当時世界一の戦闘機だった零戦を設計した堀越二郎曰く
「当時の世界の技術の潮流に乗ることだけに終始せず、世界の中の日本の国情をよく考えて、独特の考え方、哲学のもとに設計された日本人の血の通った飛行機」
これこそが零戦が零戦になれた理由であり、日本の商品、サービスが世界で戦えなくなった理由ではないのか!
つまり、日本人から哲学が消えたのだ。
堀越二郎は、こうも言っている。
「世界に先に開発した知識があればそれを借り、他の面を新しく開拓して、そこから得た知識を貸してやるほうが、人類全体のためにも賢いやり方であろう。よい最終製品を開発する努力をし、それに必要な知識を求める過程で、新しいアイデアや、一歩奧へ踏みこんだ新しい何かを発見することが多いのである。零戦についても、このようなことが言えると思う」
つまり、あるものは徹底して活用して、最終的によりよいものを世の中に提示することが、真のイノベーションなのである。
今の日本人はこのような貪欲さを見失っているのではないだろうか。
真摯に、本気で取り組む姿勢が完全にかけている。
なぜなのか?
答えは、戦後の教育にある。
今の日本の教育は、みんな一緒で、競争しないで、楽しく生きましょうという教育だ!
キーワードは、「頑張らない」
誰よりも努力する人や頑張る人を蔑むような国にイノベーションなど起こせるはずがない。
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零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫) 文庫 – 2012/12/25
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世界の航空史に残る名機・零戦の主任設計者が、当時の記録を元にアイデアから完成までの過程を克明に綴った技術開発成功の記録。それは先見力と創意、そして不断の努力の結晶だった。今に続く貴重な技術史。
- 本の長さ244ページ
- 言語日本語
- 出版社角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日2012/12/25
- 寸法10.7 x 1 x 14.9 cm
- ISBN-104041006236
- ISBN-13978-4041006238
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
世界の航空史に残る名機・零戦の主任設計者が、当時の記録を元にアイデアから完成までの過程を克明に綴った貴重な技術開発成功の記録。それは先見力と創意、そして不断の努力が見事に結晶したものであった。「われわれ技術に生きる者は、根拠のない憶測や軽い気持ちの批判に一喜一憂すべきではない。長期的な進歩の波こそ見誤ってはならぬ」日本の卓越した技術の伝統と技術者魂を見直すことが問われる今こそ、必読の一冊。
著者について
1903年、群馬県生まれ。東大卒業後、三菱重工業に入社。零式艦上戦闘機を含め、雷電、烈風と、後世に語り継がれる名機の設計を手がけた。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
堀越/二郎
1903年、群馬県生まれ。東京帝国大学航空学科卒業後、三菱内燃機(現三菱重工業)に入社。戦時中は九六式艦上戦闘機、零式艦上戦闘機を含め、雷電、烈風と、世界の航空史に残る名機の設計を手掛けた。戦後は三菱重工業参事、新三菱重工業参与を経た後退職。東京大学、防衛大学校、日本大学などで教鞭をとった。1982年死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1903年、群馬県生まれ。東京帝国大学航空学科卒業後、三菱内燃機(現三菱重工業)に入社。戦時中は九六式艦上戦闘機、零式艦上戦闘機を含め、雷電、烈風と、世界の航空史に残る名機の設計を手掛けた。戦後は三菱重工業参事、新三菱重工業参与を経た後退職。東京大学、防衛大学校、日本大学などで教鞭をとった。1982年死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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2021年1月18日に日本でレビュー済み
