本書は鏡についての考古学をていねいに記述したものであり邪馬台国論争に焦点をあてたものではない。しかし、私は本書から邪馬台国論争に関連すると思われる点を二つの観点から取り出してみた。
第一の点は本書で何度も強調されているが弥生時代終末期と古墳時代前期で鏡について不連続といえる差があることである(73頁 頁番号は書籍版による)。なお、両期の境を西暦250年頃としている(19頁)。
弥生時代後期・終末期
1.後漢鏡が主体である。
2.破砕鏡や破鏡としての使用方法が主である。
3.分布の中心は北九州である。
古墳時代
1. 魏晋鏡や三角縁神獣鏡が主体である。
2. 完形鏡としての使用が主である。
3. 近畿地方が分布の中心である。
そして弥生時代終末期の鏡の瀬戸内以東の流通について著者の辻田氏は「水先案内モデル」を可能性の一つとして提唱している。これは、「瀬戸内以東の各地から派遣された人々が、北部九州の海人集団などを水先案内人として楽浪郡・帯方郡などに赴き鏡を入手した後、地元に鏡を持ち帰る」ものとしている(98頁)。また、古墳時代前期については従来説明されていたような畿内からの鏡の配布でなく、「列島各地から奈良盆地周辺の大型古墳群造営に参加し、その見返りとして鏡をはじめとしたさまざまな文物をもらい受け、各地に持ち帰るというあり方」を辻田氏は想定している(217頁)。そして「弥生時代後期~古墳時代前期においては、船舶による海上交通での移動がより重視されていた」と考察している(219頁)。すなわち海洋民の役割を高く評価している。
第二の点は中国(魏)との関係である。本書では前記の不連続が生じた時期を3世紀第2四半期とほぼ限定し(134頁、188頁)その契機を卑弥呼が「親魏倭王」とされ、「銅鏡百枚」を授けられた西暦239年からの魏との通商であるとしている(134頁、188頁)。著者の辻田氏は邪馬台国論争で問題となる「三角縁神獣鏡」については、「「舶載」三角縁神獣鏡の製作が長期にわたり、主に楽浪郡・帯方郡域で製作された可能性および「仿製」三角縁神獣鏡が列島で製作された可能性を考えているが、全中国鏡説や全日本列島製説も含め、可能性を限定するには至っていない。」としている(187頁)。
本書では邪馬台国の位置については記述されていないが第二の点からすると邪馬台国畿内説に近いようである。すなわち魏との通商により畿内が大きく発展し古墳時代に移行していったと見ているようである。しかし弥生時代の基盤がなかったとされる奈良盆地に突然巨大古墳が出現した理由としては不十分と思われる。「魏志倭人伝」に書かれている卑弥呼が魏に支援を仰いだ狗奴国との争い、卑弥呼の死亡後に千人以上を殺したとする争乱、その後に13才の少女を女王にせざるを得なかったことなどを考察しても邪馬台国が順調に発展していたとは思えない。
第一の点、すなわち不連続が生じている点は、従来は安本美典氏などが主張する北九州にあった邪馬台国の勢力が畿内に移動したとする邪馬台国東遷論の根拠となっていた。しかし卑弥呼没後の東遷では時期的に遅すぎるので九州勢の移動を2世紀とする考えが邪馬台国九州説で有力になっていると思う。2世紀の後半は天候不順が続き倭国大乱の要因となったといわれている。私は2世紀後半に九州の海洋民が主導して九州勢の一部が畿内に移動したと考える。吉備地方や出雲地方の人々もこの流れに合流した可能性がある。結局3世紀中葉には北九州の老大国化した邪馬台国と新興勢力としての畿内のヤマト王権が並立していたと思われる。
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