貸出禁止の本をすくえ! (日本語) 単行本 – 2019/7/25
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本の長さ335ページ
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言語日本語
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出版社ほるぷ出版
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発売日2019/7/25
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ISBN-104593100526
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ISBN-13978-4593100521
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
わたし、エイミー・アン、9歳。家ではわがままな妹がやりたいほうだいで、おちつくのは図書室にいるときだけ。でもある日、お気に入りの本が棚から消えていた。いったいどうして?
著者について
アメリカの作家。第二次世界大戦などの歴史を題材にしたYA、スポーツを題材にした児童書、小中学生向けのSFなど数々の作品を書いている。現代の小学校を舞台にした児童書は本書が初めてで、初の邦訳作品となる。現在は、ノースカロライナ州に妻と娘と暮らしている。
翻訳家。上智大学外国語学部卒業。おもな訳書に『きみに出会うとき』(東京創元社)、『マリゴールドの願いごと』(小峰書店)、『新訳 思い出のマーニー』(共訳/KADOKAWA)、『ジュリアが糸をつむいだ日』(徳間書店)などがある。
翻訳家。上智大学外国語学部卒業。おもな訳書に『きみに出会うとき』(東京創元社)、『マリゴールドの願いごと』(小峰書店)、『新訳 思い出のマーニー』(共訳/KADOKAWA)、『ジュリアが糸をつむいだ日』(徳間書店)などがある。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
グラッツ,アラン
アメリカの作家。第二次世界大戦などの歴史を題材にしたYA、スポーツを題材にした児童書、小中学生向けのSFなど数々の作品を書いている。現在は、ノースカロライナ州に妻と娘と暮らしている
ないとう/ふみこ
翻訳家。上智大学外国語学部卒業(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
アメリカの作家。第二次世界大戦などの歴史を題材にしたYA、スポーツを題材にした児童書、小中学生向けのSFなど数々の作品を書いている。現在は、ノースカロライナ州に妻と娘と暮らしている
ないとう/ふみこ
翻訳家。上智大学外国語学部卒業(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : ほるぷ出版 (2019/7/25)
- 発売日 : 2019/7/25
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 335ページ
- ISBN-10 : 4593100526
- ISBN-13 : 978-4593100521
- Amazon 売れ筋ランキング: - 251,109位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
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2020年6月20日に日本でレビュー済み
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私は学校図書館を研究している関係からこの本を読みました。児童書だからさほど期待していなかったのですが、主人公の家庭や日常生活が、限られた字数にも関わらずよく描写されており、主人公が数々のピンチや悩みをとおして成長していく様子は心打つものがありました。検閲や知的自由といった難しい問題を子どもの目線から捉え、自分たちの力で見事に問題を解決していく様子はとても勉強になりました。日本の学校図書館では、臨時や嘱託の学校司書がいればまだマシというひどい状況ですが、アメリカでは博士号を持つ司書が学校図書館に勤務しているのですね。うらやましい限りです。
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アラン・グラッツの『貸出禁止の本をすくえ!』 (ほるぷ出版)を読んだ。
(こんな内容)→ある日、わたしの大好きな本が図書室から消えたのが、このお話のはじまりだった――小学4年生のエイミー・アン・オリンジャーは、放課後に図書室でゆっくり本を読んですごすのが唯一の楽しみ。でもある日、お気に入りの本、『クローディアの秘密』が、図書室の棚から消えていた。この本が、「子どもにふさわしくない本」として、貸出禁止なったのだ。でも、ある本が子どもに「ふさわしい」「ふさわしくない」って、どういうこと? いったい誰が、どうやって決めるの?
――内気で、いつでもいいたいことをいえずにいたエイミー・アンだったが、貸出禁止騒動をきっかけに、友だちの助けを借りながら行動をおこしはじめる。やがて、その行動が大きな問題となってしまい……。
------------------------------------
児童向けの本という体裁だが、中身は大人が読んでも知的刺激を受ける内容だ。
要は、お堅いジキル系のPTAのおばさんみたいな人が、この本、あの本は子供向けに相応しくナイザンスよ、うそつきや盗みやズルの仕方を教えるような本だから貸出禁止にすべきですと教育委員会に訴え、それが了承されていく…。
そのために、主人公の少女は読みたい本、読み返したい本を奪われていく。
いまの日本にも、この本、あの本はヘイト本だかち、図書館や本屋に置かないほうがいいと提唱している「自称・リベラル」を気取った、こわ~いマジメオンリーみたいな人がいるよね?
