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零號琴 (早川書房) Kindle版
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言語日本語
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出版社早川書房
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発売日2018/10/25
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ファイルサイズ2101 KB
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
はるかな未来、特種楽器技芸士のセルジゥ・トロムボノクと相棒シェリュバンは、大富豪のパウル・フェアフーフェンの誘いで惑星“美縟”に赴く。そこでは首都“磐記”全体に配置された古の巨大楽器“美玉鐘”の500年ぶりの再建を記念し、全住民参加の假面劇が演じられようとしていた。やがて来たる上演の夜、秘曲“零號琴”が暴露する美縟の真実とは?飛浩隆、16年ぶりとなる第二長篇。
--このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。
著者について
1960年、島根県生まれ。島根大学卒。1981年、短篇「ポリフォニック・イリュージョン」で第1回三省堂SFストーリーコンテストに入選、「SFマガジン」に掲載され、デビュー。83年から92年まで同誌に短篇10篇を発表。10年の沈黙ののち、2002年、長篇『グラン・ヴァカンス 廃園の天使I』を発表、脚光を浴びる。2005年、短篇集『象(かたど)られた力』で第26回日本SF大賞を受賞。2007年、短篇集『ラギッド・ガール 廃園の天使II』で第6回センス・オブ・ジェンダー賞を受賞(以上、早川書房刊)。2018年、短篇集『自生の夢』(河出書房新社)で第38回日本SF大賞を受賞。
--このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
飛/浩隆
1960年、島根県生まれ。島根大学卒。1981年、「ホリフォニック・イリュージョン」が第1回三省堂SFストーリーコンテストに入選、SFマガジンに掲載されてデビュー。2005年、初期作品集『象られた力』で第26回日本SF大賞を受賞。2007年、連作集『ラギッド・ガール 廃園の天使2』(以上、ハヤカワ文庫JA)で第6回Sense of Gender賞大賞を受賞。2017年、作品集『自生の夢』で第38回日本SF大賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。
1960年、島根県生まれ。島根大学卒。1981年、「ホリフォニック・イリュージョン」が第1回三省堂SFストーリーコンテストに入選、SFマガジンに掲載されてデビュー。2005年、初期作品集『象られた力』で第26回日本SF大賞を受賞。2007年、連作集『ラギッド・ガール 廃園の天使2』(以上、ハヤカワ文庫JA)で第6回Sense of Gender賞大賞を受賞。2017年、作品集『自生の夢』で第38回日本SF大賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。
登録情報
- ASIN : B07JMW1QL8
- 出版社 : 早川書房 (2018/10/25)
- 発売日 : 2018/10/25
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 2101 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効
- Word Wise : 有効にされていません
- 本の長さ : 626ページ
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Amazon 売れ筋ランキング:
- 30,038位Kindleストア (の売れ筋ランキングを見るKindleストア)
- - 3,032位日本の小説・文芸
- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
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ベスト500レビュアー
Amazonで購入
この小説については、著者があとがきで”基本、お気楽な読み物であり”、とか”ドタバタを描く娯楽読み物”と言っている。加えて大森望twitterによれば、”7年前に連載で読んだときは、古風でエキゾチックな冒険SFという印象で、いくら改稿したにしても、あれがオールタイムベスト級の本格SFになるとか、そんなわけ…………ほんまや! どうしてこうなった!?”とある。この意見には大賛成だ、評者は連載時には読んでいないが、当初のドタバタにハイペリオン級の壮大な仕掛けを加えてできた、という印象で、ラノベ風のセリフ(ラノベは実はよく知らないのだが)やアニメ要素が本格SF小説の外観を持つ本作の核にあることを感じることができる。小ネタもかなりあるという印象だが、地の文章は、まさに従来の飛作品と同じく硬質で詩的なニュアンスに満ちている。また、音楽をどのように文章で表現するのか、という冒険にも挑戦している。ただし、この小説はSFファン向けのもので、一般読者には少々敷居が高いのではないだろうか。裏を返せば、SF要素が極大だということでもある。
27人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2018年10月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『想像しえぬものが想像された』という帯の宣伝文句はまさにそのとおりで、この小説の中の世界は想像の中でもあり得ない……と絶句するような事象であるにもかかわらず、頭の中では細部まで鮮明に再現されます。絶対に見たことも聞いたことも考えたこともない光景なのに実感を伴って見えないものが見え、聞こえないものが聞こえてくるのです。これも圧倒的な文章の力のなせる技なのでしょうか。
それは「脳内体験型アトラクション」とでもいうような感じです。
なにを言っているのか、と思われるかもしれませんが、小説を読むというよりも小説を体験しているという感覚です。
読んでいる最中も読みながらこの奇妙な感覚に非常に頭が混乱しました。しかしその混乱さえ楽しみつつ夢中で読んでいました。
装丁やあらすじでごりごりのハードSFを予想しますが、いい意味でそれを裏切ってきました。
とんでもない娯楽作品です。
この本を読むにあたって必要なのは読む人の想像力。ただそれだけであるように思います。
想像を膨らませれば膨らませるだけ最高の読書体験ができるはずです。
それは「脳内体験型アトラクション」とでもいうような感じです。
なにを言っているのか、と思われるかもしれませんが、小説を読むというよりも小説を体験しているという感覚です。
読んでいる最中も読みながらこの奇妙な感覚に非常に頭が混乱しました。しかしその混乱さえ楽しみつつ夢中で読んでいました。
装丁やあらすじでごりごりのハードSFを予想しますが、いい意味でそれを裏切ってきました。
とんでもない娯楽作品です。
この本を読むにあたって必要なのは読む人の想像力。ただそれだけであるように思います。
想像を膨らませれば膨らませるだけ最高の読書体験ができるはずです。
2018年11月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
奇怪ながら、奇怪ゆえに飛浩隆ならこう書くだろうとしか思えない作品。
そもそも印象に残る描写に定評がある著者であるが、その由来の無い知恵を絞って考えると
言葉から要素を引っ張り出したり、それを揺さぶる力の強さにあるのではないだろうか。
これは描写力とは微妙に違う種類の力で、作中で示されたものから引っ張り出される粒子とでも言うべきだろうか。
それはテクスチャー、成分、構成といった言葉で表現されるものあり、今回は惑星そのものですらこの形式でぐいぐいと持っていく事になる。
それすら実験体としてみなされて、さらに別の粒子が引っ張り出されるパターンや
もう一度固体に還元されるという流れもある。
この移行のめまぐるしさ、普通繋がらない所を滑らかに繋げてしまう巧みさが
著者の作品をドライブさせている要因なのは間違い無い。
飛浩隆の作品に出てくる食べ物の謎のパワーに代表される五感に与える印象の強さや
サイバースペース的なものとの相性の良さはここにあると思われる。
食事は味とテクスチャー、五感を刺激する物質は粒子の詰まった固体であり、
サイバースペースではそういった要素が現実以上にガンガン移行させやすい為だ。
それをバラしたり、つなぎ合わせたり、抽出したり、凝固させてみたり……
完全に熟達したマッドサイエンティストの手管である。
先鋭的、前衛的とは違った意味で著者の作品は「実験的」なのだ。
読者が実験体になった様な気分になる事と、この辺りは無関係ではない筈。
そして今回はそれがお話そのものに適用された作品として見ると、非常に著者らしい作品であるというのが解る。
ネタバレになるとぶっ飛んだ方向の面白さが半減する性質の作品なので細かい話は避けるが
大筋の話に重ねあわされる粒子が大筋自体に揺さぶりをかけたり、大筋そのものとなり、
その結果っていうか大筋って何?となり、さらに核心を引っ張り出す……というカオスっぷりである。
だから初見で衝撃を与えるであろうあの粒子が異質なのは、大文字のSF、神話からすると異質であると同時に
その構成要素になりうるポテンシャルが必要だったからではないだろうか。
そしてそれが示すのは偉そうな神話だろうがSFだろうが、著者の手術台に乗ってしまえば
そこの辺にあるオハナシと変わらないという事。
それが文章自体のノリの移行にまで応用されているように見えるのが、本当にこの人悪趣味だなと。
ある惑星に未知の文明のオーパーツがあってそれを専門家が解明する、という100万回どころでなく使い倒された筋。
そこからは想像ができない所に連れてかれるのは間違いない。
勿論、飛先生名物いつもの地獄絵図も大盤振る舞い!
