とは自由な孤立者たちの出会い」となる。孤独であること、孤立者であることが肯定され、それが自由を支え、連帯を呼ぶ。始まりに自由がある。それを守るために前提として孤独を受け入れる。そして、自由な孤立者たちが旅立ち、仲間たちと出会い、そこから連帯が形作られる。孤立は出発点であって、決して終着点ではない。それを取り違えてはいけない。連帯を求めるならば、孤立性を起点にしなければならない。孤立性を終わりではなく、始まりとすることによって、世界は全く別の姿として現れて来る。
「カミュも記したようにフランス語の《solidaire 連帯》は《solitaire 孤独》と一字ちがいだが、幼時から同調を拒みつづけてきた身には孤独こそ自由の前提だったので、既成の組織に加わる気はなかった。連帯とは自由な孤立者たちの出会いであり、いまでもそうだと感じている。そして出会いは、ある。」
(巖谷國士のTwitter 2020年6月8日 より引用)
弱き者(フラジャイルな存在)であるはずの孤立者だけが有する、全体、総体を脅かす戦闘性。そのことを、その危険性を、誰よりも鋭敏に感じ取るっているのは全体、総体(これを、社会と呼んでもよいだろう)であるということは、言うまでもない。孤立者へ向けられる全体からの攻撃。孤立者の独善性、独断性、主観性、反・非客観性、他者の不在性、反・非社会性、自己陶酔性、自己埋没性、自己中心性、自己充足性、幼児性、暴力性、そして、自由であること。そうしたものが全体から激しく非難される。全体は孤立者を恐れているのだ。だから、何処かの時点で、孤立者は孤立者であることを止める。つまり、大人になる。社会の中に入るということは、そうした意味であり、子供が大人になるとは、そうしたことである。孤立者の感性と論理を棄て、大人の感性と論理に持ち替え、社会の中の人となる。
さらば、孤独と自由よ。
子供の時代が終わり、大人の時代が来る。
ようこそ、大人の世界へ。
(6)カシワイさんの作品の誕生した場所、あるいは、カシワイさんの中にある秘密
カシワイさんは、この世界の中で生きつつ、何らかの方法によって、この孤立性を自分自身の中に生き残らせることに成功した稀有な存在なのである。そこから、カシワイさんの作品が誕生した。カシワイさんの作品は、カシワイさんの中に、今、尚、存在している孤立者の感性と論理によって生まれて来る。カシワイさんの作品がフラジャイルであるということは、論理的な帰結なのである。つまり、カシワイさんは、大人であると、同時に、子供であるということになる。それは、カシワイさんの中に、誰もそれを救済することができない孤独が存在し、しかし、そのことによって、カシワイさんの中に自由が宿っているということを意味している。
ここに、廃墟の残骸のような街が続くこの世界の中から、カシワイさんの作品が生み出されるという謎の秘密が存在する。私には見ることができない死角の領域。それは、カシワイさんの内部に存在する子供の領域。自由と孤立性を失った私には見ることができない、孤立性をその中に保存している人にしか見えない光と時間の世界。カシワイさんは、その作品の中に、それを描き出してくれる。私がなぜ、カシワイさんの作品に出合って、懐かし気持ちになったのか? それは、私がまだ、子供であった時間を思い出させてくれるからだ。私が大人になる前に子供であったということ、それが当たり前のことであったとしても、誰もがそうであったとしても、私はそのことに胸を衝くような痛切な思いに駆られる。私がそこで失ったものと忘れ去ったものたち。私はその代わりに、一体、何を得たのだろうか。
(7)フラジャイルから全体への反撃、あるいは、ささやかな抵抗、だが、根源的な抵抗
ここで、再び、私は冒頭に戻って、次の言葉を繰り返す。
「好きだという気持ちに、理由なんていらない。」
カシワイさんの「107号室通信」の最初の1ページを開いた瞬間、その最後の1ページを閉じた瞬間。
この言葉がリフレインされる。このフレーズが反復される。
