獅子文六と佐多稲子に関しての文章は、往年の著者らしく人物論・作品論に徹しており、誠に読ませます。(目次からして、あっさりとしており解り易い。)ところが、題名ともなっている出だしの泉鏡花・水上瀧太郎・久保田万太郎の章から、読み辛い、わけのわからない構成で、時として著者が顔を出し、発言者が誰だか混乱する個所だらけなのです。加えてどうしてこんなものを、と思わされるような引用文が挿入されており、なおさら読む者を混乱させます。
それは武田泰淳・檀一雄・グレアムグリーン・小島信夫を取り上げた他の章でも同様で、鋭い指摘をしてはいるのですが、著者が良い気分で顔を出す様な文章、自分に酔っているのか、頭の良い所を見せたいのか、妙に詩的な文章が開陳されており嫌味です。(目次の題名も妙に気取っており、わけがわかりません。)
最後の樋口修吉なる人物を取り上げた章などは、最後に「文中の会話はすべて福田の創作もしくは捏造であり、あらゆる文責は福田にあります」と断っていますが、途中で読むのが嫌になってしまいました。せっかくの文芸批評の才能を、妙な方向に走って浪費しているのではないかと惜しまれます。
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