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著者、堀越二郎技師は、明治36(1903)年、群馬県藤岡市郊外生まれ。幼少時より航空機に惹かれ、特に第一次大戦での空戦記事などを読み漁ったという。大正13(1924)年、東京帝国大学航空学科入学。入学後直ぐに霞ヶ浦航空隊で英国製のアブロ練習機で初めて同乗飛行体験を持つ。卒業後、昭和2(1927)年に三菱内燃機株式会社(後の三菱重工業)機体設計係に入社。
昭和12(1937)年10月6日、名古屋市港区の海岸あった三菱重工業名古屋航空機製作所の機体設計室で勤務していた著者の元に、海軍航空本部より「十二試艦上戦闘機計画要求書」が届けられた。その当時の世界水準を遥かに凌ぐ過酷過ぎる要求に当初は実現不可能という印象を持った。
著者は昭和8(1933)年3月に七試艦戦、昭和10(1935)年1月に九試単戦(96式1号艦上戦闘機)を設計した実績があり、同機は当時支那事変に参戦し始めた頃で、同機の改修と並行して設計が始められた。最も重要な発動機は三菱「瑞星13型(875hp)」が選定され、設計陣として服部譲次(課長)、堀越二郎(主任設計技師)、曾根嘉年(計算・構造班長)、井上伝一郎(動力艤装班長)、畠中福泉(兵装艤装班長)、加藤定彦(降着装置班長)が集められた。設計方針は新式定回転プロペラを採用し、重量軽減、空力設計に重点が置かれた。
特に軽量化は徹底され、部材の必要以上の安全率を低下し、住友超超ジュラルミンを採用、「機材全重量の10万分の1まで徹底管理」を鉄則にした。空力設計には艦載機という規定ギリギリ12mの翼長で離着陸と20mm機銃発射時の安定性を獲得し、特に翼端の「捩り下げ」を採用して空戦性能を向上させた。
昭和13(1938)年4月13日、海軍に対して三菱より計画説明書が提出され、27日には実寸模型が関係者に披露され、試作工事が開始された。昭和14(1939)年1月に試作機2機が製作され、航空廠の松平精技師らによる振動試験他を経て、3月17日に完成検査が実施。4月1日に航空廠飛行実験部の志摩勝三操縦士により初飛行が行われた。その後検査を続けながら、発動機を中島「栄12型(950hp)」に換装し、振動対策や、操縦応答性の画期的改善(剛性低下方式)の後、9月4日、海軍に領収された。
昭和15(1940)年3月11日、航空廠の奥山益美工手が試験飛行中の試作2号機が空中分解し殉職事故が発生。原因は昇降舵のマスバランスが切損脱落状態のまま急降下飛行中に発生したフラッターが全機体に及んで発生した、激烈な振動に因るものと確定され、直ちに対策が取られた。
7月末に「零式艦上戦闘機11型(A6M2a)」として制式採用され、中国戦線に送られ、9月13日、重慶上空で進藤三郎大尉指揮下の13機は中国軍のI-15、I-16戦闘機27機を撃墜、味方喪失無しという華々しい初陣を飾った。三菱では1日1機のペースで量産され、同年末までに120機が納入された。さらに改良も進み、翼端折畳み機構を加えた21型(A6M2b)、発動機を二段過給器付の「栄21型(980hp)」に換装し翼端を切り詰めた32型(A6M3)等が開発された。
ところが昭和16(1941)年4月17日、横須賀航空隊の下川万兵衛大尉が殉職。前日の空母「加賀」分隊長二階堂易中尉機の飛行訓練中の異常を再現実験中に空中分解を起こしたものだった。原因は航空廠が追加装備した補助翼のバランスタブに起因するフラッターと解明され、主翼外板及び縦通材を強化し、バランスタブの反対側にマスバランスを追加するなどして、二度と同じ事故が起きない対策が取られた。そして激務に体調を崩していた著者は、9月より休養に入った。
日米開戦後、昭和17(1942)年4月より17試艦戦「烈風」の試作開始。並行して零戦の改修も続けられ、8月には22型(A6M3)が完成するが、新戦闘機を大量に投入する米軍に対し、徐々に熟練搭乗員を減らし、機材の補充が消耗に追い付かない中、次第に零戦は劣勢に立たされていく。著者は本文でこう述べる。
『アメリカは、開戦とともに、率直に零戦の優位を認め、零戦から制空権を奪う新しい戦闘機と、日本国内の生産活動にとどめを刺す戦略爆撃機の完成に技術開発力を集中し、それ以外の中間的な機種を新しく開発するのを中止した形跡が歴然としていた。事実、戦闘機はさきにも述べてきたようにつぎつぎと新手がくり出され、戦略爆撃機もB-17からB-29にいたる飛躍的な開発が行われたのに対し、それ以外の単発の艦爆や艦攻、双発や四発の陸爆などは、緒戦に現れたものがそのまま使われていたのであった。