ここには、私が失った、忘れ去った、大切な何かが存在する。カシワイさんの「107号室通信」によって、私の中にほんの少しだけ残っているフラジャイルなものたちが共鳴し、私を揺り動かし、私を奮い立たせる。この言葉を、このフレーズを少しの間だけ、擁護してみよう、守り抜いてみよう。大人たちから激しく非難されるであろうこの言葉、このフレーズ。これを否定するものたちに対抗して、私の中にほんの少しだけ残っているフラジャイルなものたちから力を得て、その力を解放し、滑稽で愚かで子供じみた誇大妄想的な試み(これを、ひとつの夢と呼んでもよいのかもしれない)を行ってみたいと思う。
その試みに名前を与えるならば、次のようになる。
「フラジャイルから全体への反撃、あるいは、ささやかな抵抗、だが、根源的な抵抗」
この試みは、カシワイさんの「107号室通信」をはじめその作品たちが、単なるひとつの漫画であることを超えて、それが、フラジャイルなものたち、孤立性を抱く全ての人々に向けられた、「この世界は、こんな瓦礫のような世界のままで、良いわけではない。」というひとつの意思表明であり、抵抗であり、言葉のないメッセージであることを示している。〈カシワイさん的なるもの〉とは、孤独の中の人々へ差し伸べられた希望と勇気なのだ、と私は思う。
(8)抵抗、逸脱、あるいは、〈カシワイさん的なるもの〉を守るための〈フラジャイルなものたち〉、
〈子供の領域〉の戦いの記録
以下は、〈カシワイさん的なるもの〉を守るために行う抵抗の全容である。
逸脱なのかもしれない。
しかし、これは、廃墟の残骸の積み重ねのようなこの世界とそのシステムに対抗する〈フラジャイルなものたち〉の存在を賭けた真摯で困難な戦いの記録でもある。また、それはカシワイさんによって呼び起こされた私の中の〈子供の領域〉による反乱でもある。
(9)評価、その正しさと暴力性、あるいは、素晴らしき高度資本主義システム
繰り返す、「好きだという気持ちに、理由なんていらない。」
大人の彼ら彼女たちは、私に言うだろう。
「客観的な評価がなされていない。主観的な評価だ。」、さらに、「そうしたものは、自己中心的な、自己陶酔的な、自己満足にしかすぎない。」、「それは、幼児的な暴力的なものだ。」と非難する人さえいるのかもしれない。中には、厳しい表情を浮かべ、忠告するように「行うべきことは、客観的な根拠を示して、その価値を判断することだ。自分だけが理解し満足するような主観的判断ではなく、自分以外の他者を含む社会の中で広く通用する客観的な評価をしなければいけない。この世界に存在するのは、自分だけではないのだ。評価とは、他人もその過程と結果を理解できるものでなければならない。」、と言う人もいるのかもしれない。
あるいは、優しく微笑みながら、教え諭すように話す人もいるのかもしれない。「あなたのその気持ちを否定するつもりはないけれど、その気持ちを言葉にして他の人に伝える努力を怠ってはいけない。この世界をより良きものにするためにも、あなたは、この世界が自分とその仲間だけで成り立っているのではなく、多様な人々の共存によって形作られているということを、学ばなければいけない。それが大人の作法というもの。」
「大切なことは、根拠を言葉で示し、客観性のある、他者と分かち合える、正確な評価を行うことだ。」、と。
「評価」、ぞっとする言葉だ。
まるで、家畜を屠殺し、食肉処理工場で解体し、肉塊に切り分け、その肉質を値踏みし重さを測り包装紙で包み、そこに品質と重さと価格をラベリングするかのような響き。価値とその価値を計測する物差しの明示。誰が、何時、何処で、評価しても、同じ評価の結果になる共通の客観的な物差しと評価の方法を前提にした、素晴らしき高度資本主義が達成した品質の数値化(あるいは、言語化)の極限。万人のための、万人による、正確で客観的で公平なる評価。無形の質が、評価というシステムを通過するだけで、有形の数値(あるいは、言語)に変換される。ほんの少し前まで、ひとつの生命として他のものと何一つ交換することが不可能であったはずの生命が、驚くほどの短時間で商品として評価され値札が付けられる。それは対象が生命であっても、非生命(物)であっても、単純な物事であっても複雑な物事であっても、容赦はしない。
評価という行為の持つ、おぞましいまでの暴力性。その正しきことの持つ測り知れない暴力性。そうなのだ、評価とは、この世界が世界として存在するために、この世界を混沌から救い出し、世界の崩壊を食い止めるために必要な、正しき行為なのだ。
そんな魔法のような正しきシステムを、なぜ、人間たちに用いない?