そのくせ、残酷なシーンのあるマンガでも反天皇的ならいいということで、中沢啓治氏の『はだしのゲン』 (中公文庫)などは置くべしという人もいるようだ。いや、この本は学校図書館には相応しくないという人もいるだろう。
日本の公立図書館の司書かなにかの人が、保守系論客の本ばかり狙い撃ちして「廃棄処分」にドンドンしていった図書館が千葉にあったよね。
この件については、ウィキペディアの「船橋市西図書館蔵書破棄事件」を参照されたし。
------事件件の舞台となった、かつての船橋市西図書館(東日本大震災の被害により閉鎖・移転された。)
船橋市西図書館蔵書破棄事件(ふなばししにしとしょかんぞうしょはきじけん)は、船橋市西図書館の女性司書だったAが、西部邁や新しい歴史教科書をつくる会会員らの著書計107冊を、自らの政治思想によって独断で除籍・廃棄した事件[1]。現代における「焚書坑儒」であるとされ[2]、船橋焚書事件とも呼ばれる[3][4]。この事件に伴う裁判によって本の筆者に対しては、著作権以外にも守られるべきものが存在することが示された[3]。また図書館に対しては利用者へのサービスのみならず、筆者の利益保護についても配慮されるべきものがあると警鐘を鳴らすことになった[3]。(以下略)
ともあれ、本(『貸出禁止の本をすくえ!』)では、ここは小学校中学校高校レベルの学校図書館。そういう提案を受けて、貸出禁止になっていくのに抵抗して、少女はこっそり「貸出禁止」本ばかりを集めて「私設図書館」を開設し、貸し借りを校内でしていく。それが校長にばれて出席停止処分を受ける。学校に復帰して、こんなバカげた「検閲」を止めさせるためにどうすべきか…。よし、秘策があった。目には目を、歯には歯をではないが、貸出禁止申請には……ということで----といったストーリーだ。
家族やら友人やらの間でさまざまな起伏(葛藤)があって、ラストのオチまで一気呵成に読ませる面白さだった。
ラストはちょっとしたディベートの舞台にもなっていて、ああいえば、こう言い返す…といったアメリカンデモクラシーならではの丁々発止のやりとりが描かれている。
また、ジキル系おばさんも、やっぱりハイド的側面があったということで、少女にやりこめられるあたりはハハハと笑った。
その関連で、昔の図書館の本の貸出システムが、「紙と鉛筆」だったことをいまの若い人は知らないかもしれないが、それがオチにも関連してくる。
ちょうど、永江朗さんの『私は本屋さんが好きでした あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏』 (太郎次郎社エディタス)を読んだので、この積んどく本(2019年7月刊行)を手にすることにした次第。
お堅いジキル系のPTAのおばさんみたいな人が、ヘイト本を許すなとか、つくる会の著者の本なんか図書館になくていいから廃棄、除籍にして何が悪いと思っている自称リベラルな面々と重なって見えた次第です。
『私は図書館が好きでした レッテル貼りで本が焚書されている舞台裏』なんてノンフィクションを書けるかも?
こういう人たちに、この本のラストシーンを読んでほしくなる。少女たちの「検閲」「本狩り」への抵抗方法を見て、滑稽なことをやるのはナンセンスだと悟れるかも?
右であれ、左であれ、真ん中であれ、自分の価値観に反する本を図書館に置くなというのは要注意。アレは置かなくていいけど、コレは置くべしというのも要注意。
少女はそうした「本狩り」に反対して、 「子どもにむかって、この本は読んでもいいけどこの本はいけないという権利があるのは、その子の保護者だけです」と言う。その言葉を、少女の両親が警句として少女自身にも向けるシーンもある。これもユーモア。クスクスと笑える? 著者の細かい風刺、ユーモアがさりげなく散りばめられている。
まぁ、小学生ぐらいの子供相手には、その「基準」が一番だろう。もちろん、一般の図書館と比べて学校図書館の蔵書や貸出基準は厳しくなるということはあるかもしれない。
小学校中学校(高校?)の図書館に、フランス書院が、かつての旺文社のように「わがフランス書院文庫を全冊寄付したい」といってきても「ノーサンキュー」とはなるだろう。万が一置いても貸出には親の許可書が必要となる?