兎に角、こんな愚考を読む暇がある位ならこの600ページの
とんでもないドライブ感と頭痛の種を大量に植えつけるこの一冊をとっとと読むべき。
そもそも印象に残る描写に定評がある著者であるが、その由来の無い知恵を絞って考えると
言葉から要素を引っ張り出したり、それを揺さぶる力の強さにあるのではないだろうか。
これは描写力とは微妙に違う種類の力で、作中で示されたものから引っ張り出される粒子とでも言うべきだろうか。
それはテクスチャー、成分、構成といった言葉で表現されるものあり、今回は惑星そのものですらこの形式でぐいぐいと持っていく事になる。
それすら実験体としてみなされて、さらに別の粒子が引っ張り出されるパターンや
もう一度固体に還元されるという流れもある。
この移行のめまぐるしさ、普通繋がらない所を滑らかに繋げてしまう巧みさが
著者の作品をドライブさせている要因なのは間違い無い。
飛浩隆の作品に出てくる食べ物の謎のパワーに代表される五感に与える印象の強さや
サイバースペース的なものとの相性の良さはここにあると思われる。
食事は味とテクスチャー、五感を刺激する物質は粒子の詰まった固体であり、
サイバースペースではそういった要素が現実以上にガンガン移行させやすい為だ。
それをバラしたり、つなぎ合わせたり、抽出したり、凝固させてみたり……
完全に熟達したマッドサイエンティストの手管である。
先鋭的、前衛的とは違った意味で著者の作品は「実験的」なのだ。
読者が実験体になった様な気分になる事と、この辺りは無関係ではない筈。
そして今回はそれがお話そのものに適用された作品として見ると、非常に著者らしい作品であるというのが解る。
ネタバレになるとぶっ飛んだ方向の面白さが半減する性質の作品なので細かい話は避けるが
大筋の話に重ねあわされる粒子が大筋自体に揺さぶりをかけたり、大筋そのものとなり、
その結果っていうか大筋って何?となり、さらに核心を引っ張り出す……というカオスっぷりである。
だから初見で衝撃を与えるであろうあの粒子が異質なのは、大文字のSF、神話からすると異質であると同時に
その構成要素になりうるポテンシャルが必要だったからではないだろうか。
そしてそれが示すのは偉そうな神話だろうがSFだろうが、著者の手術台に乗ってしまえば
そこの辺にあるオハナシと変わらないという事。
それが文章自体のノリの移行にまで応用されているように見えるのが、本当にこの人悪趣味だなと。
ある惑星に未知の文明のオーパーツがあってそれを専門家が解明する、という100万回どころでなく使い倒された筋。
そこからは想像ができない所に連れてかれるのは間違いない。
勿論、飛先生名物いつもの地獄絵図も大盤振る舞い!
兎に角、こんな愚考を読む暇がある位ならこの600ページの
とんでもないドライブ感と頭痛の種を大量に植えつけるこの一冊をとっとと読むべき。
2019年3月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
あとがきにある通り、新しさも感動もない。作者の好きなガジェットを放り込んで自動筆記しているような雑多な感覚に乗れる人は傑作と言うかもしれないが、脳内に浮かんだ断片を精査せずに書きなぐったような展開に全く乗れなかった。読者にこう読んでもらいたいというわけではないが作者の誘導があってしかるべきだと思う。評判になっているのがいまいちわからない作品。
2018年12月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
面白いかと言われると微妙でした。
作品に通底していてほしい一貫性、空気感が感じられません。
第1部、第2部は楽しめる要素がありましたが、第3部以降でフリギア要素が唐突に提示され続ける感は否めません。
物語の中で別の物語を説明し説得的に関連づけるような展開は、連載作品には向かなかったのかなと感じます。
所々でおふざけ感の滲む(はっきり言えばおちゃらけている)、説得的でないフリギア要素を全て排しても、作中で500年前から予定されていたという硬質な本筋が成り立たないわけではなさそうで、最後のまとめを見ても釈然としない気分が残ります。
作品に通底していてほしい一貫性、空気感が感じられません。
第1部、第2部は楽しめる要素がありましたが、第3部以降でフリギア要素が唐突に提示され続ける感は否めません。
物語の中で別の物語を説明し説得的に関連づけるような展開は、連載作品には向かなかったのかなと感じます。
所々でおふざけ感の滲む(はっきり言えばおちゃらけている)、説得的でないフリギア要素を全て排しても、作中で500年前から予定されていたという硬質な本筋が成り立たないわけではなさそうで、最後のまとめを見ても釈然としない気分が残ります。
2019年8月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
連載で楽しみに読んでいたけれども大方忘れている。
ニチアサ祭りだったのはすっかり忘れてたが、面白かった。
フリギアに対して旋妓婀や、その他多くの当て字は酉島伝法「皆勤の徒」ほどではないがちょっと面倒だった。
SFM版はラストがあっけなかったことしか記憶がないのですごい量の改稿だと思う。
KindleでSFM版も出ているので改稿具合の確認もできそう。
こちらで星雲賞を受賞したので、前の受賞作続き「空の園丁」が早く読みたい。
ニチアサ祭りだったのはすっかり忘れてたが、面白かった。
フリギアに対して旋妓婀や、その他多くの当て字は酉島伝法「皆勤の徒」ほどではないがちょっと面倒だった。
SFM版はラストがあっけなかったことしか記憶がないのですごい量の改稿だと思う。
KindleでSFM版も出ているので改稿具合の確認もできそう。
こちらで星雲賞を受賞したので、前の受賞作続き「空の園丁」が早く読みたい。
2019年6月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
〈飛浩隆言語単位体〉
縦19.5センチ 横14センチ 厚さ3.5センチ 重量 560グラム
20行、45列、約600ページ。
20×45×600=540000、文字総数 54万個
表面は、「漆黒と黄金」で彩色され、巨大な文字で垂直に「零號琴」(れいごうきん)と銘打たれている。
その54万個の〈言語体〉をスキャナ(読み取り器)に放り込み噛み砕き喰らい付く。
滴り落ちほとばしり出る血肉に、たちまち、スキャナ・チェンバーはオーバー・フローし、溺れかける。
慌てて急遽、チェンバーを増設しようとするが、時、すでに遅し、〈飛浩隆言語体〉の中に私は投入される。
凝りに凝った仕掛けと細工、容赦のない非情なるヴィジョン、炸裂する飛浩隆文学の美学。
その暴れ捲くる言語体の渦の中に〈没入〉(ジャック・イン)し、降り注ぐ54万個の〈飛浩隆言語単位体〉の
霰弾を雨のように全身に浴び尽くす。その想像力を一滴残らず捧げて。