いや、そうではなく、既に、わたしたちは日々の日常の中で、そのシステムの中に人間を放り込んでいる。誰もが人の全ての行為と言葉をカウントし合っているではないか。数値(言語)化された現実こそ、リアルであるという世界認識。知らないふりをするのも、誤魔化すのも、場面に合わせて話を切り替え、辻褄を合わせて、言い訳をするのもやめた方がいい。わたしたちはそのシステムの中で、そのシステムの部分として生き、そのシステムによって生存しているのだから。システムとは、わたしたち自身の存在の在り様そのもののことなのだから。限りない人間の欲望の為に21世紀の知性が、その叡智を結集して精密に作り上げた素晴らしき高度資本主義システム、それは人間の存在を含めこの世界の全てを言語(数値)化し、司る。
その素晴らしき高度資本主義システムが、人間を評価の対象として巻き込み噛み砕き、数値(言語)として吐き出すのは必然なのである。だから、人間だけがそのシステムの対象から回避し逃れることが可能だという考えは、相当に呑気な御都合主義的な愚かな考えだ、と私は思う。
そして、この世界に存在する、あらゆる作品と作者もまた、その評価の対象として飲み込まれ、素晴らしき高度資本主義システムという石臼の中で磨り潰され、数値(言語)として吐き出される運命にある。
(10)ささやかな抵抗、だが、根源的な抵抗、あるいは、長距離射程砲によるフラジャイルからの反撃
しかし、私は、その素晴らしき高度資本主義システムの基盤を成す、この評価という行為に対して、ささやかな抵抗、だが、根源的な抵抗を示したいと思う。この評価という素晴らしき高度資本主義システムの基盤を根底から攪乱し溶解させる試みを行いたいと思う。この試みが諸刃の剣であり、自分だけが脱出できる脱出口などは存在せず、返り血を浴び、私自身が溶けてしまうことになるのかもしれない。そのことは承知している。さらに言えば、この抵抗が高度資本主義システム内のバグを修正するための小さな混沌となり、そのシステムの強度を補強するための劇中劇になってしまうのかもしれない。そのことも承知の上である。
この抵抗は、幾つかの新たなテーゼと、その証明から成り立っている。その新たなテーゼとは幾つかの概念の間の新たな関係式である。その関係式によって概念が更新され、既存の関係式が壊され、世界に対する認識が更新されるという仕組みである。そのテーゼの内容の普遍性と、その証明の論理性の強度によって、この抵抗の高度資本主義システム対する破壊力が担保されている。但し、これらのテーゼは、或る種の認識論であって、存在論ではない。従って、これらのテーゼが仮に有効なものであり、その効力が機能しても、目に見える風景が一変するということではない。しかし、仔細に風景を見れば、これまで見えていなかったものたちの姿が克明に見えてくるはずだ。そして、システムの幾つかの部分と人間たちに深刻な打撃を与えることになる可能性を持つものだ。それは喩えてみれば、長距離射程砲で姿の見えない地平線の彼方の敵を砲撃するような無謀なものなのかもしれない。フラジャイルなものたちによる全体への戦いとは、自壊性とブレイブハート(Brave Heart)が持ち味なのだ。
(11)人は作品を評価することはできない、作品を評価できるのは、作品だけである
第一のテーゼ。
「人は作品を評価することはできない。」
第二のテーゼ。
「作品を評価できるのは、作品だけである。その評価を実行できる特権的立場を有しているのは作品だけである。」
人は作品と遭遇することはできても、それを評価(批評)することはできない。人は作品を批評することはできても、それは人が新たな作品を創り出すことによってしかなしえない。もし、人が、そこに存在する作品を評価(批評)したいと思うならば、人は、もうひとつの作品を提示するしか方法はない。作品を評価(批評)できるのは、作品だけだ。ここに、ひとつの作品が存在しているとしよう。人はその作品と出会い交わり、その作品との間で何がしかのものを交換することはできるかもしれない。幾つかの思いと気持ちと記憶と光景と時間。しかし、評価を下すことはできない。人はその作品の価値を判断することはできない。
(12)第一のテーゼの論証、あるいは、人と作品の間に切り結ばれる原理的な関係、及び、評価システム
の自己言及による破綻
なぜか? なぜ、人は作品を評価することができないのか?
それは評価(批評)と人と作品の間の原理的な関係がそうさせている。
作品は、その作品と遭遇した人の外部に存在し、尚且つ、その人の内部に存在する。それは、作品が、その作品に遭遇した人の一部分となり、その作品がその人の身体の一部として共に生きることを意味している。作品は、その人の外部に存在していながら、それでも、作品はその人の一部分となることができる。作品とは、その人の身体、その人の生と死、つまり、人生という時間の一部分となる。そうしたことを行うことが可能な存在が、〈作品〉と呼ばれる存在なのだ。作品とは本質的にそうした存在なのである。それが〈作品〉の定義であるとも言える。(もし、仮に、そうしたことができないということであれば、それは商品であっても〈作品のようなもの〉であって、〈作品〉ではないということになる。ここが、〈作品〉と〈作品のようなもの〉の決定的な違いである。私がここで語っているのは、〈作品〉であって、〈作品のようなもの〉のことではないことに留意して頂きたい。)もはや、人は作品に遭遇した後、遭遇する前の作品を内包する前の身体に戻ることができない。人は作品と遭遇した後、否応なしに、作品と共にその生を生きるしかないことになる。
従って、人は原理的に作品を評価することができない。何故なら、評価とは、評価する主体と評価される客体が分離していることを必要とするからである。評価の主体の中に、評価の対象が混じり込むことは、評価というシステムが自己言及状態に陥り、判断の遂行と停止の無限ループに嵌まり、判断不能な迷路に落ちることを意味している。人は作品を前にして、それを純粋な客体として捉えることが不可能となる。不可能とさせる存在が作品なのである。その結果、論理的に、原理的に、人は作品を評価するこができない。評価システムは作品によってキャンセルされ破綻する。
〈補足〉偽りの客体、主体の操り人形としての客体について
多くの客観的と称される認識は、対象が作品の場合、無効となる。作品は主体の中に、その主体そのものとして、その内部に浸透する。主体は作品の自身への侵入に抗うことができない。
客体の中に忍び込む主体、それを見極めなければ、人は憶測と事実の峻別ができないことになる。つまり、主体が、それが事実である可能性が高いと判断し評価した事柄が、何時の間にか、それが客体によって評価され示された事実としての事柄へと変化してしまう。主体の内部の偽りの客体の声を、主体の外部に存在する客体の声と、聴き取り間違えてしまう。客観性の仮面を被った主体の独り舞台。事実であると思い込んだ憶測と確認の取れた事実関係の区別の無い、思い込みと事実が混濁した世界の中に、その人は生きることになる。それは、主体が欲望した声を、客体が行っていると信じ込む、狂躁的(あるいは、その反転としての憂愁的)妄想的世界である。つまり、客体の中に忍び込む主体の姿を見定めることができない人は、現実の中の小説的フィクションの中に生きることになる。
(13)第二のテーゼの論証、あるいは、創造と批評の根源的な関係性
では、何が、何によって、作品を評価することが可能なのか?
