まだ途中ですが、最初の方で『資本論』の各翻訳を比較している部分が秀逸です。私にとっては向坂逸郎氏の訳しか知りませんでしたが、もっと以前に何人かの運動家がチャレンジしており、その中には向坂訳よりもずいぶんわかりやすいものがあることを知りました。
いわゆる「原文のスタイルをそのまま生かして訳す」という方式がなぜ定着しているのか、マルクスが読んでほしかった労働者階級にとって、向坂訳は適切なのか、という指摘もおもしろいです。
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輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書) 単行本 – 2007/1/1
- 本の長さ237ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2007/1/1
- ISBN-104480063420
- ISBN-13978-4480063427
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
難解な思想・哲学書の翻訳に手を出して、とても理解できないと感じ、己の無知を恥じ入る。そんな経験はないだろうか。読者をそのように仕向ける力の背後には、じつは日本の近代化における深刻な問題が控えているのである。カント、ヘーゲル、マルクスの翻訳の系譜とそこに反映された制度的拘束をあぶり出し、日本の学問と翻訳の可能性を問う。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
鈴木/直
1949年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学。東京医科歯科大学教養部教授。専攻は近代ドイツ思想史・文学。現在は、ジンメル、ハーバーマスの翻訳の他、近代化における文化干渉の問題に取り組んでいる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1949年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学。東京医科歯科大学教養部教授。専攻は近代ドイツ思想史・文学。現在は、ジンメル、ハーバーマスの翻訳の他、近代化における文化干渉の問題に取り組んでいる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2007/1/1)
- 発売日 : 2007/1/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 237ページ
- ISBN-10 : 4480063420
- ISBN-13 : 978-4480063427
- Amazon 売れ筋ランキング: - 303,841位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 476位ドイツ・オーストリアの思想
- - 1,069位ちくま新書
- - 1,547位哲学 (本)
- カスタマーレビュー:
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著者について
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2018年3月30日に日本でレビュー済み
哲学をはじめ、人文科学や社会学の翻訳書を読んでも、何を言いたのか、また、これが日本語なのかまったく分からない本があった。どう見ても高い金を出させて買わせるようなものではないと思っていたが、この本を読んで、奇妙きてれつな翻訳となっている理由がわかった。つまり、東大や京大などの学者先生たちの考えによると、原著のドイツ語を日本語に遂語訳することが、カントやヘーゲルやマルクスなど原著者の言いたいことを正しく日本語に翻訳したことになるのであって、読んでわからないのは読者の勉強が足りないということのようだ。その反対に、遂語訳でないものは、わかりやすくても、それは正しい翻訳ではないということらしい。そのような事例が、この本にたくさん出ている。読んでいると怒りたくなる。ほんとうに読者をバカにしている。本を出すのは、学者サークルの中での位置づけを高めたり、自己の業績を作るための行為であって、研究費をもらっている身として、社会に何かを還元するといったことはほとんど頭にないのかと疑ってしまう。人文科学や社会学の分野の本がこうなってしまったのは、本書のあとがきで書かれているように、著者の責任でもあり、出版社・編集者の責任でもある。この分野の多くの研究者が、哲学ではなくて哲学学、経済学ではなくて経済学学でくっているという、学問レベルでは二流、三流でととまっているというか、それに安住していることの結果なのか。見たこともない単語を使って理解できない文章を書くのは専門家としてえらいのではなく、その逆です。新書一冊に盛り込みすぎかなと思ったので、星ひとつ減にしました。