(1)〈飛浩隆言語体〉、あるいは、イメージと論理の相互作用の場として
〈飛浩隆言語体〉
それは読む人の脳を入口として、その身体全体に直接的な力として物理的な作用を及ぼす。
皮膚へ、肉へ、骨へ、血へ、手へ、足へ、顔へ、胸へ、腹へ、髪の毛一本一本へ、
言葉で造られた文にはイメージと論理が形成され、読む人はそのイメージと論理を自らの身体の中に取り込む。
イメージとは像であり、それは形(構造)とエネルギーを持つ。音の像、光の像、風の像、水の像、物質の像。
論理とは流れであり、物語であり、時間を持つ。始まりの論理、終わりの論理、サーガの論理、大定礎の論理。
このイメージと論理が互いに共鳴し合い、文は物理的力動的な力を得て人を動かす。
イメージの震度に見合うだけの論理。論理の跳躍に耐えられるだけのイメージ。イメージを持った論理、論理を
持ったイメージ。文という場で、イメージと論理が切り結び、そこに「力」が生まれる。
言い方を替えるならば、イメージを肉体、論理を思考と言ってもよいかもしれない。
思考に支えられた肉体、肉体に支えられた思考。思考を駆動する肉体、肉体を駆動する思考。
このイメージと論理が相互作用を及ぼすように言葉を組み立てるのは容易なことではない。多くの場合、イメー
ジの華麗さや論理の周到さが先行し、互いにきっちりと噛み合うことなく、その歯車は空回りしてしまう。
豪華絢爛たる装飾に満ち溢れたイメージ、緻密に展開される整然とした論理の展開、それらが互いに作用するこ
となく、単独で提示されてしまうと、そこに現れるのは美術工芸品のような飾り物、あるいは、遺体解剖の結果
を記した検視報告書のようなものと成り果てる。そこに、人を動かす力が生まれることはない。
しかし、飛浩隆の文においてはイメージと論理が相互作用する。イメージが論理を追い駆け、論理がイメージを
駆り立てる。
それは稀有な存在の一つだ。
その一例として。(あくまで、一例として。一つ一つ、取り上げて行くと際限が無いのである)
トロムボノクとシェリュバンが恒星間客船の中でパウル・フェアフーフェンと出会い、亞童たちに持って来させ
た美玉鐘の図面をトロムボノクが指で展開させ、その鐘を鳴らす場面。
3ページ程のほんの短いエピソードなのだが、イメージと論理(仕掛け)が見事に結合し、読む人の視界の中で
図面がくるくると拡大され、大建築の線画が現れ、身体の中で鐘の音が「霧のように」鳴る。
それは紙の上に存在する文字の連なりを、人が読むという行為によって生じるのだが、それは映像を見るのでも
なく音響を聴くのでもなく、言葉が人の中で直接、その身体の中に光と音の像を発生させるのである。目を通し
て見るのでもなく、耳を通して聴くのでもなく、言語が物理的に人の身体に作用し光と音を生み出しているので
ある。
〈飛浩隆言語体〉は、人間の身体に作用し、その中に、物理的化学的現象を発生させる。
比喩としてではなく、現実に、実際に。
(2)捕食者としての文学、あるいは、想像力を食べる燃焼炉としての文
〈飛浩隆言語体〉
それは、エネルギーを持つ。
人が、それに触れた瞬間、それを読んだ瞬間に。(言葉は人にかかわる前は物質に印された文様でしかない)
では、何処からそのエネルギーが供給されるのか?
何処からそのエネルギーを得ているのか?
それは読む人の想像力以外にないのであろう。
〈飛浩隆言語体〉は読む人の想像力を取り込み、食い、それを燃焼させ、エネルギーを得る。
それがイメージと論理を形作る源となる。
想像力の燃焼炉としての文
ゲスト(客)が、読む人が、作品を捕獲し、捕食するのではない。その逆だ。作品がゲスト(読む人)を捕獲し、
捕食するのだ。捕獲者、捕食者は作品であって、ゲスト(読む人)ではない。作品がゲスト(読む人)の想像力
を求めているのである。人の想像力に飢えた作品が、罠を仕掛けるように、まるで、食虫植物のネペンテス・ベ
ントリコーサように甘い蜜の香りを漂わせ、ゲスト(読む人)を誘い込む。〈飛浩隆言語体〉が「生きる」ため
には、人の想像力が必要なのだ。人間が生きるために、生あるものを食することが不可欠なように。
今更、隠し立てするまでもない。
読む人を捕獲し捕食する〈言語体〉、それが飛浩隆文学である。
読む人が自らの想像力と記憶を作品に投じ、その想像力と記憶を作品に食べられ、燃焼される。
そして、生まれた力が読む人の身体の中で爆発する。その戦慄と恍惚。
その光景を、隠喩として、走り書き的な素描で現してみよう。その「戦慄と恍惚」の一端を。
晩餐会に招かれ胸躍らせ席につき、フォークとナイフとスプーンを確認し、皺一つないテーブルクロスの白さに
目を細めて料理が運ばれるのをまだかまだかと待っている。しかし、時間が幾ら過ぎても料理は来ない。訝しく
思ってウエイターを呼ぼうとするが、誰一人、姿が見えない。気が付くとレストランの客は、私一人だけだ。
不穏な気配に私の鼓動が速くなる。私の頭の何処かでシグナルが点滅する。「早くここから立ち去れ」と。だが、
私はどうしても、それができない。厨房から逆らうことができない甘い香りがして来るのだ。私は厨房の中に入
る。そこでは寸胴鍋の中で「何かが」煮込まれている。甘い香りはそのスープの匂いなのだ。その時、私の背後
に人の気配がするのを感じる。振り向くと、中華包丁を手に握った料理長が立っていた。
そして、その時になって、私は全てを知る。今から、供されるのは「私自身」なのだと。生け贄になるために、
私はここに来たのだと。寸胴鍋の中で煮込まれ甘い香りを漂わせているのは、「私の血肉」なのだと。
そして、そのことを私が激しく求めていることを。
自らの想像力を供物として捧げる覚悟のある者のみ、飛浩隆文学「零號琴」を最後まで読み終えることができる。
〈零號琴〉を打ち鳴らすことができるのは、想像力しかない。
(3)カタストロフィの残光、あるいは、黒と金
始原の中に終焉が存在するという感覚。
爆発点が収斂点であるという感覚。
開かれようするその瞬間が閉じられようとする瞬間であるという感覚。
この感覚が「零號琴」においても繰り返される。
「始めに、豪奢なるカタストロフィ、ありき」なのである。
飛浩隆文学においては、物語は、「時間を遡る」。
飛浩隆文学の「零號琴」宇宙の開闢は、始めに爆発点として豪奢なるカタストロフィとして現れる。
「清新にして美しく残酷なる」カタストロフィとして。
そこから全てが始まる。「時間を遡り」、物語は発端に巻き戻り、再び、そこから終点へ向かって巻き戻される。
そのカタストロフィが収斂点として終点として、始めに存在し、そこから物語の起点を探すべく、逆算され演算
され演繹され、始点が定まる。そして、その収斂点と始点の間に出来事が発生し、順序良く配置されて行き、
必然と偶然の収束としてカタストロフィが訪れるがごとく装いが成される。
その証左として、零れ落ちるように出現する「漆黒と黄金」。