批評(評価)とは、如何なる現象、出来事なのか?
人はその作品に初めて遭遇した時、その人の内部に存在している、以前にその人が遭遇した作品が、身体の中から、記憶の中から、人生という時間の中から、頭をもたげて這い出して来る。そして、その新しい作品がその人の内部に取り込まれた瞬間、その人の身体の中で記憶の中の複数の作品とその時入り込んだ作品が、火花を散らすように交錯と衝突と融合の交接的闘争を繰り広げる。作品は作品の存在の根拠を賭けて、その人間に於ける領有権を賭けて、他の作品と戦う。それが批評という現象、出来事である。批評とは、作品間の熾烈な相互作用のことなのである。批評(評価)とは、人の内部で起こる作品と作品との交戦状態を指し示す言葉である。
従って、「作品を評価できるのは、作品しかない。」ということになる。批評(評価)の主体は、主語は、
作品以外には存在しないということになる。論理的に。
人が作品を前にして、その作品を評価するためには、新たな作品を創り出し、その作品を人の中に送り込み、その人の身体、人生という時間の中で生み出される作品同士の相互作用を待つという手順、仕掛け、回路を必要とする。この方法でしか、人は作品を評価(批評)することはできない。人は、「直接的には」、作品を評価することはできず、その作品に対して、新たな作品を提示してその作品を介して迂回する回路を通してしか、評価することはできない。この作品と人との間の原理的な関係を梃子にして、作品を通して遠回りすることでしか、人は作品を評価(批評)することはできない。
つまり、小説を批評できるのは、小説だけであり、映画を批評できるのは、映画だけであり、漫画を批評できるのは、漫画だけであり、音楽を批評できるのは音楽だけであり、アートを批評できるのは、アートだけであり、建築を批評できるのは、建築だけである、ということになる。逆の方向からこの事態を説明すれば、ひとつの作品を創り出すという行為は、それは、他の作品を批評するという行為と同等な意味を持つことを表している。批評を行うことなくして、創造はなく、創造なくして、批評もない。つまり、作品の創造が作品の批評であり、作品の批評が作品の創造でもあるという、創造と批評の根源的な関係性がここに示されているということである。
(14)文学という言葉による作品の批評、あるいは、「批評が作品を飲み込む」という現象
第一のテーゼと第二のテーゼによって示された、人と作品と批評(評価)の基本的な関係を踏襲しつつ、もうひとつ、重要な第三のテーゼを示したい。
第三のテーゼ
「言葉が文学になることによって、あらゆる表現形式の作品を、言葉は批評(評価)することができる。」
「作品しか、作品を批評できない」という、基本原理を逸脱することなく、人が作品を批評することを可能とする特別な回路がひとつだけ存在する。それは、言葉を用いて、その言葉を文学とすることによって可能となる。文学によって、人は作品を批評(評価)することができる。このメカニズム(仕組み)を正確に精密に表現すれば、「人がその作品に対して、批評の言葉(批評言語)を作り、それが文学となることによって、その批評の言葉(批評言語)がひとつの作品として機能し、その作品が対象となる作品を批評(評価)する。」ということになる。
これは、文芸作品を言葉によって批評するといった表現形式の限定された話ではない。その批評の言葉(批評言語)は、映画も美術も漫画も音楽も、さらに建築でさえも、批評することができる。原理的に、あらゆるものを、批評することが可能となる。これは、言葉だけが持つ、いや、正確には、文学だけが持つ特別な力によるものである。その力とは、文学となった批評の言葉(批評言語)が、言葉でありながら、同時に、その批評の対象の表現形式に変貌し、その表現体となることができるというものだ。それは映画批評が、言葉でありながら、映画となり、美術批評が、言葉のままでありながら、美術作品となり、漫画批評が、言葉のまま、漫画となり、音楽批評が、言葉であると同時に、音楽となり、建築批評が、言葉そのものでありながら、建築となることを意味している。
文学とは、「言葉が、言葉ではないことがらを、追い駆け、それに成り、それを捕獲すること、掴まえること」を言う。言葉は、文学の中で、その捕獲した言葉ではないことがら、言葉以外の存在、になることができる。言葉は通常、音声や文字として示されるものであるが、一旦、そうした狭い範囲を離れ、言葉を音声や文字という枠組みから外し〈意味を担うもの〉として広い範囲で捉えなおすと、「言葉が言葉ではないものになること」が自然なこととして了解される。文字が組み合わせられた文章という形態の言葉が、文字群を離脱し、〈意味を担うもの〉として、音楽となり、美術となり、漫画となり、映画となり、建築となる。それは言葉が言葉本来に戻ることでもある。文学の場において、言葉は、言葉としての装束を脱ぎ捨て、その原初の姿の〈意味を担うもの〉として翼を広げ飛翔する。それが文学の持つ特別な力である。