『女教師』や『美人校医・少年解剖保健室』『女教師四姉妹狩り
悪魔校務員の専用奴隷にされて』なんて本は小学校は無論のこと、中学校、いや高校の図書館にも置けないかな(一般図書館も置いていないようだ)。
蔵書に入れてほしいと、高校生だった当時の僕が、高校側にリクエストしても拒絶されるだろう。それは仕方ないが…。もし、不服だとして裁判に訴えたら、ううむ、エロスに理解ある裁判官なら認めたりして…。少なくとも、寄贈するというのを拒むのはイケナイとなるかも?
しかし児童向け本も、瑣細な難癖をつけて、児童向きではないと大人が勝手に判断して、事実上の「焚書」にするのはおかしいだろう。
この点で、こんな関連書が参考になるだろう。
ウェイン・ウィーガンド編の『「図書館の権利宣言」を論じる』 (日本図書館協会)。ナチスのユダヤ人虐殺はなかったといった趣旨の本や性差別を容認する差別書を焚書したりしようとすると、「聖書」すらも除去すべきという極論にもなりかねないが、そのあたりの「区別」はどうなっているのか? そんなことを論じたりしている。
マドンナの『セックス』という本の内容は好色本だから図書館では購入しないとすればどうなる? 高価だから買わない? しかし寄贈されることになった。ならばそれを受けて貸出するのか? いや、寄贈でも拒否すべきなのか?
そんな観点からの議論もある。
他にも本書ではホロコースト否定の文献をどう扱うかなどが詳しく論じられているが、同様に(?)、スターリンの収容所群島を否定した文献や北朝鮮は地上の楽園だから帰国しようといった煽動書も、よくよく考えれば図書館はどう扱うべきなのかを論ずべきかもしれない。
もちろん焚書にしてはいけないだろう。
常に「正しい」ことを主張しがちな全体主義者たちは、自分たちの過去の汚点を消すために、むしろそういう煽動書を「消滅」させようとしているのかもしれない。
スターリン全集もレーニン全集も焚書にしてはいけない。ヒットラーの『わが闘争』も著作権が切れると自由に刊行できるようになることがドイツでもいろいろと問題視されているとの報道を読んだ記憶もある。
帰国運動の旗振り本でしかなかった寺尾五郎の『38度線の北』『朝鮮・その北と南』 (新日本出版社)などは何故か、なかなか入手困難な書である。都内の図書館にも古本屋にも見当たらない。かつての北朝鮮礼賛の過去を知られたくない集団が、こっそりと見つけ次第、処分しているのかな? 萩原遼氏などが、この本の著作権が切れる段階で「復刊」しようと提唱しているのを何かで読んだ記憶がある。結構な話だ。
その点で、ナット・ヘントフの『誰だ ハックにいちゃもんつけるのは』 (集英社コバルト文庫)がこの問題を考える上でも参考になる(原題は『彼らが本を逮捕した日』)。
かなり昔に読んだ本なので記憶が薄れているが、アメリカの高校で、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』が、女性蔑視で「黒んぼ(ニガー)」なんて言葉が頻出するのでケシカランということで貸出禁止になったことに異議申し立てをする生徒などが活躍する小説だった。憲法修正第一項(言論・新聞・宗教の自由を保障)などがキーワードにもなる。
右からであれ左からであれ、PC(ポリティカル・コレクトネス)的であれ、自分の価値観を絶対視して、他の解釈や価値観を全面否定する人に限って、焚書や禁書などをしたがるのだろう。もちろん、エロスビデオなど、一定の年齢になるまで見せないといった制限は時に必要なこともあるかもしれないが……。
そういえば、『ハックルベリー・フィンの冒険』は、文中に出てくる「ニガー」という言葉を、中立的な「奴隷(slave)」という表現に言い換えた新版がアメリカでも刊行されたそうな。いわゆる「差別語」問題をめぐってアメリカでもいろいろと議論されているようだ。
そのほか、我々日本人にとっても『ちびくろサンボ』をめぐって、絶版措置にした出版社などがあって、当時いろいろと論争があったものだった。言論の自由、出版の自由を考える上で、こういった本は大変参考になる。
(こんな内容)→ある日、わたしの大好きな本が図書室から消えたのが、このお話のはじまりだった――小学4年生のエイミー・アン・オリンジャーは、放課後に図書室でゆっくり本を読んですごすのが唯一の楽しみ。でもある日、お気に入りの本、『クローディアの秘密』が、図書室の棚から消えていた。この本が、「子どもにふさわしくない本」として、貸出禁止なったのだ。でも、ある本が子どもに「ふさわしい」「ふさわしくない」って、どういうこと? いったい誰が、どうやって決めるの?
