一般に
作品中の主人公は
著者のモデルであるとは限りません。
しかし何パーセントかは
著者の投影である可能性があります。
私は本書の次の一文に注目しました。
【そして私はラジオでは
AM放送のニュースと天気予報
以外の番組をまず聞かなかった
(地形の関係でFM放送の電波は
ほとんど入らなかった)。】
(pp.283-284)
「書かれた文字」が主戦場である著者と
ラジオには予想外の関係があるようです。
実は村上春樹氏(1949-)は
あるFMラジオ局で不定期の番組
『村上RADIO』(村上レディオ)を
持っています。ごく最近
その5回めがオンエアーされた由です。
村上氏みずからディレクターとなり
テーマに合わせて音楽(レコード?)を
選曲しDJも勤める内容です。
メディアへの露出が少ない
ことで知られる村上氏ですが
ラジオという媒体にはご自身
何らかの親和性があるのかもしれません。
ゲーテ(1749-1832)なら端的に
「親和力」と呼んだことでしょう。
(恐縮ですが私は作品中の「私」同様
AMラジオしか聴かないので
村上氏のFMラジオ番組の存在を
これまで知りませんでした)
また村上氏には
『村上ラヂオ』(マガジンハウス → 新潮文庫)
『おおきなかぶ、むずかしいアボカド
村上ラヂオ2』(同)
『サラダ好きのライオン
村上ラヂオ3』(同)
という随筆集もあります。
挿絵は大橋歩氏です。ただし
もともとは雑誌『anan』の連載であり
ラジオ放送やラジオ器機とは関係ありません。
しかし連載のタイトルを
『村上ラヂオ』とつけた点から忖度しますと
radio への親しみやすさを持っているのかも
しれません(本当の経緯は不明です)。
ミリオンセラーとなった
『ノルウェイの森』(1987)の初めの方で
「突撃隊」(あだ名)という学生が
早朝ラジオをつけて室内でラジオ体操を
する行為が vivid に描かれていました。
跳躍する「突撃隊」と寝起きで
それをにらんでいる「ワタナベ君」が
私にはくっきりと映像(image)として
目に見えたように感じました。
リアリズムの文体でリアリズムの物語を
書いた『ノルウェイの森』の中の
挿入話として光るものがあります。
このように
村上氏の作品の中では
クルマや音楽ほどではありませんが
ラジオもときどき顔を出す小道具として
有効に使われているように思います。
そこの何かのメタファー(隠喩)が
あるかと問われれば、ないと思います。
私がAMラジオのファンなので
深読みしているだけかもしれません。
村上作品の中のラジオはともかくとして
現実のラジオは厳しい環境にあります。
2019年は
「ラジオ業界がルビコン川を渡った年」
として後年、記憶されることになる
のではないかと思います
(あくまで個人の感想です)。
総務省が2016年1月29日に発表した
「ラジオ放送事業者の経営状況と
ラジオにおける新しい動き」と
題する資料をもとに要点を述べます。
1)日本の民間ラジオの広告収入は減少している。
2)欧米主要国(米・英・仏・独)においては
民間ラジオの市場規模は減少していない。
3)欧米主要国(同上)に比較すると
日本のラジオ聴取時間は少ない。
特に英・仏・独に比較すると明確に少ない。
このような総務省の意向を受けて
その後の経過を付け足しますと
4)2015年頃から順次
「FM補完放送」
(AMと同じ内容を同時にFMでも流すこと)
(関東地区ならば「ワイドFM]という愛称)
が開始された。
ちなみに電波を周波数ないし波長でわけると
AM=中波
FM=超短波
となる。高校の物理で習うように
周波数と波長は反比例の関係にある。
5)それより先
インターネットで音声コンテンツとして
ラジオ番組を配信するサービスが開始された。
例えば
radiko (民間AMラジオが多く加盟)
らじる★らじる(公共放送)
LISMO、WIZ RADIO(ともにFM局)
などがある。
6)2019年3月27日
民放連が総務省に対し