そうした現象を、「批評が作品を飲み込む」という言葉で言い表すこともある。(この言葉は金井美恵子の言葉。私の記憶が確かなものであれば、)この現象の発生を目の当たりにしたければ、次のような批評の言葉(批評言語)を読むと、その現象の発生の現場を体験することができる。それらの言葉たちは小説を読む時とは全く異なる想像力と記憶を要求し、批評の言葉を読むことの悦楽、文学を読むことの快楽を、私に刻み付けた言葉たちでもある。(ここには、その批評の対象を人が作った個別の作品に留めることなく、世界、宇宙、全存在、人類の全ての営為に向けた澁澤龍彦、松岡正剛、中沢新一、佐々木中らの仕事も含まれる。そこでは、「批評が宇宙を飲み込む」ということになる。)
蓮實重彦、四方田犬彦、山根貞男らによって書かれた映画批評、東野芳明、澁澤龍彦、浅田彰、伊藤俊治、港千尋らによる美術批評、吉田秀和、渋谷陽一、村上春樹らによる音楽批評、花田清輝、澁澤龍彦、巖谷國士、金井美恵子、飛浩隆らによる文芸批評、隈研吾、伊藤豊雄らによる建築批評、澁澤龍彦、種村季弘、松岡正剛、柄谷行人、中沢新一、佐々木中らによる文明批評、全自然学批評、全存在学批評、等々。
断片的に非体系的に偏狭的に、クラッシック(古典)も、忘れ去られた本も、未だ、何が書かれているのか読み切ることができない本も、相反し牽制し合う本たちも、ほんの一例として。
例えば、花田清輝の「復興期の精神」、澁澤龍彦の「夢の宇宙誌」、「胡桃の中の世界」、巖谷國士の「宇宙模型としての書物」、金井美恵子の「添寝の悪夢 午睡の夢」、「書くことのはじまりにむかって」、「映画、その柔らかい肌」、蓮實重彦の「映像の詩学」、「映画狂人日記」、「映画 誘惑のエクリチュール」、四方田犬彦の「映像の招喚」、「封切り日が待ちどおしい」、「映画はもうすぐ百歳になる」、山根貞男の「日本映画時評」、川本三郎の「微熱都市」、「都市の感受性」、「感覚の変容」、「青の幻影」、松岡正剛の「遊学」、「自然学曼荼羅」、「千夜千冊」、中沢新一の「チベットのモーツァルト」、「森のバロック」、「緑の資本論」、「カイエ・ソバージュ」、「レンマ学」、東野芳明の「現代美術 ポロック以後」、浅田彰の「ヘルメスの音楽」、伊藤俊治の「写真都市」、「生体廃墟論」、港千尋の「考える皮膚」、「映像論 〈光の世紀〉から〈記憶の世紀〉へ」、佐々木中の「切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉を巡る五つの夜話」、「アナレクタ2 この日々を歌い交わす」等々、書き尽くすことなどできはしない。
これらの本の一部でも読めば、言葉が作品に垂直に切り込み血飛沫を上げて、言葉が作品を、宇宙を、飲み込む様を見ることになる。そして、飢えていることに気が付く。「私は作品に飢えている」、と。猛然と狂い立つように襲い来る作品への飢餓感。それは、批評の言葉が、その作品を素材として、それがもたらす最高の美味を引き出す最高の料理であることを示している。批評家とは、最高の料理人でもあるのだ。
(15)批評の言葉となることができなかった言葉たち、あるいは、誰もが、批評家になれる訳
ではない、ということ
しかし、ここには、大きな壁が存在している。それは、人が作った批評の言葉(批評言語)が、文学にならなければならないという壁である。その批評の言葉(批評言語)が、文学になることが叶わなかった場合、その批評の言葉(批評言語)は作品を批評することはできないことになる。結果として、その言葉は批評の言葉(批評言語)となることができないことになる。そうした言葉たちは、批評の言葉のような言葉たちとして、世界を浮遊し、廃墟の残骸の集積のような街を作る断片のひとつになるより他ない。
従って、残念ながら、誰もが、批評家になることはできない。それは、誰もが、小説家になることができないことと同様なことである。批評とはひとつの文学的営為なのである。文学的営為が無条件に誰もが達成できるものではないということは、明白である。批評家になることを人が渇望しても、誰もがその願望を叶えられるわけではないのである。ここに於いては、その人の出自、来歴、有名か無名か、さらには匿名か、といった事柄、あるいは、それを職業としているか、否か、また、その批評が商品として優れているか、否か(売上高の大小)、共感する人の数、更には、権威が有るか、否か、といったことは、全く、関係がない。その批評の言葉が文学になりえているかという一点のみが、問われているだけである。
(改めて言うまでもないが、無力な私が書いたものが批評であろうはずがない。卑下でも謙遜でもなく、単なる事実として、それは批評になりえなかった廃墟の残骸のような言葉たちの一群にしか過ぎない。また、作品を採点して星の付与ができる力も私は持ってはいない。私の星取りは、作品へのオマージュと作者への敬意、それ以上の意味はない。私は批評家ではない。そして、私は身の程知らずでもない。)