技術マンパワーの劣る日本では、新規開発にしても、現在使っている機体の改良にしても、アメリカの二倍の時間がかかると見なければならなかった。だから、日本こそ開戦と同時に、挙国一致の重点政策に切り換えるべきだったのに、開戦から二年たっても、航空機開発にはいぜん、総花主義が行われていたのである。対米開戦にはやった軍部や政治家に、総力戦認識がもっとも不足していたように見えるのは、いったいどういうことなのだろう。』
後継機が遂に開発されなかった零戦は、大戦末期、52型になって、重武装、重防御化が為されたが、それは其の儘運動性の低下に繋がり、非力な発動機に分不相応な火力や防弾を背負わされて戦い、大馬力・強武装で何より大量に投入される米新鋭機群に劣勢が続く。その上南方よりの原料物資や燃料が途絶えがちになり、更に昭和19(1944)年12月7日の東海地震や、B-29の本土空襲によって生産工場は大打撃を受けた。そしてその頃筆者は、新聞紙上に神風特別攻撃隊を讃える短文の投稿を依頼され、「神風特攻隊景仰頌詞」と題して執筆したものの、前途ある若者が二度と帰らない出撃を行い、またそれに零戦が使われた事を知り、涙が止まらなかったという。
昭和20(1945)年に入ると、生産工場は分散疎開を開始したが作業は停滞し、前年11月まで月産100機以上だったものが20年7月には15機がやっととなっていた。それでも零戦は作り続けられた。筆者は終戦の日を松本で迎える。戦後、零戦の評価は相手国となった連合軍側で極めて高く評価され、また太平洋戦争の栄光と悲劇を象徴する名戦闘機として、今なお日本人の心に深く記憶されている。
昭和12(1937)年10月6日、名古屋市港区の海岸あった三菱重工業名古屋航空機製作所の機体設計室で勤務していた著者の元に、海軍航空本部より「十二試艦上戦闘機計画要求書」が届けられた。その当時の世界水準を遥かに凌ぐ過酷過ぎる要求に当初は実現不可能という印象を持った。
著者は昭和8(1933)年3月に七試艦戦、昭和10(1935)年1月に九試単戦(96式1号艦上戦闘機)を設計した実績があり、同機は当時支那事変に参戦し始めた頃で、同機の改修と並行して設計が始められた。最も重要な発動機は三菱「瑞星13型(875hp)」が選定され、設計陣として服部譲次(課長)、堀越二郎(主任設計技師)、曾根嘉年(計算・構造班長)、井上伝一郎(動力艤装班長)、畠中福泉(兵装艤装班長)、加藤定彦(降着装置班長)が集められた。設計方針は新式定回転プロペラを採用し、重量軽減、空力設計に重点が置かれた。
特に軽量化は徹底され、部材の必要以上の安全率を低下し、住友超超ジュラルミンを採用、「機材全重量の10万分の1まで徹底管理」を鉄則にした。空力設計には艦載機という規定ギリギリ12mの翼長で離着陸と20mm機銃発射時の安定性を獲得し、特に翼端の「捩り下げ」を採用して空戦性能を向上させた。
昭和13(1938)年4月13日、海軍に対して三菱より計画説明書が提出され、27日には実寸模型が関係者に披露され、試作工事が開始された。昭和14(1939)年1月に試作機2機が製作され、航空廠の松平精技師らによる振動試験他を経て、3月17日に完成検査が実施。4月1日に航空廠飛行実験部の志摩勝三操縦士により初飛行が行われた。その後検査を続けながら、発動機を中島「栄12型(950hp)」に換装し、振動対策や、操縦応答性の画期的改善(剛性低下方式)の後、9月4日、海軍に領収された。
昭和15(1940)年3月11日、航空廠の奥山益美工手が試験飛行中の試作2号機が空中分解し殉職事故が発生。原因は昇降舵のマスバランスが切損脱落状態のまま急降下飛行中に発生したフラッターが全機体に及んで発生した、激烈な振動に因るものと確定され、直ちに対策が取られた。
7月末に「零式艦上戦闘機11型(A6M2a)」として制式採用され、中国戦線に送られ、9月13日、重慶上空で進藤三郎大尉指揮下の13機は中国軍のI-15、I-16戦闘機27機を撃墜、味方喪失無しという華々しい初陣を飾った。三菱では1日1機のペースで量産され、同年末までに120機が納入された。さらに改良も進み、翼端折畳み機構を加えた21型(A6M2b)、発動機を二段過給器付の「栄21型(980hp)」に換装し翼端を切り詰めた32型(A6M3)等が開発された。
