最近、ポスト・トゥルースという言葉をときどき聞くようになった。調べると、2016年の英国流行語大賞に選ばれていた。この流れに乗って本書が新書化されたのだろう。
ポスト・トゥルースとは、直訳すると「真実の後」ということになるが、英国流行語大賞を出したオックスフォード辞書によると「Post-truth is an adjective defined as ‘relating to or denoting circumstances in which objective facts are less influential in shaping public opinion than appeals to emotion and personal belief’.」となる。「客観的な事実が重視されず、感情的で個人的な訴えが世論をつくる状況」ということになる。
ポスト・トゥルースに興味を持って本書を購入したのだが、「退屈」の方に主眼があるようだ。引用が哲学書に留まらず、小説や映画、その他の芸術作品、はてはゲームアプリなど多岐にわたり、著者のいいたいことが何なのか惑わされてしまう。そこでキングウェルの思想とおぼしき部分を私なりに整理してみた。
1.キングウェルの思想
「私は退屈が本当の絶望を引き起こすとするショーペンハウアーの見解に永遠に取りつかれている。.....人間存在の悲劇は惨めな状況でも快適な状況でも引き起こされる。p.246」、「明らかな真実は、退屈が特定の状況から切り離せないということ、そして、その状況がいかに人間の意識との関係で構成されてきたかからも切り離せないということである。p.222」、「退屈に関する心理学的な説明は、常に二つの重要な点を逃している.....退屈は我々が逃避しなければならないものではない。それは考察に値する.....世界とそこにいる我々の問題の現れなのだ。(そして、)近代資本主義社会の産物というだけでなく、特に政治的に構築された仕事と余暇の作用によると気づかなければならない。(それは)インターフェースによって助長されるものである。p.227-8」
以上、大胆に要約すれば、退屈は我々の世界内存在(ハイデッガー)の有りようであり、資本主義社会の産物であるとなろうか。
2.本書の構成
そして本書は4部構成となるが、内容は重複が多い。第1部「条件」は、退屈のバリエーションとインターフェースが提起される。第2部「コンテンツ」は、退屈の状態をいまの我々にとって緊急課題とした文脈について語られる(p.64)。つまりポスト・トゥルース状況の分析に充てられていると読んだ。第3部「危機」は、退屈という感情を生む構造的社会条件がさらに分析される(p.158)。第4部「前に進むには」は、退屈を再び分析し、それへの対処を提案している。
3.キーワードの退屈の区分
退屈は5つに区分され、特にネオリベラル的退屈が現代の状況とつながっていることが本書で考察される(p.30)。「“退屈”とは動きが取れないこと、その状態に対して苛立ちを感じること、そしてそういう状態に二度とはまり込みたくないと痛切に感じることに関わる」ことと説明される(p.11-2)。
① 哲学の起源としての退屈
哲学者により様々だが、穏やかに自己を祝福するという共通の雰囲気がある(p.30)。これは三木清が『人生論ノート』で言及した「瞑想」に似ている。一般に瞑想をするというときの瞑想とは違って、三木の瞑想は「つねに不意の客」であり、「多かれ少なかれミスティック」で、「過程がなく、甘美」である。その甘美に「誘惑されるとき、瞑想はもはや瞑想でなくなり、夢想か空想かになるであろう」と、「瞑想を生かし得るものは思索の厳しさ」であるとする。
三木は瞑想(退屈)に思索を対峙させることができたが、現在のポスト・トゥルースの時代にあっては、三木のように「救済は本来ただ言葉において与えられる」といい切れないことをキングウェルは批判しているのだろう。
② 精神分析的退屈
精神分析というより二重拘束(ダブルバインド)が良いように思える。欲望が否定される(p.36)とは、精神分析では抑圧というのだが、ダブルバインドは抑圧されるというより阻止現象(p.33)である。ダブルバインドとは、キングウェルがいうように「欲望のもつれ(p.32)」で身動きが取れなくなることをいう。もつれた欲望は固定した対象を持たない。そして、真実を求めるという欲望もなくなってしまう(ポスト・トゥルース)。残念ながらダブルバインドを造語したグレゴリー・ベイトソンの名は引用されていない。
③ 政治的退屈
政治的という用語が理解を妨げる。もし人びとを仕事にエンゲイジメント(コミット)させることが政治的であるのなら、この用語は適切に思える。
人は働かなければならないという「理念としての仕事」によって、いくら働いても十分ではないと思わされ(p.38)、身動きが取れなくなる。また、仕事と余暇の区別がつかなくなり、必死で遊ぶという事態も生まれる(p.37)。これは日本の過労死の背景にある状況といえないだろうか。
④ 創造的退屈
①哲学の起源としての退屈は、創造的なはずだが、ここでの創造的はそのような意味ではない。哲学的退屈の対極にある(p.44)。ここでの創造的退屈は主観的に不快だが、場合によっては生産的だ(p.42)というときの創造である。一種のごまかしであり、退屈を「白日夢や取りとめない空想、ブレインストーミング、側面的思考(p.43)」などと再定義される。上記のように三木清は、「その甘美に誘惑されるとき、瞑想はもはや瞑想でなくなり、夢想か空想かになるであろう」と、これらの退屈(瞑想)を否定する。
⑤ ネオリベラル的退屈
自分がいかにそのように想定される自分になったのか疑問視され、主体性が危機に瀕している(p.44)。そのことで、別人によって享受されているように思える存在の形を妬むようになり(p.46)、その後期資本主義(1930~1980年)のときの解決策は、金を使い借金を背負うことであった(p.47)。こうして欲望は容赦なく広がっていき、それが興奮や充実感をもたらすどころか、ますます退屈を導き出している(p.49)。
4.インターフェースについて
退屈はインターフェースによって助長されるわけだが、インターフェースとは、「プラットホーム、コンテンツ、ユーザーのあいだで参加と交流ができる流動性のある空間」と定義される(p.52)。ここではスマートフォンやアイパッド、PCなどで、スワイプやスクロールすることと理解すればよいだろう。
決して満足することなく、スワイプやスクロールを繰り返し、そのサイトから離れがたくなってしまうことを、イーグルスのヒット曲「ホテル・カリフォルニア」になぞらえて「ホテル・カリフォルニア」効果というそうだ。キングウェルはこのことを本書の議論の中心にすえたいという(p.13)。似た効果として中毒が挙げられるが、いたるところで中毒とは異なると説明される(p.58など)。
また、第1部から第4部の扉には、――気分(ムード)の報告――とあり、孤独や絶望、思慮深くなどの単語が並ぶ。気分(ムード)はハイデッガーの世界内存在の有りようを表わしている。気分(ムード)は退屈だけではないということだろう。
以上のように本書を解釈してみたが、浅学の私には十分な理解に至らなかった。本書はまだまだ得難いインスピレーションを含んでいるように思える。最後に一言、「退屈」以外の、日本語として適切な翻訳語はないものだろうか。
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