――内気で、いつでもいいたいことをいえずにいたエイミー・アンだったが、貸出禁止騒動をきっかけに、友だちの助けを借りながら行動をおこしはじめる。やがて、その行動が大きな問題となってしまい……。
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児童向けの本という体裁だが、中身は大人が読んでも知的刺激を受ける内容だ。
要は、お堅いジキル系のPTAのおばさんみたいな人が、この本、あの本は子供向けに相応しくナイザンスよ、うそつきや盗みやズルの仕方を教えるような本だから貸出禁止にすべきですと教育委員会に訴え、それが了承されていく…。
そのために、主人公の少女は読みたい本、読み返したい本を奪われていく。
いまの日本にも、この本、あの本はヘイト本だかち、図書館や本屋に置かないほうがいいと提唱している「自称・リベラル」を気取った、こわ~いマジメオンリーみたいな人がいるよね?
そのくせ、残酷なシーンのあるマンガでも反天皇的ならいいということで、中沢啓治氏の『はだしのゲン』 (中公文庫)などは置くべしという人もいるようだ。いや、この本は学校図書館には相応しくないという人もいるだろう。
日本の公立図書館の司書かなにかの人が、保守系論客の本ばかり狙い撃ちして「廃棄処分」にドンドンしていった図書館が千葉にあったよね。
この件については、ウィキペディアの「船橋市西図書館蔵書破棄事件」を参照されたし。
------事件件の舞台となった、かつての船橋市西図書館(東日本大震災の被害により閉鎖・移転された。)
船橋市西図書館蔵書破棄事件(ふなばししにしとしょかんぞうしょはきじけん)は、船橋市西図書館の女性司書だったAが、西部邁や新しい歴史教科書をつくる会会員らの著書計107冊を、自らの政治思想によって独断で除籍・廃棄した事件[1]。現代における「焚書坑儒」であるとされ[2]、船橋焚書事件とも呼ばれる[3][4]。この事件に伴う裁判によって本の筆者に対しては、著作権以外にも守られるべきものが存在することが示された[3]。また図書館に対しては利用者へのサービスのみならず、筆者の利益保護についても配慮されるべきものがあると警鐘を鳴らすことになった[3]。(以下略)
ともあれ、本(『貸出禁止の本をすくえ!』)では、ここは小学校中学校高校レベルの学校図書館。そういう提案を受けて、貸出禁止になっていくのに抵抗して、少女はこっそり「貸出禁止」本ばかりを集めて「私設図書館」を開設し、貸し借りを校内でしていく。それが校長にばれて出席停止処分を受ける。学校に復帰して、こんなバカげた「検閲」を止めさせるためにどうすべきか…。よし、秘策があった。目には目を、歯には歯をではないが、貸出禁止申請には……ということで----といったストーリーだ。
家族やら友人やらの間でさまざまな起伏(葛藤)があって、ラストのオチまで一気呵成に読ませる面白さだった。
ラストはちょっとしたディベートの舞台にもなっていて、ああいえば、こう言い返す…といったアメリカンデモクラシーならではの丁々発止のやりとりが描かれている。
また、ジキル系おばさんも、やっぱりハイド的側面があったということで、少女にやりこめられるあたりはハハハと笑った。
その関連で、昔の図書館の本の貸出システムが、「紙と鉛筆」だったことをいまの若い人は知らないかもしれないが、それがオチにも関連してくる。
ちょうど、永江朗さんの『私は本屋さんが好きでした あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏』 (太郎次郎社エディタス)を読んだので、この積んどく本(2019年7月刊行)を手にすることにした次第。
お堅いジキル系のPTAのおばさんみたいな人が、ヘイト本を許すなとか、つくる会の著者の本なんか図書館になくていいから廃棄、除籍にして何が悪いと思っている自称リベラルな面々と重なって見えた次第です。
『私は図書館が好きでした レッテル貼りで本が焚書されている舞台裏』なんてノンフィクションを書けるかも?