ところが昭和16(1941)年4月17日、横須賀航空隊の下川万兵衛大尉が殉職。前日の空母「加賀」分隊長二階堂易中尉機の飛行訓練中の異常を再現実験中に空中分解を起こしたものだった。原因は航空廠が追加装備した補助翼のバランスタブに起因するフラッターと解明され、主翼外板及び縦通材を強化し、バランスタブの反対側にマスバランスを追加するなどして、二度と同じ事故が起きない対策が取られた。そして激務に体調を崩していた著者は、9月より休養に入った。
日米開戦後、昭和17(1942)年4月より17試艦戦「烈風」の試作開始。並行して零戦の改修も続けられ、8月には22型(A6M3)が完成するが、新戦闘機を大量に投入する米軍に対し、徐々に熟練搭乗員を減らし、機材の補充が消耗に追い付かない中、次第に零戦は劣勢に立たされていく。著者は本文でこう述べる。
『アメリカは、開戦とともに、率直に零戦の優位を認め、零戦から制空権を奪う新しい戦闘機と、日本国内の生産活動にとどめを刺す戦略爆撃機の完成に技術開発力を集中し、それ以外の中間的な機種を新しく開発するのを中止した形跡が歴然としていた。事実、戦闘機はさきにも述べてきたようにつぎつぎと新手がくり出され、戦略爆撃機もB-17からB-29にいたる飛躍的な開発が行われたのに対し、それ以外の単発の艦爆や艦攻、双発や四発の陸爆などは、緒戦に現れたものがそのまま使われていたのであった。
技術マンパワーの劣る日本では、新規開発にしても、現在使っている機体の改良にしても、アメリカの二倍の時間がかかると見なければならなかった。だから、日本こそ開戦と同時に、挙国一致の重点政策に切り換えるべきだったのに、開戦から二年たっても、航空機開発にはいぜん、総花主義が行われていたのである。対米開戦にはやった軍部や政治家に、総力戦認識がもっとも不足していたように見えるのは、いったいどういうことなのだろう。』
後継機が遂に開発されなかった零戦は、大戦末期、52型になって、重武装、重防御化が為されたが、それは其の儘運動性の低下に繋がり、非力な発動機に分不相応な火力や防弾を背負わされて戦い、大馬力・強武装で何より大量に投入される米新鋭機群に劣勢が続く。その上南方よりの原料物資や燃料が途絶えがちになり、更に昭和19(1944)年12月7日の東海地震や、B-29の本土空襲によって生産工場は大打撃を受けた。そしてその頃筆者は、新聞紙上に神風特別攻撃隊を讃える短文の投稿を依頼され、「神風特攻隊景仰頌詞」と題して執筆したものの、前途ある若者が二度と帰らない出撃を行い、またそれに零戦が使われた事を知り、涙が止まらなかったという。
昭和20(1945)年に入ると、生産工場は分散疎開を開始したが作業は停滞し、前年11月まで月産100機以上だったものが20年7月には15機がやっととなっていた。それでも零戦は作り続けられた。筆者は終戦の日を松本で迎える。戦後、零戦の評価は相手国となった連合軍側で極めて高く評価され、また太平洋戦争の栄光と悲劇を象徴する名戦闘機として、今なお日本人の心に深く記憶されている。
2018年2月7日に日本でレビュー済み
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ゼロ戦については過大評価されている部分と、反発する評価が分かれるところですが、当時を開発現場を指揮した人の本です。
これまでは時代背景から書かれたもの、機体性能からの本、開発力から日米の差を論じた本などがありましたが、全てを含んだ本はありません。
手持ちの技術で世界最高のものを作るという姿勢には心打たれるものがあります。限られた資源のなかで、よくこれだけのことをしたものだと思います。
静かに輸送するために牛車を使うこと、操縦かんの利きを適当にするため剛性の落としたワイヤを使うなど面白い内容でした。
今の社会にこれほどの情熱をもって開発できる人がいてほしいとつくづくおもいました。
これまでは時代背景から書かれたもの、機体性能からの本、開発力から日米の差を論じた本などがありましたが、全てを含んだ本はありません。
手持ちの技術で世界最高のものを作るという姿勢には心打たれるものがあります。限られた資源のなかで、よくこれだけのことをしたものだと思います。
静かに輸送するために牛車を使うこと、操縦かんの利きを適当にするため剛性の落としたワイヤを使うなど面白い内容でした。