カタストロフィ(地獄)を彩る色彩としての「漆黒と黄金」。
それは物語の発端に既にその収斂点の残光として漏れ出てしまっている。収斂点で発光する二つの色、黒と金。
その二つの色は、事あるごとに、物語の途中に立ち現れ、登場人物たちをその色彩の場所へ引き摺りこもうと
する。
あらかじめ、物語は収束しているのである。
それを擬えるように物語の内部も時間を遡る。
複層して逆走する時間。
前後し錯綜するエピローグ。
(「グラン・ヴァカンス 廃園の天使 I」において、その冒頭に言及される、「真っ黒な長衣を着込んだ大鴉の
ような」老人。彼が誰であったのか、そのことを思い起してほしい)
(4)用意された惨劇、あるいは、「惨劇の美学」
「零號琴」という巨大な爆発点
その導火線に点火される小さな炎のようにその惨劇は訪れる。
それは、まるで、ディナーの前菜のように、ささやかに提示される。
トロムボノクとシェリュバンが初めて假面劇をパウルと一緒に観劇する場面で。
その細部については、ここでは、引用しない。それを知ることが出来るのは、この「零號琴」を手にして読む人
だけに与えられた特権であるから。ここから、「零號琴」が動き始める。この惨劇が「零號琴」に火をつける。
「惨劇の美学」
はたしてそうしたものが存在するのかわからない。そこには、陰惨な阿鼻叫喚たる光景が現れる、しかし、
その中に閃光のように眩く美しいショットが存在するのである。そのショットはわずか数行のセンテンスで表現
される。この菜綵(なづな)のクローズアップ・ショットは、この小説「零號琴」の前半部分において最も美し
く切ない、最も素晴らしいショットの一つである。
「自生の夢」のアリス・ウォンが受ける災厄
「グラン・ヴァカンス 廃園の天使 I」のアンヌ・カシュマイユと〈蜘蛛〉との死闘
そして、「零號琴」の〈刺客亞童〉の襲来
そこに現れる過剰さ、苛烈さに目を奪われてしまいがちだが、そこには、凛乎とした飛浩隆文学の美学が貫かれ
ている。
(5)〈18次元織物〉、あるいは、〈18次元連立方程式〉
経糸として、〈美縟のサーガ〉があり、緯糸として、〈まじょの大時計〉があり、高さと深さ方向の糸として、
セルジゥ・トロムボノクとシェリュバン対パウル・フェアフーフェンとウーの戦いがある。
あるいは、本線として、惑星〈美縟〉で開催される假面劇 番外「磐記大定礎縁起」、再建される巨大楽器〈美玉鐘〉、そして、秘曲〈零號琴〉。支線として、惑星〈美縟〉の過去、美玉人の秘密。伏線として、セルジゥ・トロ
ムボノクの出生の秘密、パウル・フェアフーフェンの真の狙い。
しかし、これだけでは、この小説「零號琴」のほんの、一断面を切り取ったにしか過ぎない。
この小説「零號琴」は、布のような2次元的織物(タピスリ)で言い表すことはおろか、立体的(3次元的)
織物として言い表そうとしても、その姿の一つの側面しか見ていないような苛立ちを覚えてしまうのである。
複数の人と物と行為を、緯度と経度と高さと時間の枠の中で位置決めし、この小説「零號琴」で立ち上がって
いる事象を認識しようとすることそのものが、基本的に無理なのである。
(「群像劇」という捉え方がいかに古い形式であることか)
圧倒的に次元数が不足している。
もはや、解り易さを放棄した上で、小説「零號琴」を〈多次元(18次元)織物〉として認識し、その撚り合わ
せられる糸を一つ一つ列挙してみることにしよう。
1次元方向の糸として、〈美縟のサーガ〉の假面劇
2次元方向の糸として、〈まじょの大時計〉の「あしたもフリギア!」の仙女旋隊
3次元方向の糸として、セルジゥ・トロムボノクとシェリュバン対パウル・フェアフーフェンとウーの戦い
4次元方向の糸として、美玉の封印された歴史、内戦の記憶、美玉人の秘密とその告白、そして、美玉人の結末
5次元方向の糸として、〈梦卑〉の存在、その〈相対能〉(あいたいのう)
6次元方向の糸として、パウル・フェアフーフェンの野望とその謀略
7次元方向の糸として、78万4千個の鐘から成る都市全体に配置された巨大楽器〈美玉鐘〉、演奏と音楽
8次元方向の糸として、秘曲〈零號琴〉、その力
9次元方向の糸として、〈泥王〉、その出所とその力
10次元方向の糸として、菜綵(なづな)と咩鷺(みさぎ)の役割と運命、菜綵(なづな)の生誕の秘密
11次元方向の糸として、ワンダ・フェアフーフェン、「ワンダ、先に行っているぞ」
12次元方向の糸として、〈峨鵬丸〉、「頭から足の先まで包帯で巻き上げられた人」、「包帯の下の素焼きの面」
13次元方向の糸として、〈ウーデルス生まれ〉
14次元方向の糸として、血まみれの孤児として発見されたセルジゥ・トロムボノク、その出自、奪われた体
15次元方向の糸として、セルジゥ・トロムボノクとその育ての親としてのギルドの三博士
16次元方向の糸として、セルジゥ・トロムボノクと第四類改変態シェリュバンの出会い
17次元方向の糸として、〈行ってしまった人たち〉
18次元方向の糸として、〈轍世界〉
〈18次元織物〉とは、どのようなものなのか?
「立体は平面の無数の積層体である。」(CTスキャンで脳の内部を複数の断面図で観察するように)
このロジックを拡張するならば、18次元織物は17次元織物の無数の積層体、17次元織物は16次元織物の
無数の積層体、・・・、以下、同様に、・・・4次元織物は3次元織物の無数の積層体、3次元織物は2次元織物
の無数の積層体。
さらに、ロジックを拡張し、2次元織物の無数の積層体を、重ね合わせ、2次元に圧縮可能なものとする。CT
スキャンした複数の画像を1枚の画像に重ね映したものを想像してみてほしい。その重ね合わされた一枚一枚の
画像は、再度、分離可能である。(例えば、それぞれの画像が固有の色を有しているとすれば。)それは再び無数
の2次元の積層に復元することが可能である。数百ページの紙の本の文字を、重ね合わせ、1ページの電子フィ
ルムに焼き付け、3次元空間の文字を2次元空間の文字として封じ込める、その様子を想像してみてほしい。
この拡張されたロジックによって、3次元織物は「1回の重ね合わせがされた圧縮された1枚の2次元織物」と
なる。次に、3次元織物の無数の積層体である4次元織物は、「1回の重ね合わせがされた圧縮された1枚の2次
元織物」の無数の積層体と再定義される。そして、その4次元織物は、再度、重ね合わされ圧縮され、「2回の重
ね合わせがされた圧縮された1枚の2次元織物」となる。以下、同様にして、次々と、重ね合わされ、圧縮され、〈18次元織物〉は「16回の重ね合わせがされた圧縮された1枚の2次元織物」となる。
何重にも折り込まれ重ね合わされ圧縮された、一枚のタピスリの姿をした18次元織物としての言語体〈零號琴〉。
テーブルの上に、言語体〈零號琴〉が、一枚の板状の織物として存在するとする。16回の重ね合わせがされた
圧縮された18次元織物。1回の重ね合わせと圧縮を解放すると、それは、弾かれるように、たちまち、無数の