驚くべきことかもしれないが、批評を職業としている権威有る人々が書く言葉の全てが、必ずしも批評である訳ではない。それが高名な批評家による批評というパッケージングが施された商品であったとしても事態は変わらない。批評という商品がシステムの中で流通することが、それが批評であることを保証している訳ではない。そこで用いられている批評という言葉は、商品のラベルとしての意味しかない。
それが批評か、否かは、読み手が自前の想像力と記憶によって判断するしか方法はなく、その判断と裁定は、読み手に委ねられている。文学を文学たらしめる根拠は、ひとりの人間の存在以外にはない。文学とは、本質的にそうしたものなのである。
別の言い方をすれば、批評家という存在は、根本的な意味において、職業の名称でも、社会的機能でも、社会的役割でも、地位でも、その名称でもない。〈批評を書いた人〉、それ以外に批評家の定義は存在しない。だから、確信犯によって、あるいは、そうした認識の欠落した無垢な、自称、又は、他称の批評家たちによって批評の言葉のような言葉たちが、絶えることなく、日々、生産される状況が生まれる。なぜか? 素晴らしき高度資本主義システムが円滑に稼働するためには、評価(批評)が必要だからだ。それが見せ掛けだけの贋物の批評であったとしても、システムは商品に値札とその根拠を必要としているのだ。そして、今日も、世界には批評の言葉のような言葉たちが氾濫し、この世界が埋め尽くされることになる。
(16)廃墟の残骸のような言葉たちが埋め尽くすように浮遊する空間を、〈小さな弱き者たち
としての言葉たち〉が、小鳥のようにさえずる
では、文学となれなかった、批評となることができなかった言葉たちとは何か?
何によって、この世界は埋め尽くされているのか?
あるいは、そうした言葉たちで埋め尽くされたこの世界とは何か?
その世界は、廃墟の残骸のような言葉たちが埋め尽くすように浮遊する空間を、〈小さな弱き者たちとしての言葉たち〉が、小鳥のように行き交いさえずる世界だと、私は思う。その〈小さな弱き者たちとしての言葉たち〉のことを、仮に肯定するならば、〈感想〉とか〈印象〉といった言葉で言い表してもいいのかもしれない。それらの言葉は断片的で、非体系的で、非論理的で、独断的で、理由も根拠も欠いた言葉たちだ。そう、それらは、フラジャイルなものたちなのだ。
その中には、それを書いた人の、作品と遭遇して、感じたこと、思ったことが書かれてある。明確にしておかなければならないが、私には、〈感想〉や〈印象〉が批評(評価)より劣ったものであるという考えはない。それらの言葉には、作品を批評(評価)する力はないのかもしれない。だが、そこには、シンプルに作品についての人の気持ちが溢れている。それは、それで、貴重で、重要な、大切なものではないだろうか。
人が作品と出会い、何かを感じ、何かを思う。それを言葉にする。判断するのではなく、評価(批評)するのでもなく。感じたこと、思ったこと、思い出したこと、記憶に残ったこと、生まれて来た気持ちのこと、〈感想〉と〈印象〉。そこには、その作品の価値を判断する(評価)といった事柄は必ずしも含まれてはいない。また、そこには説明も理由もないのかもしれない。その〈感想〉や〈印象〉には、肯定的なもの、否定的なもの、その両方があるのだろう。場合によっては、作品が人の内面を深く傷つけ、また、人が作者の内面を深く傷つけることもあるのかもしれない。内面を傷つけ合う人と作品と作者。人と作品が遭遇して互いに無傷であることなどあろうはずがない。それはまるで、愛と憎しみのように。しかし、それでも、それは、人にとっても、作品にとっても、作者にとっても、愛と同じように、素敵なことだ、と私は思う。
人は、誰であっても、〈感想〉、〈印象〉を書くことができる。それが巧みなものであるとか、稚拙なものであるかなんて、そんなことは、はっきり言って、どうでもいいことだ。評価(批評)という呪縛から自身を解き放ち、感じるまま、思いつくまま、気の向くまま、好きなように、自分の言葉を作品と作者に届ければ、それでいい。
〈リフレイン〉
カシワイさん的なるもの
好きだという気持ちに、理由なんていらない。
好きだというこの気持ちは、私が私であることの証だ。そして、あなたがあなたであることの証でもある。
誰にもそれを奪わせない。誰にも奪うことなどできはしない。
その気持ちの根拠を、言葉にできようが、できまいが。
(17、あるいは、エピローグとして)
カシワイさんの作品によって、フラジャイルなものたちと一緒に見た私の夢の結末