AMラジオのFMへの転換を要請した。
理由は「広告収入の減少による
送信所など設備維持困難」。
(一般にAM=中波の場合
送信アンテナの設置に
広い面積が必要とされる)
この5年くらいの流れのうち
節目節目の出来事をピックアップしますと
おおむね上のようになります。
「AMからFMへの転換」
というよりはむしろ
「AMからインターネットへの転換」が
(総務省と関係者の)ホンネでしょう。
ひとことで標語的に申し上げますと
「ニュースからコンテンツへ」です。
総務省が敷いた線路の上を自動運転の
電車が走っているような印象を受けます。
この方向を推進する人の中には
「AM廃止は世界の潮流だ。
FM化・インターネット化されても
同じものが聴けるから何も変わらない」
と主張する人もいます。
しかし末端のヘヴィーリスナーとして
それは間違っていると
「皮膚感覚で」感じます。
そのことを以下で説明いたします。
「AM廃止 → FM化・ネット化」が
純粋に技術面・ハード面の問題ならば
いたしかたない一面もあります。
AMラジオが入りにくい建物が増えた
のは事実ですから。
しかしあたかもそれに「便乗」するように
ソフト面・内容面で大きな2つの変化が
リスナーへの説明抜きに起こっている
気がしてなりません。
それは
[1]これまでのAMラジオを聴いてきた
(おこがましいですが「支えてきた」)
相対的高年齢者層の切り捨て。
[2]政権へのやさしいよりそい。
の2つです。
具体例を挙げましょう。
この春、終了となった番組があります。
たとえば次の5つです。
①『歌の日曜散歩』
‥(公共放送 日曜午前)
②『かんさい土曜ほっとタイム』
‥(公共放送 土曜午後)
③上記②の中の『ぼやき川柳アワー』
‥(同 午後3時台)
④『荒川強啓デイ・キャッチ!』
‥(民間放送 月~金夕方)
⑤『NHKマイあさラジオ』の中の
『社会の見方・私の視点』
‥(公共放送 月~金早朝6:42頃)
①~④は長年続いた番組です。
正確な数字は持ち合わせませんが
聴取率は良かったと思います。
特に③における「ぼやき川柳」の投稿数と
番組終了が決まったときに
山のように届いた惜しむ声の川柳は
それを反映していています。
(『ぼやき川柳』は『ラジオ深夜便』の中の
いちコーナーに移りましたが遅い時間ですし
選択の方針も変わったような印象です)
あるいは
④の中には毎週水曜日に「時事川柳」という
コーナーがありました。
毎回5句前後紹介されるのですが
へたな新聞のコラムよりも
山椒は小粒でぴりりと辛い
と感じるものが多かったように思います。
公共放送でも民放でも人気があった
「川柳」はあくまで一例ですが
相対的高年齢者層がよく聴いていた
ラジオ番組がこの春
「一方的に」「足並みをそろえて」
終わってしまった印象です。
喪失感(番組ロス)を味わっている人も
少なくないように思います。
ニーチェ(1844-1900)ならそれを
「ルサンチマン」(怨念)と呼ぶことでしょう。
公共放送第一では昔も今も
午前6時30分からラジオ体操を流し
その後、放送していたのが⑤です。
意見を述べる方は日替わりで
竹中平蔵氏(1951ー)のように
政権の中にいた方もあれば
それとは意見を異にする
内橋克人氏(1932-)
森永卓郎氏(1957-)
のような方もいて
バランスが良かったのが特長です。
若き憲法学者
木村草太氏(1980-)も
社会の諸現象を「法の精神」という切り口で
説明していて分かりやすかったものです。
現在では目先の金儲けのような番組に
変わりましたので聴くのをやめました。
「マイあさラジオ」の後継番組が
「マイあさ!」というのは文字通り
AM「ラジオ」の切り捨てを象徴して
いるので公共放送から私たちへの
メッセージなのかもしれません。
出演者という点で申し上げれば
④は日替わりの「デイキャッチャー」
(いわゆるコメンテーター)が
「ボイス」というコーナーを
担当しているのが特長でした。
青木理氏(1966-)