板状の織物の積層体の17次元織物となり、立体的相貌を見せる。それは、毎回、異なった方角へ、16回、
畳み込みが、突出するように広がり、解かれ展開して行く。
それは、〈行ってしまった人たち〉の素材のように、
まるで、「墨で塗りつぶしたような〈美玉鐘〉の図面」のように
まるで、「藍色にすきとおっている鉱物片のようなお御籤」のように
まるで、「素焼きの仮面、小さな六角柱の集合体になる〈泥王〉」のように
その総体が、その内部に存在する事物をイメージし具現化したものと相似関係にあるという入れ子細工のような
幾何学的美しさ。
あるいは、これを多次元連立方程式と見立てることもできる。
自ら組み上がり、自ら演算して行く、次々と新たな未知数を生み出す、自己駆動型多次元連立方程式。方程式が
連動して解が導き出され、解が再び、新たな方程式を生み出す。その再帰的構造の自己増殖する連立方程式群。
まるで、解読不能な暗号のような、〈零號琴〉のような複雑さと広大無辺さと、そこに秘匿された内容の「暝い」
輝き。
確かなのは、「この方程式は解かれることを待っている」ということ。
さて、この「零號琴」を、〈18次元織物〉、〈18次元連立方程式〉と捉えてみたものの、しかし、それでもまだ、その全貌を正確に表しているとはとても言えない。
(6)ホワイト・アウト、亡霊の街、あるいは、加速度的に、瞬きする瞬間もなく
どのように捉えても、その形状は混濁し、鮮明な骨格が掴み切れないのである。
その得体の知れない訳のわからなさを引き起こしている理由は〈美縟のサーガ〉の假面劇という仕掛けに由来す
るのだが。観客は仮面を被り観客であると同時にサーガの中の登場人物としても「生きる」。もはや、劇の中なの
か外なのか、舞台の上なのか、下なのか、舞台道具なのか、本物なのか、演技なのか、本気なのか、どこから、
どこまでが劇なのか、そうでないのか。さらに、そこへ、「あしたもフリギア!」が捻じり込まれ、ポップ・エク
レア、そばかす、ジェネット・V、截鉄、千手、御神本蛍、なきべそが、アヴァンタイトルから、最終回の向こ
う側から、やって来て、サーガの神々とプリマが手に手を取って怪獣を退治する。もはや、「これは、一体、何な
のだ?」などという愚かな疑問と眩暈がしてしまうような戸惑いが雪崩のように襲い掛かって来るのだが、物語
はそんなことはお構いなしに怒涛のクライマックスへと転がり落ちる。突如、大地が切り裂け、(これは、劇の外
の大地なのか!)空に逆さに落ちる落雷の如く世界樹が立ち上がり、そこに美玉鐘から剥ぎ取られた鐘が鳥のよう
に宙を舞い世界樹に実のように垂れ下がり、〈泥王〉の百万の単位体は「オリガミの人形」となって「精霊」とし
て鐘に寄り添う。
そして、〈零號琴〉が音叉のように打ち鳴らされ、その瞬間、世界は調律され上書きされリセットされ更新され、
劇はその内と外を閉じる。
茫然としている間に、唐突に「異能の力」によって、瞬きをする瞬間もなく結末がやって来て、一切合財が回収
されてしまう。異議を申し出る間もなく異議を差し挟む余地もなく問答無用に、忽然とカタストロフィは終わる。
怒涛と突如と茫然と唐突と忽然の、加速度的な連打に、為す術は無い。
(7)「零號琴縁起解題」の構想のためのプロダクションノート的メモ書き
もはや、私には、この「零號琴」を手際よく捌き、その骨格とその血肉を描写するだけの力がないことは明白で
ある。しかし、ここに、私が最初に構想した「零號琴縁起解題」のためのプロダクションノート的メモ書きのご
く一部をメモしておく。
「零號琴」は読む人の想像力によってその内容を変容させる。まさに、〈梦卑〉のように。しかし、明確にしてお
かなければならないのは、〈零號琴〉は「SFの中での単なるガジェット」に留まるものではないということだ。
小説「零號琴」は由緒正しき正統なるSF(サイエンス・フィクション)であり、活劇であり、荒唐無稽な冒険
譚であり、そして、同時に、甘美にして悲痛なる隠喩である。
「〈零號琴〉を破壊せよ。その真の意味とは」(この言葉こそ、この騒然とした言語の台風の目だ。)
〈零號琴〉によって、肉化した仮面を剥ぎ取られ告白を迫られているのは、われわれ自身であるということは、
言うまでもない。
器官なき身体としての〈梦卑〉、〈梦卑〉の駆動原理としてのセルオートマトン、夢見る存在と夢見られた存在、
夢見た存在が夢見られた存在にすり替わる、その存在自身も気が付かず、スタニスワフ・レムの「ソラリス」、〈梦卑〉の〈相対能〉の映像としてのアンドレイ・タルコフスキー版、及び、スティーブン・ソダーバーグ版映画「ソ
ラリス」、顔なしに仮面を付け顔ありにする、顔なしと顔ありと仮面、飛浩隆文学の中の〈食〉の考察、萩尾望都
の「銀の三角」、その人物造形とセルジゥ・トロムボノクとシェリュバンとパウル・フェアフーフェン、六角柱と
言語体、インクに濡れた活版印刷の活字体と〈単位体〉、庵野秀明・エヴァンゲリオン・サーガと飛浩隆・零號琴・サーガ、使徒とエヴァンゲリオンと〈ボウ籃〉とサーガの神々の戦い、飛浩隆文学における〈楔石〉の意味、
〈楔石〉の時間に対抗する力と方法、肉体と記憶を調律する音叉、玉音放送と〈零號琴〉、音響による世界の更新
(8)零號琴・サーガ、あるいは、来るべき決戦のために
来るべき決戦。
セルジゥ・トロムボノクとパウル・フェアフーフェン
再び、彼らは相まみえる。
必然として。
どれだけ偶然に阻まれようとしても、如何に彼らの意思に背くものであったとしても、
彼らは、それから、逃れることはできない。
サーガの必然として。
「零號琴」は、正確には「零號琴 1〈美縟〉假面劇 番外「磐記大定礎縁起」編」であり、
これは、広大にして深遠なる「零號琴・サーガ」の序章にしかすぎない。
「零號琴・サーガ」は、存在する、と私は断言する。
それが未だ書物の形式になっていないとしても。
それは、私の想像力の中で、物質的構築体として、実存する。後は、〈飛浩隆言語体〉を待つだけだ。
「零號琴 2 来るべき決戦」
全貌を現す〈零號琴〉の真の姿
解き放たれる〈零號琴〉
セルジゥ・トロムボノクとパウル・フェアフーフェンの決戦の行方
全身を包帯で包まれた人、彼は〈峨鵬丸〉なのか? 包帯の下にあるのは〈泥王〉なのか?
菜綵(なづな)と瓜二つの記憶を失った女、再び、〈泥王〉に導かれて。その時、シェリュバンは。
シェリュバン・ルルー=ヴァランタンの秘められた過去と〈ウーデルス〉の音色
セルジゥ・トロムボノクの失われた体、〈ウーデルス生まれ〉とは?
そして、全ての体を取り戻した彼が全開にする凄まじき〈異能の力〉。〈三つ首〉でさえも、それを。
パウルとワンダとフース、駆け引きと騙し合い、奪う者と奪われる者、愛と憎悪の家族の物語。
〈零號琴〉、その暗号音楽の解読とその代償。クレオパトラ・ウーの受難。手に入れるものと失うもの。
そして、〈行ってしまった人たち〉、かれらは、なぜ、何処へ、行ってしまったのか?
〈轍世界〉の外とは?