私の試み、「ささやかな抵抗、だが、根源的な抵抗、あるいは、長距離射程砲によるフラジャイルからの反撃」、カシワイさんの作品によって、フラジャイルなものたちと一緒に見た私の夢の結末は、無残な敗北に終わったのかもしれない。テーゼは門前払いされ無視され否定され、その論証も欠陥を指摘されるまでもなく嘲笑を受けただけなのかもしれない。結果として、テーゼは私が信じる事柄を述べただけの、言わば、独り善がりな信仰告白に過ぎず、論証は出来の悪いマジックのように、空中に組み上げた論理の階段を、昇ったように見せ掛けただけの芝居に過ぎなかったのかもしれない。全体も総体も、そして、素晴らしき高度資本主義システムも、何一つ傷を負うことなく無傷のまま、今日も粛々と更新を続けているだけなのかもしれない。
でも、私は、それでもかまわないと思っている。何故なら、だからと言って、フラジャイルなものたち、孤立性を持つものたちが、この世界から完全に排除された訳ではないのだから。カシワイさんの永遠と瞬間が交錯する世界の中で、フラジャイルなものたちは、確かに息づいている。私が声を上げるまでもなく、その弱き者たちは、廃墟の残骸のような言葉たちが埋め尽くすように浮遊する空間を、小鳥のようにすり抜け、その自由さによって、その弱さによって、何度でも、強き者たちに抵抗し反撃することだろう。
(了)
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107号室通信 (torch comics) コミック – 2016/6/17
カシワイ
(著)
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購入オプションとあわせ買い
新しい才能が描く、漫画の地平を切り拓く初作品集。
光溢れるフルカラーコミック。
[植物][収集][記憶][宇宙]
四つの主題で描かれる、眩いばかりの空想群。
当たり前にあるものの突然の不在……「消失の朝」
見知らぬ誰かの言葉に高鳴る胸……「漂流」
世界を形作るものに気がつく時……「一片のねむり」
いつもの夜空が奇跡に思える……「天象儀の夜」
ささやかだけど忘れがたい18の物語。
◆収録話◆
<植物>
消失の朝/公園/107号室通信/竹林/旅する恋人
<収集>
漂流/電話番/窓
<記憶>
回遊/採掘/層/一片のねむり
<宇宙>
乗り合わせ/音楽の模様/交信/天象儀の夜/連想/停留地
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回遊/採掘/層/一片のねむり
<宇宙>
乗り合わせ/音楽の模様/交信/天象儀の夜/連想/停留地
- 本の長さ156ページ
- 言語日本語
- 出版社リイド社
- 発売日2016/6/17
- ISBN-104845844257
- ISBN-13978-4845844258
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登録情報
- 出版社 : リイド社 (2016/6/17)
- 発売日 : 2016/6/17
- 言語 : 日本語
- コミック : 156ページ
- ISBN-10 : 4845844257
- ISBN-13 : 978-4845844258
- Amazon 売れ筋ランキング: - 164,298位コミック
- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
5つ星のうち4.2
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2020年8月3日に日本でレビュー済み
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2022年12月30日に日本でレビュー済み
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素敵な世界観で良かったです。イラストもくどくなくてあっさりとした感じで。
また読み返したいと思います。
また読み返したいと思います。
2017年1月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
個人的な感想です。
ガロ系や独特な世界観の漫画が好きで
偶然類似した商品一覧に
出てきたので購入してみました。
最後まで読みましたが
今までで一番自分に合わなかったです。
描写や話の世界観に引き込まれる事がなく
共感できるシーン、伝わってくるものが
余りにも無かったのでもう一度読みたいと
思いませんでした。
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余りにも無かったのでもう一度読みたいと
思いませんでした。
2017年11月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ちょうど学生時代の実験室の部屋番号だ!