2007年1月31日に日本でレビュー済み
私は以前から翻訳に関心をもっているのだが、所謂、ベンヤミン系の逐語訳論というのにどうも違和感がある。原著者が、ベンヤミンと同じ考えならいい。だが、大半の人は、自分のいいたいことを伝えるために本を書いているはずだ。それに、「優れた逐語訳」というのをどうもあまり見たことがない。
本書の著者は、ドイツ思想・文学の研究者。中心となっている主題は、哲学書・思想書の翻訳が、何故あんなにもわかりにくいのかということ。そして、そこに端を発し、近代性論や社会論へと広がっていく。『資本論』の翻訳史に始まり、ドイツと日本における近代化や教養主義とその問題点。カントやヘーゲルの翻訳における問題点の具体的な指摘などが論じられる。
結論からいえば、著者の主張の総てに賛同するかどうかはともかく、大変興味深く、重要な本であると思った。非常に鋭い議論が多くある。例えば、ドイツの教養主義に内閉性があり、現実的なフランス近代小説と好対照であること。そのドイツに強い影響を受けた日本の教養主義がもつ問題点。周知の通り、これは、近年の論壇で、最も話題となっている点の一つだ。
特に、中江兆民などが主に紹介した自然権・社会契約思想が日本に全く根づかず、今にいたるまで禍根を残しているという指摘には同感だ。福沢諭吉的な、実学=非政治性というラインができあがってしまったという点も。堺利彦らの売文社の話も興味深かったし、既存の翻訳の問題点、明確な誤訳などへの批判も具体的だ。
本書の独創性ともいえるのは、翻訳文体の歪みが、イコール日本の近代化の歪みと相即しているのだという主張だろう。内閉性‐非政治性‐翻訳文体と、実学‐(こちらも)非政治性との関係性を明確に位置づけた点は非常に重要だと思う。
本書の著者は、ドイツ思想・文学の研究者。中心となっている主題は、哲学書・思想書の翻訳が、何故あんなにもわかりにくいのかということ。そして、そこに端を発し、近代性論や社会論へと広がっていく。『資本論』の翻訳史に始まり、ドイツと日本における近代化や教養主義とその問題点。カントやヘーゲルの翻訳における問題点の具体的な指摘などが論じられる。
結論からいえば、著者の主張の総てに賛同するかどうかはともかく、大変興味深く、重要な本であると思った。非常に鋭い議論が多くある。例えば、ドイツの教養主義に内閉性があり、現実的なフランス近代小説と好対照であること。そのドイツに強い影響を受けた日本の教養主義がもつ問題点。周知の通り、これは、近年の論壇で、最も話題となっている点の一つだ。
特に、中江兆民などが主に紹介した自然権・社会契約思想が日本に全く根づかず、今にいたるまで禍根を残しているという指摘には同感だ。福沢諭吉的な、実学=非政治性というラインができあがってしまったという点も。堺利彦らの売文社の話も興味深かったし、既存の翻訳の問題点、明確な誤訳などへの批判も具体的だ。
本書の独創性ともいえるのは、翻訳文体の歪みが、イコール日本の近代化の歪みと相即しているのだという主張だろう。内閉性‐非政治性‐翻訳文体と、実学‐(こちらも)非政治性との関係性を明確に位置づけた点は非常に重要だと思う。
2007年2月27日に日本でレビュー済み
著者はカント、ヘーゲル、マルクスの翻訳だけから輸入学問全般の歪みを引き出してくる。かつて岩波文庫には落合太郎によるデカルトの名訳があった。ツァラトストラの訳はどれも(手塚訳、秋山訳)読みやすいが、岩波の氷上訳が最高でないか。すると象牙の塔の権威主義/教養主義の元凶は哲学書の翻訳一般ではなく、ドイツ哲学の翻訳に現れる異様な文体に求めるべきでないか。(山田盛太郎の日本資本主義分析も同様な文体だが、労農派の猪俣津南男が書いたものは違う)。なぜ、19世紀ドイツ哲学だけがそうなのか、内在的な検討がほしい。
精神現象学の訳については「即自且対自」の訳をまちがった訳ではない、として消極的に支持しているが、それこそ象牙の塔に安住する姿勢でないか。コンテクストから切り離されたわずか2行の訳しぶりを根拠に長谷川訳、牧野訳全体の性格を論うのはどうかと思う。この箇所について著者自身の模範訳を提示するのが先ではないか?
精神現象学の訳については「即自且対自」の訳をまちがった訳ではない、として消極的に支持しているが、それこそ象牙の塔に安住する姿勢でないか。コンテクストから切り離されたわずか2行の訳しぶりを根拠に長谷川訳、牧野訳全体の性格を論うのはどうかと思う。この箇所について著者自身の模範訳を提示するのが先ではないか?
