ALS(筋萎縮性側索硬化症)の母親を12年間、しかも最後の数年はTLS(一切の意思疎通ができない)の状態で在宅介護した著者が、その体験と、そこから得た「個人的な死生観(p.263)」を記す。
ALSの母親の姿や、介護の様子が、具体的かつ客観的に描かれ、書きぶりは冷静だが、内容は壮絶。
呼吸器の装着についての「本人の曖昧さにいらついて、『もし本気で呼吸器をつけたくないのなら、ここに一筆書いてよ』と母を責めたこともあった(p.44)」著者が、やがて「『病人を急がせて白黒はっきりさせる』ようなことはしないでおくことにした(p.45)」り、「二〇〇〇年から二年のあいだ……ALSの安楽死法制化に興味をもち、自分のホームページにもそう書いた(p.195)」著者が、2009年に書かれたあとがきでは、尊厳死法制化について「長患いの人の生を切り棄てる方向に猛スピードで走り出しているようで気が滅入り(p.264)」と批判的になったりといった、自らの考え方の推移・変化も包み欠かさず書かれていて、迷いながらすすんでいる人なのだなと思う。とても考えさせられる。
逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく) (日本語) 単行本 – 2009/12/1
川口 有美子
(著)
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本の長さ276ページ
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言語日本語
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出版社医学書院
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発売日2009/12/1
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ISBN-104260010034
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ISBN-13978-4260010030
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商品の説明
出版社からのコメント
第41回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作
登録情報
- 出版社 : 医学書院 (2009/12/1)
- 発売日 : 2009/12/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 276ページ
- ISBN-10 : 4260010034
- ISBN-13 : 978-4260010030
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Amazon 売れ筋ランキング:
- 90,033位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 11位終末期医療
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- カスタマーレビュー:
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2015年8月31日に日本でレビュー済み
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書いて下さって本当にありがとうございます。私の父も闘病中です。言葉に言い表せない日々です。
2012年10月15日に日本でレビュー済み
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ALS(=筋萎縮性側索硬化症)は、進行性に悪化していきます。昨日できたことが、今日できなくなる。今日できたことが、明日できなくなる。将来に対して、いつも今が最善という、健康な人には到底わかりえない状況です。原因もわかっていなければ、治療法もまだない、そんな残酷な病気です。けど、運命には逆らえません。その中でどう生きていくか?生かされていくのか?
本書では、第2章「湿った身体の記録」として、闘病時の身体の様子、介助の方法についても記されています。人の身体を診る仕事をしていれば、とても参考になる部分です。コミュニケーションについても、ALS患者さんは、声を発することも、指で文字盤を指すことも、目を動かすこともできなくなります。そんな状況でも、家族や介護者と意志伝達を行なうわけですが、やはり肌の状態、身体を巡る水分、温もりなどで、その人の訴えを聞き取ります。「無言でも、常に言いたいこと、伝えたいことで身体が満たされている」とあります。逆に、言葉だけのコミュニケーションでは、心に思っていないことを言うこともできるので、すれ違いも起こりえます。身体のほうが、正直に語っていることがあります。そんな絶対的なものを指標にするのは大事です。
病気になったり、介護を必要とすることになったり、また、そんな人たちと関わることになって、生きることや命について深く考えさせられます。
