〇3つの論文から成る。それぞれの要旨は次のようなこと。
〇第一論文。人間は幸福になるために社会を形成した。社会のなかでは、個人に約束(契約)を守る責任が生じるが、それを守ろうとすると自己を抑制することも必要になる。つまり、ここで個人と社会の利害対立が生じる。
〇第二論文。約束を守れる人は、債権者のように社会のなかの強者となり、守れない人は、債務者として社会的弱者となる。こうして不平等が発生する。約束を守らせるために過酷な罰が生まれ、その罰に苦しむ弱者はかかる待遇に不当を唱えて、支配者に対して反抗する。革命であり価値の転換である。
〇第三論文。弱き者は、かかる革命の合理化・自己正当化のために、自己否定の思想を信じこれに依拠するようになる。すなわち、人は原罪を負う存在であり、かわって罰を受けてくれたキリストに対して永遠の負い目を負っている疚しい存在である。そのような人は、その償いとして、禁欲を理想として、自らを抑制して生きる。これがキリスト教の生んだ西欧社会である。
〇これを通じて、ニーチェは何を言おうとしているのだろうか。確立された常識や宗教を疑わないことを、知的堕落として、これを疑えと説いているのだろうか(それなら無難な話ではある)。それともさらに進んで、現在の常識を文字通り破壊することを提唱しているのだろうか(こうなると荒唐無稽に近い)。
〇もともとは高貴な人間(強く、自由で、危険を冒し、猛々しい人たち)が支配者で(つまりは正当で)、弱く、臆病で、危険を望まない人間が奴隷であった(彼らが奴隷であることは正当であった)。しかし、ある時に価値観の転換が起こり、他人を支配することは悪であり、平和を愛して耐え忍ぶことが善であるとされた。ある時とは、ユダヤ教の成立、キリスト教による拡大、フランス革命などである。このようにニーチェは言うのであるが、高貴な人間をひとりひとり点検した時に、すべてが強く高貴であるか。また弱い奴隷をひとりひとり点検した時に、強く高貴な人間はまったくいないのか。いずれもあり得ないように思われる。このように考えると、ニーチェの言うことは仮説としては面白く刺激的であり、目から鱗が落ちる思いはするものの、アンチテーゼを示して見せるという以上の役割はないように思われる。ナチスと民主主義を経験した今日ではなおさらそうである。仮にニーチェの説を文言のとおりに信奉する人がいたとして、それはどんなひとだろうか。強く、猛々しく、危険を恐れない人なのだろうか。そんな人もいるだろうが、似非も多いような気がする。
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