2007年3月6日に日本でレビュー済み
おもしろかった。哲学の翻訳の現場にいるものがつぶやかざるをえないことだけれども、ほとんどの場合、ひっそりとした孤独なつぶやきで終わってしまう、そうしたことをここまで活字にしてくれたのが、うれしい。こころから応援します。なので一言。ヘーゲル用語でふつう「対自」と訳される fuer sich ですが、辞書を見てもわかるように、自分と向き合う、とか、自覚、という語感はこの言葉にはないようです。むしろ、自分ひとりで、とか、自分のちからで、というニュアンスの日常語です。それは英語の for oneself とかフランス語の pour soi でもいっしょです。確かに直訳すれば「対自」だし、なぜこのことばが、自分のちからで、という意味をもっているのか、ということは考えなければならないことであるわけですが、ほんとに「対自」という訳語でいいのでしょうか。ひょっとすると「誤訳」かも。それにしても忘れてはならないのは、フツーのドイツ人にはヘーゲルは読めないということです。それをニホン語に訳してフツーのニホン人に読めるようにするということに無理があるのかもしれないと思う今日このごろです。
ベスト1000レビュアーVINEメンバー
岩波のドイツ関係の古典(マルクス、カントやクラウゼビッツ)などを読んだ方は、”空想より科学”や”共産党宣言”を除いて、あまりもの異様な日本語に驚いて途中で放り出した経験が誰でもあるのではないのでしょうか。私もそうでした。しかし偶然にこれらの著書を偶然に英語で読んだ場合、その比較の上でのわかりやすさに意外な感じを抱いたものでした。その驚きは、はたして同じ本を読んでいるのかという感慨さえも抱かせたほどです。著者は、このドイツ哲学の翻訳文と一般の日本語との間の乖離とその乖離の不思議な進行に日本の近代の陥った陥穽の象徴を見出します。この乖離の必然性の説明は内から、外から、上から、下からの近代化という図式に分解する(120−122ページ)ことにより、そしてドイツの近代化の状況と比較することにより、見事なまでに説明されることになります。しかしこれはあまりにも明快なためにかえってその図式の真実に疑問を抱かさせるものです。私自身はこの矛盾はピースミールな策によってその矛盾自体が改善されえたものではなく、もっと宿命的なものであると認識します。最後の部分で開陳される”表現の束自体を翻訳の対象とする”という著者の翻訳観は見事なものです。もっともこの翻訳観自体も限りない日本的なフレーヴァーを持っていますけど。なんか私の分も翻訳調になってきました。
2007年6月11日に日本でレビュー済み
結局、翻訳の問題というのは知識が要求される‘学’とセンスが要求される‘訳’とは反りが合わないということに尽きる。まだこのように定期的に問題提起される書籍の場合は良い方だと思う。もっと酷いのは洋楽の日本語訳である。訳が酷いのにこの分野には本書の著者のようにその酷さを指摘できるだけの知性が存在しないのだ。これだけの大きなマーケットで大きく購買者の期待を裏切っているのだが、購買者自身そのことに気付いていない。逆の意味で奇跡だ。(『ロックで読むアメリカ』 寺島美紀子著 近代文藝社 1996.3.20 参照)
VINEメンバー
著者は日本における思想・哲学書の翻訳文体が、近代化過程の特殊性に拘束され、現在に至るまでその刻印を帯びている、ということを示そうとしている。そのアイディアは面白そうだし、直感的には十分にありそうな話なのだが、残念ながら「論証」にまで至っていないと思う。
著者の記述は、2つの線を辿る。一方で思想・哲学書の訳文の分かりにくさの指摘。逐語訳への偏執に象徴される、「表現の快楽を抑制する倫理的なリゴリズム。具体的な内容よりも抽象的な操作を、意味よりシンタックスを、文脈よりも文法を重視する翻訳態度。原著への跪拝と読者への無関心」(p150)への批判。