と思って、購入してみたら。
独特の余韻が素晴らしい。
凝り固まった意識を徐々に開放してくれる感じがしました。
いい作品だと思いました。
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独特の余韻が素晴らしい。
凝り固まった意識を徐々に開放してくれる感じがしました。
いい作品だと思いました。
2018年8月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この描き手は詩やものがたりの力を信じている。大きなものがたりではなく、小さくて、些細な、気をつけないと見過ごしてしまいそうなものがたりを日常の中からすくい取って読者につかの間の夢を見させてくれる。
子どもの頃、海岸で石を拾ったり、森で小枝を拾ったり、公園で木漏れ日の揺らぎを飽かず眺めていたりした、孤独だけれども自分よりも大きな何かと繋がっているような、自分が周囲に溶けていくような感覚を思い出す。その孤独で豊かな感覚を今も持ち続けている大人に向けたファンタジー。透き通っていて凜としていて、それでいてキュートな、静かな興奮を覚える一冊。絵も内容によく合っていて素晴らしい。
子どもの頃、海岸で石を拾ったり、森で小枝を拾ったり、公園で木漏れ日の揺らぎを飽かず眺めていたりした、孤独だけれども自分よりも大きな何かと繋がっているような、自分が周囲に溶けていくような感覚を思い出す。その孤独で豊かな感覚を今も持ち続けている大人に向けたファンタジー。透き通っていて凜としていて、それでいてキュートな、静かな興奮を覚える一冊。絵も内容によく合っていて素晴らしい。
2018年2月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
雰囲気重視。よくも悪くもこれにつきるかと。こういう雰囲気たまらなくすき!という人は大好きだと思いますが、そうでないひとはふーん…という感じ。ヴィレッジヴァンガードが好きとか、ソフトなサブカル系がすきなひとは向いてるかも。
2016年6月16日に日本でレビュー済み
こういった詩的な作品の出版は本当に嬉しいです。
シンプルだけど奥行きのある絵がとても印象的です。
物語は些細なものから壮大なもの
思いがけない出来事、ファンタスティックなもの等
世の常を拡大鏡や万華鏡で覗いたような観点で描かれています。
普段、見ようと思えば見れるけど
なかなか見ようとしない事をテーマへ取り入れたり
分かっていたはずなのに忘れてしまった気持ち――
何時しか忘れていった気持ちに気づかされました。
そういった大事なことや見落としがちなことが
ストレートに入ってきて
感慨を与えてくれます。
著者に様々な感性があるからこそ
そこから掘り下げられたものが
この妙々たる世界を構築しているのですね。
もしも、こういった感覚で世の中を見つめられたら
いつも瑞々しい心持ちでいられそうです。
いつまでも手元に置いておきたい作品です。
シンプルだけど奥行きのある絵がとても印象的です。
物語は些細なものから壮大なもの
思いがけない出来事、ファンタスティックなもの等
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なかなか見ようとしない事をテーマへ取り入れたり
分かっていたはずなのに忘れてしまった気持ち――
何時しか忘れていった気持ちに気づかされました。
そういった大事なことや見落としがちなことが
ストレートに入ってきて
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著者に様々な感性があるからこそ
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この妙々たる世界を構築しているのですね。
もしも、こういった感覚で世の中を見つめられたら
いつも瑞々しい心持ちでいられそうです。
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2019年10月28日に日本でレビュー済み
ストーリーが無い!という人がいるけど、
物語がないというより、キャラクターが薄いんだと思う。
同じく不思議な世界を探索するPANPANYA氏のマンガだと、
キャラクターの表情の反応による面白さがあるんだけど、
本作は意図的にそういうものを排除しているようで、例えるなら詩に近い。
登場人物の感動や喜怒哀楽は、表情や動きではなく、絵と言葉によって表現される。
そのため主人公以外の視点が存在しない。ほぼすべてを通して一人語り(通信)で進行する。
途中、1話のみロボットが登場するけど、常にひとり語りだからこそ、
そこだけは、二人のやりとり=関係性が発生しているので、物語性を感じられた。
低評価している人も、駄作だからではなく、
物語性を期待している点で裏切られたというのが大きいはず。
このスタイルが悪いわけではないけど、楽しませるという観点で言えば、
登場人物は二人以上出したほうがいい。
ちなみに新作では、複数のキャラクターが登場しているので随分読みやすくなっている。
物語がないというより、キャラクターが薄いんだと思う。
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途中、1話のみロボットが登場するけど、常にひとり語りだからこそ、
そこだけは、二人のやりとり=関係性が発生しているので、物語性を感じられた。
低評価している人も、駄作だからではなく、
物語性を期待している点で裏切られたというのが大きいはず。
このスタイルが悪いわけではないけど、楽しませるという観点で言えば、
登場人物は二人以上出したほうがいい。
ちなみに新作では、複数のキャラクターが登場しているので随分読みやすくなっている。