愛と裏切りの血で血を洗う争奪戦、惨劇と喜劇と悲劇、そして、カタストロフィ
準備は出来ている。(最大限に拡張されたチェンバー、跳ね踊る最高の鮮度の想像力を檻に入れて)
「さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ」(ワンダの掛け声にならって)
荘厳なるカタストロフィよ、ふたたび、我の元へ。
縦19.5センチ 横14センチ 厚さ3.5センチ 重量 560グラム
20行、45列、約600ページ。
20×45×600=540000、文字総数 54万個
表面は、「漆黒と黄金」で彩色され、巨大な文字で垂直に「零號琴」(れいごうきん)と銘打たれている。
その54万個の〈言語体〉をスキャナ(読み取り器)に放り込み噛み砕き喰らい付く。
滴り落ちほとばしり出る血肉に、たちまち、スキャナ・チェンバーはオーバー・フローし、溺れかける。
慌てて急遽、チェンバーを増設しようとするが、時、すでに遅し、〈飛浩隆言語体〉の中に私は投入される。
凝りに凝った仕掛けと細工、容赦のない非情なるヴィジョン、炸裂する飛浩隆文学の美学。
その暴れ捲くる言語体の渦の中に〈没入〉(ジャック・イン)し、降り注ぐ54万個の〈飛浩隆言語単位体〉の
霰弾を雨のように全身に浴び尽くす。その想像力を一滴残らず捧げて。
(1)〈飛浩隆言語体〉、あるいは、イメージと論理の相互作用の場として
〈飛浩隆言語体〉
それは読む人の脳を入口として、その身体全体に直接的な力として物理的な作用を及ぼす。
皮膚へ、肉へ、骨へ、血へ、手へ、足へ、顔へ、胸へ、腹へ、髪の毛一本一本へ、
言葉で造られた文にはイメージと論理が形成され、読む人はそのイメージと論理を自らの身体の中に取り込む。
イメージとは像であり、それは形(構造)とエネルギーを持つ。音の像、光の像、風の像、水の像、物質の像。
論理とは流れであり、物語であり、時間を持つ。始まりの論理、終わりの論理、サーガの論理、大定礎の論理。
このイメージと論理が互いに共鳴し合い、文は物理的力動的な力を得て人を動かす。
イメージの震度に見合うだけの論理。論理の跳躍に耐えられるだけのイメージ。イメージを持った論理、論理を
持ったイメージ。文という場で、イメージと論理が切り結び、そこに「力」が生まれる。
言い方を替えるならば、イメージを肉体、論理を思考と言ってもよいかもしれない。
思考に支えられた肉体、肉体に支えられた思考。思考を駆動する肉体、肉体を駆動する思考。
このイメージと論理が相互作用を及ぼすように言葉を組み立てるのは容易なことではない。多くの場合、イメー
ジの華麗さや論理の周到さが先行し、互いにきっちりと噛み合うことなく、その歯車は空回りしてしまう。
豪華絢爛たる装飾に満ち溢れたイメージ、緻密に展開される整然とした論理の展開、それらが互いに作用するこ
となく、単独で提示されてしまうと、そこに現れるのは美術工芸品のような飾り物、あるいは、遺体解剖の結果
を記した検視報告書のようなものと成り果てる。そこに、人を動かす力が生まれることはない。
しかし、飛浩隆の文においてはイメージと論理が相互作用する。イメージが論理を追い駆け、論理がイメージを
駆り立てる。
それは稀有な存在の一つだ。
その一例として。(あくまで、一例として。一つ一つ、取り上げて行くと際限が無いのである)
トロムボノクとシェリュバンが恒星間客船の中でパウル・フェアフーフェンと出会い、亞童たちに持って来させ
た美玉鐘の図面をトロムボノクが指で展開させ、その鐘を鳴らす場面。
3ページ程のほんの短いエピソードなのだが、イメージと論理(仕掛け)が見事に結合し、読む人の視界の中で
図面がくるくると拡大され、大建築の線画が現れ、身体の中で鐘の音が「霧のように」鳴る。
それは紙の上に存在する文字の連なりを、人が読むという行為によって生じるのだが、それは映像を見るのでも
なく音響を聴くのでもなく、言葉が人の中で直接、その身体の中に光と音の像を発生させるのである。目を通し
て見るのでもなく、耳を通して聴くのでもなく、言語が物理的に人の身体に作用し光と音を生み出しているので
ある。
〈飛浩隆言語体〉は、人間の身体に作用し、その中に、物理的化学的現象を発生させる。
比喩としてではなく、現実に、実際に。
(2)捕食者としての文学、あるいは、想像力を食べる燃焼炉としての文
〈飛浩隆言語体〉
それは、エネルギーを持つ。
人が、それに触れた瞬間、それを読んだ瞬間に。(言葉は人にかかわる前は物質に印された文様でしかない)
では、何処からそのエネルギーが供給されるのか?
何処からそのエネルギーを得ているのか?
それは読む人の想像力以外にないのであろう。
〈飛浩隆言語体〉は読む人の想像力を取り込み、食い、それを燃焼させ、エネルギーを得る。
それがイメージと論理を形作る源となる。
想像力の燃焼炉としての文
ゲスト(客)が、読む人が、作品を捕獲し、捕食するのではない。その逆だ。作品がゲスト(読む人)を捕獲し、
捕食するのだ。捕獲者、捕食者は作品であって、ゲスト(読む人)ではない。作品がゲスト(読む人)の想像力
を求めているのである。人の想像力に飢えた作品が、罠を仕掛けるように、まるで、食虫植物のネペンテス・ベ
ントリコーサように甘い蜜の香りを漂わせ、ゲスト(読む人)を誘い込む。〈飛浩隆言語体〉が「生きる」ため
には、人の想像力が必要なのだ。人間が生きるために、生あるものを食することが不可欠なように。
今更、隠し立てするまでもない。
読む人を捕獲し捕食する〈言語体〉、それが飛浩隆文学である。
読む人が自らの想像力と記憶を作品に投じ、その想像力と記憶を作品に食べられ、燃焼される。
そして、生まれた力が読む人の身体の中で爆発する。その戦慄と恍惚。
その光景を、隠喩として、走り書き的な素描で現してみよう。その「戦慄と恍惚」の一端を。
晩餐会に招かれ胸躍らせ席につき、フォークとナイフとスプーンを確認し、皺一つないテーブルクロスの白さに
目を細めて料理が運ばれるのをまだかまだかと待っている。しかし、時間が幾ら過ぎても料理は来ない。訝しく
思ってウエイターを呼ぼうとするが、誰一人、姿が見えない。気が付くとレストランの客は、私一人だけだ。
不穏な気配に私の鼓動が速くなる。私の頭の何処かでシグナルが点滅する。「早くここから立ち去れ」と。だが、
私はどうしても、それができない。厨房から逆らうことができない甘い香りがして来るのだ。私は厨房の中に入
る。そこでは寸胴鍋の中で「何かが」煮込まれている。甘い香りはそのスープの匂いなのだ。その時、私の背後
に人の気配がするのを感じる。振り向くと、中華包丁を手に握った料理長が立っていた。
そして、その時になって、私は全てを知る。今から、供されるのは「私自身」なのだと。生け贄になるために、
私はここに来たのだと。寸胴鍋の中で煮込まれ甘い香りを漂わせているのは、「私の血肉」なのだと。
そして、そのことを私が激しく求めていることを。
自らの想像力を供物として捧げる覚悟のある者のみ、飛浩隆文学「零號琴」を最後まで読み終えることができる。
〈零號琴〉を打ち鳴らすことができるのは、想像力しかない。
(3)カタストロフィの残光、あるいは、黒と金
始原の中に終焉が存在するという感覚。
爆発点が収斂点であるという感覚。
開かれようするその瞬間が閉じられようとする瞬間であるという感覚。
この感覚が「零號琴」においても繰り返される。
「始めに、豪奢なるカタストロフィ、ありき」なのである。
飛浩隆文学においては、物語は、「時間を遡る」。