小西克哉氏(1954-)
近藤勝重氏(1945-)
山田五郎氏(1958-)
宮台真司氏(1959-)
がいちばん最後のレギュラーでした。
私も曜日の関係で毎日毎回
聴いていたわけではありませんが
(たまたま聴いた)
地道な取材に基づいた
沖縄の人の本当の心情
(野中さん小渕さんのころは
情があった。それにひきかえ…)
などは今でも記憶に残っています。
政権与党にとっては決して
心地良いものではなかったと思われます。
しかし
番組が終了したことによって
当然ボイスのコーナーもなくなり
デイキャッチャーの出演もなくなりました。
結果として
政権にやさしくよりそう方向に足を
踏み出したことになろうかと思います。
単純に考えても
ニュース番組がなくなって娯楽番組になれば
それだけでも効果は大きいと思われます。
もしそれがコンテンツ化の実態であると
するならば夢も希望もありません。
2019年春に起こった
AMラジオ局における変化は
個々の変化は量的には小さいものですが
総体を俯瞰して見ると
質的な変化に転じているように思います。
「ルビコン川を渡った」
と表現したのはその意味です。
村上春樹氏は
その作品の中で
不思議な能力を有する謎めいた少女を
手を変え品を変え描いています。
『ダンス・ダンス・ダンス』の「ユキ」
『ねじまき鳥クロニクル』の「笠原メイ」
『騎士団長殺し』の「秋川まりえ」
がその代表です。このように
いわゆる若者層・若年層にも
たいへん意味深い・有意義な人たちも
いるのは事実です。しかし
そういう人たちの発掘ではなくて
なだれのような「若者文化総体への迎合」が
(個々の若者とのコミュニケーションではなく)
AMラジオのインターネット・コンテンツ化に
伴って推進されているように思います。
例えば
このラジオ番組が「やばい」と言われたときに
もちろん私にも意味は分かりますが
自分からそういうコトバは決して使いません。
(誰に頼まれたわけでもないのに)
正しい日本語の牽引車のような
過剰とも言える自意識のもと
正しい日本語の話し方みたいな番組すら
作っている公共放送が
「良い」「すごい」という意味での
「やばい」に迎合するのは
組織として自己矛盾した現象です。
最初に戻って
欧米主要国(特に英・仏・独)に比べて
日本におけるラジオ聴取時間が少ない
ことの原因は
技術面・ハード面ではないところに
存在していると考えています。
現代、日本人の文化的水準も
関係しているかもしれません。
確か日本人のテレビ視聴時間は世界でも
トップクラスだったように記憶します。
テレビ番組の改革が必要かもしれません。
一例を挙げますならば
年末のジェンダー対抗の歌番組や
1年50回近くかけて微視的に進むドラマ
を見るために安くはない受信料を
払っているのではないような気がします。
しかも昨今は受信料が
受信設備設置にともなう「国税」のような
厳しい存在になっています。
あたかも徳川時代初期の
天草・島原の年貢の取り立てを
彷彿とさせるときがあります。
(あくまで個人の感想です)
2019年春は私に取りまして
・『騎士団長殺し』を読了した余韻
・いくつかのAMラジオ番組が終了したこと
による喪失感(番組ロス)
・ラジオのインターネット・コンテツ化が
促進されることへの「ぼんやりとした不安」
‥などが二重らせんのようにからみ合って
記憶されることと思います。
後年
良きシナリオをたどったか
悪しきシナリオをたどったかは
判定可能となるでしょう。
果たしてその時まで私が生きているかどうか
という根源的な問題もありますが
Information Technology の変化は
迅速と思われますので
ひょっとすると自分の目と耳で
確かめることができるかもしれません。
そして tough な村上氏はその時も
作品を書き続けていることと思います。
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