今の社会にこれほどの情熱をもって開発できる人がいてほしいとつくづくおもいました。
2020年5月3日に日本でレビュー済み
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零戦関連の本は子供の頃から数多く読んで来たが、何故か堀越二郎さんの手になる本書は、存在は知っていたが読む機会がなかった。今回思い立って一気に読み通した。面白かった。
技術的な深掘りや戦史的な中身は他書に譲るが、設計者としての取り組みや、海軍とのやり取りなど当事者の目から見た開発のハイライトを戦後25年経っての振り返りで、この時間経過がある種の冷静さを本書に与えた様で、淡々と読み進めた。(見方によっては食い足らない様にも感じるかも知れないが、個々の深掘りは他書によるべきだと思う)
設計主務者といえど、零戦の挙げた戦果や評価等を戦後になって初めて知ったことが多々あった事や、有名な操縦系統の剛性低下方式に対する堀越さんの思い入れの深さに触れ、興味深かった。
過去に新製品開発に関わった経験から、新機種開発と言う仕事の類似性を感じる事が多く、共感する部分も多かった。
厳しい時代ではあったろうとも思うが、一つのことに迷いなく邁進出来た事は羨ましくも思う。
技術的な深掘りや戦史的な中身は他書に譲るが、設計者としての取り組みや、海軍とのやり取りなど当事者の目から見た開発のハイライトを戦後25年経っての振り返りで、この時間経過がある種の冷静さを本書に与えた様で、淡々と読み進めた。(見方によっては食い足らない様にも感じるかも知れないが、個々の深掘りは他書によるべきだと思う)
設計主務者といえど、零戦の挙げた戦果や評価等を戦後になって初めて知ったことが多々あった事や、有名な操縦系統の剛性低下方式に対する堀越さんの思い入れの深さに触れ、興味深かった。
過去に新製品開発に関わった経験から、新機種開発と言う仕事の類似性を感じる事が多く、共感する部分も多かった。
厳しい時代ではあったろうとも思うが、一つのことに迷いなく邁進出来た事は羨ましくも思う。
2016年9月4日に日本でレビュー済み
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いい飛行機を作りたいと思い懸命に生きた男の日常が淡々と書かれています。
いい仕事がしたいと思って懸命に生きている人は今の世にも多くいると思いますが、何ら変わりないように思います。
ただ時代によって、産物が変わるということ。
同じ飛行機でも、戦闘機なのか、旅客機なのか、はたまた宇宙船なのか、時代によって変わるということだと思います。
大事なことは、自分の志に従って全力を尽くすことだと、気づかせてくれました。
時代は変わる、その中でも、軸を持って生きられるか。
今の時代にも、同じことが言えるのではないでしょうか。
いい仕事がしたいと思って懸命に生きている人は今の世にも多くいると思いますが、何ら変わりないように思います。
ただ時代によって、産物が変わるということ。
同じ飛行機でも、戦闘機なのか、旅客機なのか、はたまた宇宙船なのか、時代によって変わるということだと思います。
大事なことは、自分の志に従って全力を尽くすことだと、気づかせてくれました。
時代は変わる、その中でも、軸を持って生きられるか。
今の時代にも、同じことが言えるのではないでしょうか。
2013年10月22日に日本でレビュー済み
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堀越二郎という名は、映画「風立ちぬ」のプロモーションビデオから頭にすり込まれてきました。戦争物の映画も見ることがあり、零戦とその哀愁を感じるエンジン音にどこか惹かれるものがありました。
本書では、如何にして零戦が産まれたか、そしてどのような思想で開発されていったかが克明に書かれており、あたかもその時代に居たような錯覚を覚えつつ読み進めていきました。
どの時代にも優れた技術者が居り、それが偉大な零戦を生み出したというプロセスを知ることができる本書は、後世に残すべき良書なのだと感じます。
本書では、如何にして零戦が産まれたか、そしてどのような思想で開発されていったかが克明に書かれており、あたかもその時代に居たような錯覚を覚えつつ読み進めていきました。
どの時代にも優れた技術者が居り、それが偉大な零戦を生み出したというプロセスを知ることができる本書は、後世に残すべき良書なのだと感じます。