飛浩隆文学の「零號琴」宇宙の開闢は、始めに爆発点として豪奢なるカタストロフィとして現れる。
「清新にして美しく残酷なる」カタストロフィとして。
そこから全てが始まる。「時間を遡り」、物語は発端に巻き戻り、再び、そこから終点へ向かって巻き戻される。
そのカタストロフィが収斂点として終点として、始めに存在し、そこから物語の起点を探すべく、逆算され演算
され演繹され、始点が定まる。そして、その収斂点と始点の間に出来事が発生し、順序良く配置されて行き、
必然と偶然の収束としてカタストロフィが訪れるがごとく装いが成される。
その証左として、零れ落ちるように出現する「漆黒と黄金」。
カタストロフィ(地獄)を彩る色彩としての「漆黒と黄金」。
それは物語の発端に既にその収斂点の残光として漏れ出てしまっている。収斂点で発光する二つの色、黒と金。
その二つの色は、事あるごとに、物語の途中に立ち現れ、登場人物たちをその色彩の場所へ引き摺りこもうと
する。
あらかじめ、物語は収束しているのである。
それを擬えるように物語の内部も時間を遡る。
複層して逆走する時間。
前後し錯綜するエピローグ。
(「グラン・ヴァカンス 廃園の天使 I」において、その冒頭に言及される、「真っ黒な長衣を着込んだ大鴉の
ような」老人。彼が誰であったのか、そのことを思い起してほしい)
(4)用意された惨劇、あるいは、「惨劇の美学」
「零號琴」という巨大な爆発点
その導火線に点火される小さな炎のようにその惨劇は訪れる。
それは、まるで、ディナーの前菜のように、ささやかに提示される。
トロムボノクとシェリュバンが初めて假面劇をパウルと一緒に観劇する場面で。
その細部については、ここでは、引用しない。それを知ることが出来るのは、この「零號琴」を手にして読む人
だけに与えられた特権であるから。ここから、「零號琴」が動き始める。この惨劇が「零號琴」に火をつける。
「惨劇の美学」
はたしてそうしたものが存在するのかわからない。そこには、陰惨な阿鼻叫喚たる光景が現れる、しかし、
その中に閃光のように眩く美しいショットが存在するのである。そのショットはわずか数行のセンテンスで表現
される。この菜綵(なづな)のクローズアップ・ショットは、この小説「零號琴」の前半部分において最も美し
く切ない、最も素晴らしいショットの一つである。
「自生の夢」のアリス・ウォンが受ける災厄
「グラン・ヴァカンス 廃園の天使 I」のアンヌ・カシュマイユと〈蜘蛛〉との死闘
そして、「零號琴」の〈刺客亞童〉の襲来
そこに現れる過剰さ、苛烈さに目を奪われてしまいがちだが、そこには、凛乎とした飛浩隆文学の美学が貫かれ
ている。
(5)〈18次元織物〉、あるいは、〈18次元連立方程式〉
経糸として、〈美縟のサーガ〉があり、緯糸として、〈まじょの大時計〉があり、高さと深さ方向の糸として、
セルジゥ・トロムボノクとシェリュバン対パウル・フェアフーフェンとウーの戦いがある。
あるいは、本線として、惑星〈美縟〉で開催される假面劇 番外「磐記大定礎縁起」、再建される巨大楽器〈美玉鐘〉、そして、秘曲〈零號琴〉。支線として、惑星〈美縟〉の過去、美玉人の秘密。伏線として、セルジゥ・トロ
ムボノクの出生の秘密、パウル・フェアフーフェンの真の狙い。
しかし、これだけでは、この小説「零號琴」のほんの、一断面を切り取ったにしか過ぎない。
この小説「零號琴」は、布のような2次元的織物(タピスリ)で言い表すことはおろか、立体的(3次元的)
織物として言い表そうとしても、その姿の一つの側面しか見ていないような苛立ちを覚えてしまうのである。
複数の人と物と行為を、緯度と経度と高さと時間の枠の中で位置決めし、この小説「零號琴」で立ち上がって
いる事象を認識しようとすることそのものが、基本的に無理なのである。
(「群像劇」という捉え方がいかに古い形式であることか)
圧倒的に次元数が不足している。
もはや、解り易さを放棄した上で、小説「零號琴」を〈多次元(18次元)織物〉として認識し、その撚り合わ
せられる糸を一つ一つ列挙してみることにしよう。
1次元方向の糸として、〈美縟のサーガ〉の假面劇
2次元方向の糸として、〈まじょの大時計〉の「あしたもフリギア!」の仙女旋隊
3次元方向の糸として、セルジゥ・トロムボノクとシェリュバン対パウル・フェアフーフェンとウーの戦い
4次元方向の糸として、美玉の封印された歴史、内戦の記憶、美玉人の秘密とその告白、そして、美玉人の結末
5次元方向の糸として、〈梦卑〉の存在、その〈相対能〉(あいたいのう)
6次元方向の糸として、パウル・フェアフーフェンの野望とその謀略
7次元方向の糸として、78万4千個の鐘から成る都市全体に配置された巨大楽器〈美玉鐘〉、演奏と音楽
8次元方向の糸として、秘曲〈零號琴〉、その力
9次元方向の糸として、〈泥王〉、その出所とその力
10次元方向の糸として、菜綵(なづな)と咩鷺(みさぎ)の役割と運命、菜綵(なづな)の生誕の秘密
11次元方向の糸として、ワンダ・フェアフーフェン、「ワンダ、先に行っているぞ」
12次元方向の糸として、〈峨鵬丸〉、「頭から足の先まで包帯で巻き上げられた人」、「包帯の下の素焼きの面」
13次元方向の糸として、〈ウーデルス生まれ〉
14次元方向の糸として、血まみれの孤児として発見されたセルジゥ・トロムボノク、その出自、奪われた体
15次元方向の糸として、セルジゥ・トロムボノクとその育ての親としてのギルドの三博士
16次元方向の糸として、セルジゥ・トロムボノクと第四類改変態シェリュバンの出会い
17次元方向の糸として、〈行ってしまった人たち〉
18次元方向の糸として、〈轍世界〉
〈18次元織物〉とは、どのようなものなのか?
「立体は平面の無数の積層体である。」(CTスキャンで脳の内部を複数の断面図で観察するように)
このロジックを拡張するならば、18次元織物は17次元織物の無数の積層体、17次元織物は16次元織物の
無数の積層体、・・・、以下、同様に、・・・4次元織物は3次元織物の無数の積層体、3次元織物は2次元織物
の無数の積層体。
さらに、ロジックを拡張し、2次元織物の無数の積層体を、重ね合わせ、2次元に圧縮可能なものとする。CT
スキャンした複数の画像を1枚の画像に重ね映したものを想像してみてほしい。その重ね合わされた一枚一枚の
画像は、再度、分離可能である。(例えば、それぞれの画像が固有の色を有しているとすれば。)それは再び無数
の2次元の積層に復元することが可能である。数百ページの紙の本の文字を、重ね合わせ、1ページの電子フィ
ルムに焼き付け、3次元空間の文字を2次元空間の文字として封じ込める、その様子を想像してみてほしい。
この拡張されたロジックによって、3次元織物は「1回の重ね合わせがされた圧縮された1枚の2次元織物」と
なる。次に、3次元織物の無数の積層体である4次元織物は、「1回の重ね合わせがされた圧縮された1枚の2次
元織物」の無数の積層体と再定義される。そして、その4次元織物は、再度、重ね合わされ圧縮され、「2回の重
ね合わせがされた圧縮された1枚の2次元織物」となる。以下、同様にして、次々と、重ね合わされ、圧縮され、〈18次元織物〉は「16回の重ね合わせがされた圧縮された1枚の2次元織物」となる。
何重にも折り込まれ重ね合わされ圧縮された、一枚のタピスリの姿をした18次元織物としての言語体〈零號琴〉。
テーブルの上に、言語体〈零號琴〉が、一枚の板状の織物として存在するとする。16回の重ね合わせがされた
圧縮された18次元織物。1回の重ね合わせと圧縮を解放すると、それは、弾かれるように、たちまち、無数の