本書では、第2章「湿った身体の記録」として、闘病時の身体の様子、介助の方法についても記されています。人の身体を診る仕事をしていれば、とても参考になる部分です。コミュニケーションについても、ALS患者さんは、声を発することも、指で文字盤を指すことも、目を動かすこともできなくなります。そんな状況でも、家族や介護者と意志伝達を行なうわけですが、やはり肌の状態、身体を巡る水分、温もりなどで、その人の訴えを聞き取ります。「無言でも、常に言いたいこと、伝えたいことで身体が満たされている」とあります。逆に、言葉だけのコミュニケーションでは、心に思っていないことを言うこともできるので、すれ違いも起こりえます。身体のほうが、正直に語っていることがあります。そんな絶対的なものを指標にするのは大事です。
病気になったり、介護を必要とすることになったり、また、そんな人たちと関わることになって、生きることや命について深く考えさせられます。
2010年5月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
川口有美子さんの「逝かない身体」を、あっという間に読み終えた。
大宅賞を受賞する前から話題になっていたが、やはり、とてもたくさんのことを考えさせる本だった。これは多くの人に勧めたい。
本書は、ALSの母親を12年間看た記録。
しかし、単なる介護の記録ではない。ALS患者の介護を通して、生の在り方、死の在り方について自問し、著者自身が掴んだ答えが示されている。
ALS(筋委縮性側策硬化症)は、全身の筋肉が衰えていく難病だ。
そのような病について、健康に生きている人間は、「絶望」のイメージを思い浮かべてしまう。たいていの人は、自分がALSになったらなどと考えたくはないし、介護する立場になることも、できれば想像したくないだろう。
しかし、本書を読んで、こうしたイメージは変わった。
「実際のところとてもたくさんの人たちが死の床でさえ笑いながら、家族や友人のために生きると誓い、できるだけ長く、ぎりぎりまで生きて死んでいったのである。だから、あえて彼らのために繰り返して言うが、進行したALS患者が惨めな存在で、意思疎通ができなければ生きる価値がないというのは大変な誤解である」
著者はこんなふうに書いている。
ALSという難病で、全身が動かせなくなり、言葉を発することも、眼球さえも動かせない状態になっても、「今、ここに、その人(患者)が生きている」ということに意味があるということだ。
これは、患者自身が自分の「生」に意味を見出すかどうかだけではなく、周囲の人、家族や介護者が、患者の「生」に意味を見いだせるかどうかが鍵となってくる。
「ALSの人の話は短く、ときには投げやりのようであるけれども、実は意味の生成まで相手に委ねることで最上級の理解を要求しているのだ」と著者はいう。
当人は「何もできない」存在か。
当人は「すべてを他人に委ねる」存在か。
同じ状態であっても、この2つの捉え方は大きく異なる。
同じ状態でも、その存在の価値は異なる。
捉え方によって介護に対する姿勢は変わるだろうし、介護に携わる生活の意味付けや、
介護者の人生観も変わると思う。
「生きているとは、どういうこと?」。
介護者は、ALS患者から、その「生」の解釈を委ねられる。
「生きる」ことについて、より深く向き合い、考えさせられる人たちだろう。
大宅賞を受賞する前から話題になっていたが、やはり、とてもたくさんのことを考えさせる本だった。これは多くの人に勧めたい。
本書は、ALSの母親を12年間看た記録。
しかし、単なる介護の記録ではない。ALS患者の介護を通して、生の在り方、死の在り方について自問し、著者自身が掴んだ答えが示されている。
ALS(筋委縮性側策硬化症)は、全身の筋肉が衰えていく難病だ。
そのような病について、健康に生きている人間は、「絶望」のイメージを思い浮かべてしまう。たいていの人は、自分がALSになったらなどと考えたくはないし、介護する立場になることも、できれば想像したくないだろう。
しかし、本書を読んで、こうしたイメージは変わった。
「実際のところとてもたくさんの人たちが死の床でさえ笑いながら、家族や友人のために生きると誓い、できるだけ長く、ぎりぎりまで生きて死んでいったのである。だから、あえて彼らのために繰り返して言うが、進行したALS患者が惨めな存在で、意思疎通ができなければ生きる価値がないというのは大変な誤解である」
著者はこんなふうに書いている。
ALSという難病で、全身が動かせなくなり、言葉を発することも、眼球さえも動かせない状態になっても、「今、ここに、その人(患者)が生きている」ということに意味があるということだ。
これは、患者自身が自分の「生」に意味を見出すかどうかだけではなく、周囲の人、家族や介護者が、患者の「生」に意味を見いだせるかどうかが鍵となってくる。
「ALSの人の話は短く、ときには投げやりのようであるけれども、実は意味の生成まで相手に委ねることで最上級の理解を要求しているのだ」と著者はいう。
当人は「何もできない」存在か。
当人は「すべてを他人に委ねる」存在か。
同じ状態であっても、この2つの捉え方は大きく異なる。
同じ状態でも、その存在の価値は異なる。
捉え方によって介護に対する姿勢は変わるだろうし、介護に携わる生活の意味付けや、
介護者の人生観も変わると思う。
「生きているとは、どういうこと?」。
介護者は、ALS患者から、その「生」の解釈を委ねられる。
「生きる」ことについて、より深く向き合い、考えさせられる人たちだろう。