他方で、日本の近代化過程の分析。明治14年政変以降、ドイツ・モデルによる「上からの近代化」が強力に推進され、エリート文官、武官育成のための国家による高等教育制度が整備される(p119)。その代表的存在として一高生が召喚され、「あの翻訳文体は、市場が生み出す消費文化から、あるいは世界共同体に組み込まれた国際関係の現実から目を背け、空疎なレトリックで自我の煩悶を表明してきた若きエリートたちの孤独感と傷ついた社会化過程の表現だったのではないのか」(p150)と、「近代化の構図と逐語訳の内通」が指弾される。
確かに日本の翻訳文体が旧制高校的文化の土壌の中に形成され、現在にまで尾を引いているという可能性は、あると思える。しかしそれを明らかにするなら、著者は日本の近代化についてのありきたりな復習にページを割くより、岩波と旧制高校文化との関わりなどについてより突っ込んだ検討を行うべきではなかったか。
「翻訳とはなにか」と題された最終章では、現代の学生を例にとってではあるが、「こうした翻訳態度を育ててきた最大の原因が、受験語学にあることはほとんど疑いえない」(p219)とまで話を一般化してしまうのだから、近代化と翻訳文体の「内通」する通路は、ますます限定的な印象を与える。だったら明治14年政変や民権運動の話などより、主題をメリトクラシーと翻訳文体とかに絞ったほうが良いのではないか? これでは、著者もまた「具体的な内容よりも抽象的な操作」に引きずられるタイプと言われても仕方ない。
もう1つ付け加えれば、個人的には哲学書などの翻訳が逐語訳、原語と訳語の1対1対応、シンタックス重視に傾くのは仕方ない面があると思う。「意味」ではなく「思考の生理」のようなものまで移そうとするなら、必要でさえあると考える。それを「原著への跪拝」と言われれば、確かにそうかもしれないが……
著者の記述は、2つの線を辿る。一方で思想・哲学書の訳文の分かりにくさの指摘。逐語訳への偏執に象徴される、「表現の快楽を抑制する倫理的なリゴリズム。具体的な内容よりも抽象的な操作を、意味よりシンタックスを、文脈よりも文法を重視する翻訳態度。原著への跪拝と読者への無関心」(p150)への批判。
他方で、日本の近代化過程の分析。明治14年政変以降、ドイツ・モデルによる「上からの近代化」が強力に推進され、エリート文官、武官育成のための国家による高等教育制度が整備される(p119)。その代表的存在として一高生が召喚され、「あの翻訳文体は、市場が生み出す消費文化から、あるいは世界共同体に組み込まれた国際関係の現実から目を背け、空疎なレトリックで自我の煩悶を表明してきた若きエリートたちの孤独感と傷ついた社会化過程の表現だったのではないのか」(p150)と、「近代化の構図と逐語訳の内通」が指弾される。
確かに日本の翻訳文体が旧制高校的文化の土壌の中に形成され、現在にまで尾を引いているという可能性は、あると思える。しかしそれを明らかにするなら、著者は日本の近代化についてのありきたりな復習にページを割くより、岩波と旧制高校文化との関わりなどについてより突っ込んだ検討を行うべきではなかったか。
「翻訳とはなにか」と題された最終章では、現代の学生を例にとってではあるが、「こうした翻訳態度を育ててきた最大の原因が、受験語学にあることはほとんど疑いえない」(p219)とまで話を一般化してしまうのだから、近代化と翻訳文体の「内通」する通路は、ますます限定的な印象を与える。だったら明治14年政変や民権運動の話などより、主題をメリトクラシーと翻訳文体とかに絞ったほうが良いのではないか? これでは、著者もまた「具体的な内容よりも抽象的な操作」に引きずられるタイプと言われても仕方ない。
もう1つ付け加えれば、個人的には哲学書などの翻訳が逐語訳、原語と訳語の1対1対応、シンタックス重視に傾くのは仕方ない面があると思う。「意味」ではなく「思考の生理」のようなものまで移そうとするなら、必要でさえあると考える。それを「原著への跪拝」と言われれば、確かにそうかもしれないが……