板状の織物の積層体の17次元織物となり、立体的相貌を見せる。それは、毎回、異なった方角へ、16回、
畳み込みが、突出するように広がり、解かれ展開して行く。
それは、〈行ってしまった人たち〉の素材のように、
まるで、「墨で塗りつぶしたような〈美玉鐘〉の図面」のように
まるで、「藍色にすきとおっている鉱物片のようなお御籤」のように
まるで、「素焼きの仮面、小さな六角柱の集合体になる〈泥王〉」のように
その総体が、その内部に存在する事物をイメージし具現化したものと相似関係にあるという入れ子細工のような
幾何学的美しさ。
あるいは、これを多次元連立方程式と見立てることもできる。
自ら組み上がり、自ら演算して行く、次々と新たな未知数を生み出す、自己駆動型多次元連立方程式。方程式が
連動して解が導き出され、解が再び、新たな方程式を生み出す。その再帰的構造の自己増殖する連立方程式群。
まるで、解読不能な暗号のような、〈零號琴〉のような複雑さと広大無辺さと、そこに秘匿された内容の「暝い」
輝き。
確かなのは、「この方程式は解かれることを待っている」ということ。
さて、この「零號琴」を、〈18次元織物〉、〈18次元連立方程式〉と捉えてみたものの、しかし、それでもまだ、その全貌を正確に表しているとはとても言えない。
(6)ホワイト・アウト、亡霊の街、あるいは、加速度的に、瞬きする瞬間もなく
どのように捉えても、その形状は混濁し、鮮明な骨格が掴み切れないのである。
その得体の知れない訳のわからなさを引き起こしている理由は〈美縟のサーガ〉の假面劇という仕掛けに由来す
るのだが。観客は仮面を被り観客であると同時にサーガの中の登場人物としても「生きる」。もはや、劇の中なの
か外なのか、舞台の上なのか、下なのか、舞台道具なのか、本物なのか、演技なのか、本気なのか、どこから、
どこまでが劇なのか、そうでないのか。さらに、そこへ、「あしたもフリギア!」が捻じり込まれ、ポップ・エク
レア、そばかす、ジェネット・V、截鉄、千手、御神本蛍、なきべそが、アヴァンタイトルから、最終回の向こ
う側から、やって来て、サーガの神々とプリマが手に手を取って怪獣を退治する。もはや、「これは、一体、何な
のだ?」などという愚かな疑問と眩暈がしてしまうような戸惑いが雪崩のように襲い掛かって来るのだが、物語
はそんなことはお構いなしに怒涛のクライマックスへと転がり落ちる。突如、大地が切り裂け、(これは、劇の外
の大地なのか!)空に逆さに落ちる落雷の如く世界樹が立ち上がり、そこに美玉鐘から剥ぎ取られた鐘が鳥のよう
に宙を舞い世界樹に実のように垂れ下がり、〈泥王〉の百万の単位体は「オリガミの人形」となって「精霊」とし
て鐘に寄り添う。
そして、〈零號琴〉が音叉のように打ち鳴らされ、その瞬間、世界は調律され上書きされリセットされ更新され、
劇はその内と外を閉じる。
茫然としている間に、唐突に「異能の力」によって、瞬きをする瞬間もなく結末がやって来て、一切合財が回収
されてしまう。異議を申し出る間もなく異議を差し挟む余地もなく問答無用に、忽然とカタストロフィは終わる。
怒涛と突如と茫然と唐突と忽然の、加速度的な連打に、為す術は無い。
(7)「零號琴縁起解題」の構想のためのプロダクションノート的メモ書き
もはや、私には、この「零號琴」を手際よく捌き、その骨格とその血肉を描写するだけの力がないことは明白で
ある。しかし、ここに、私が最初に構想した「零號琴縁起解題」のためのプロダクションノート的メモ書きのご
く一部をメモしておく。
「零號琴」は読む人の想像力によってその内容を変容させる。まさに、〈梦卑〉のように。しかし、明確にしてお
かなければならないのは、〈零號琴〉は「SFの中での単なるガジェット」に留まるものではないということだ。
小説「零號琴」は由緒正しき正統なるSF(サイエンス・フィクション)であり、活劇であり、荒唐無稽な冒険
譚であり、そして、同時に、甘美にして悲痛なる隠喩である。
「〈零號琴〉を破壊せよ。その真の意味とは」(この言葉こそ、この騒然とした言語の台風の目だ。)
〈零號琴〉によって、肉化した仮面を剥ぎ取られ告白を迫られているのは、われわれ自身であるということは、
言うまでもない。
器官なき身体としての〈梦卑〉、〈梦卑〉の駆動原理としてのセルオートマトン、夢見る存在と夢見られた存在、
夢見た存在が夢見られた存在にすり替わる、その存在自身も気が付かず、スタニスワフ・レムの「ソラリス」、〈梦卑〉の〈相対能〉の映像としてのアンドレイ・タルコフスキー版、及び、スティーブン・ソダーバーグ版映画「ソ
ラリス」、顔なしに仮面を付け顔ありにする、顔なしと顔ありと仮面、飛浩隆文学の中の〈食〉の考察、萩尾望都
の「銀の三角」、その人物造形とセルジゥ・トロムボノクとシェリュバンとパウル・フェアフーフェン、六角柱と
言語体、インクに濡れた活版印刷の活字体と〈単位体〉、庵野秀明・エヴァンゲリオン・サーガと飛浩隆・零號琴・サーガ、使徒とエヴァンゲリオンと〈ボウ籃〉とサーガの神々の戦い、飛浩隆文学における〈楔石〉の意味、
〈楔石〉の時間に対抗する力と方法、肉体と記憶を調律する音叉、玉音放送と〈零號琴〉、音響による世界の更新
(8)零號琴・サーガ、あるいは、来るべき決戦のために
来るべき決戦。
セルジゥ・トロムボノクとパウル・フェアフーフェン
再び、彼らは相まみえる。
必然として。
どれだけ偶然に阻まれようとしても、如何に彼らの意思に背くものであったとしても、
彼らは、それから、逃れることはできない。
サーガの必然として。
「零號琴」は、正確には「零號琴 1〈美縟〉假面劇 番外「磐記大定礎縁起」編」であり、
これは、広大にして深遠なる「零號琴・サーガ」の序章にしかすぎない。
「零號琴・サーガ」は、存在する、と私は断言する。
それが未だ書物の形式になっていないとしても。
それは、私の想像力の中で、物質的構築体として、実存する。後は、〈飛浩隆言語体〉を待つだけだ。
「零號琴 2 来るべき決戦」
全貌を現す〈零號琴〉の真の姿
解き放たれる〈零號琴〉
セルジゥ・トロムボノクとパウル・フェアフーフェンの決戦の行方
全身を包帯で包まれた人、彼は〈峨鵬丸〉なのか? 包帯の下にあるのは〈泥王〉なのか?
菜綵(なづな)と瓜二つの記憶を失った女、再び、〈泥王〉に導かれて。その時、シェリュバンは。
シェリュバン・ルルー=ヴァランタンの秘められた過去と〈ウーデルス〉の音色
セルジゥ・トロムボノクの失われた体、〈ウーデルス生まれ〉とは?
そして、全ての体を取り戻した彼が全開にする凄まじき〈異能の力〉。〈三つ首〉でさえも、それを。
パウルとワンダとフース、駆け引きと騙し合い、奪う者と奪われる者、愛と憎悪の家族の物語。
〈零號琴〉、その暗号音楽の解読とその代償。クレオパトラ・ウーの受難。手に入れるものと失うもの。
そして、〈行ってしまった人たち〉、かれらは、なぜ、何処へ、行ってしまったのか?
〈轍世界〉の外とは?
愛と裏切りの血で血を洗う争奪戦、惨劇と喜劇と悲劇、そして、カタストロフィ
準備は出来ている。(最大限に拡張されたチェンバー、跳ね踊る最高の鮮度の想像力を檻に入れて)
「さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ」(ワンダの掛け声にならって)
荘厳なるカタストロフィよ、ふたたび、我の元へ。
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