こういう人たちに、この本のラストシーンを読んでほしくなる。少女たちの「検閲」「本狩り」への抵抗方法を見て、滑稽なことをやるのはナンセンスだと悟れるかも?
右であれ、左であれ、真ん中であれ、自分の価値観に反する本を図書館に置くなというのは要注意。アレは置かなくていいけど、コレは置くべしというのも要注意。
少女はそうした「本狩り」に反対して、 「子どもにむかって、この本は読んでもいいけどこの本はいけないという権利があるのは、その子の保護者だけです」と言う。その言葉を、少女の両親が警句として少女自身にも向けるシーンもある。これもユーモア。クスクスと笑える? 著者の細かい風刺、ユーモアがさりげなく散りばめられている。
まぁ、小学生ぐらいの子供相手には、その「基準」が一番だろう。もちろん、一般の図書館と比べて学校図書館の蔵書や貸出基準は厳しくなるということはあるかもしれない。
小学校中学校(高校?)の図書館に、フランス書院が、かつての旺文社のように「わがフランス書院文庫を全冊寄付したい」といってきても「ノーサンキュー」とはなるだろう。万が一置いても貸出には親の許可書が必要となる?
『女教師』や『美人校医・少年解剖保健室』『女教師四姉妹狩り
悪魔校務員の専用奴隷にされて』なんて本は小学校は無論のこと、中学校、いや高校の図書館にも置けないかな(一般図書館も置いていないようだ)。
蔵書に入れてほしいと、高校生だった当時の僕が、高校側にリクエストしても拒絶されるだろう。それは仕方ないが…。もし、不服だとして裁判に訴えたら、ううむ、エロスに理解ある裁判官なら認めたりして…。少なくとも、寄贈するというのを拒むのはイケナイとなるかも?
しかし児童向け本も、瑣細な難癖をつけて、児童向きではないと大人が勝手に判断して、事実上の「焚書」にするのはおかしいだろう。
この点で、こんな関連書が参考になるだろう。
ウェイン・ウィーガンド編の『「図書館の権利宣言」を論じる』 (日本図書館協会)。ナチスのユダヤ人虐殺はなかったといった趣旨の本や性差別を容認する差別書を焚書したりしようとすると、「聖書」すらも除去すべきという極論にもなりかねないが、そのあたりの「区別」はどうなっているのか? そんなことを論じたりしている。
マドンナの『セックス』という本の内容は好色本だから図書館では購入しないとすればどうなる? 高価だから買わない? しかし寄贈されることになった。ならばそれを受けて貸出するのか? いや、寄贈でも拒否すべきなのか?
そんな観点からの議論もある。
他にも本書ではホロコースト否定の文献をどう扱うかなどが詳しく論じられているが、同様に(?)、スターリンの収容所群島を否定した文献や北朝鮮は地上の楽園だから帰国しようといった煽動書も、よくよく考えれば図書館はどう扱うべきなのかを論ずべきかもしれない。
もちろん焚書にしてはいけないだろう。
常に「正しい」ことを主張しがちな全体主義者たちは、自分たちの過去の汚点を消すために、むしろそういう煽動書を「消滅」させようとしているのかもしれない。
スターリン全集もレーニン全集も焚書にしてはいけない。ヒットラーの『わが闘争』も著作権が切れると自由に刊行できるようになることがドイツでもいろいろと問題視されているとの報道を読んだ記憶もある。
帰国運動の旗振り本でしかなかった寺尾五郎の『38度線の北』『朝鮮・その北と南』 (新日本出版社)などは何故か、なかなか入手困難な書である。都内の図書館にも古本屋にも見当たらない。かつての北朝鮮礼賛の過去を知られたくない集団が、こっそりと見つけ次第、処分しているのかな? 萩原遼氏などが、この本の著作権が切れる段階で「復刊」しようと提唱しているのを何かで読んだ記憶がある。結構な話だ。
その点で、ナット・ヘントフの『誰だ ハックにいちゃもんつけるのは』 (集英社コバルト文庫)がこの問題を考える上でも参考になる(原題は『彼らが本を逮捕した日』)。
かなり昔に読んだ本なので記憶が薄れているが、アメリカの高校で、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』が、女性蔑視で「黒んぼ(ニガー)」なんて言葉が頻出するのでケシカランということで貸出禁止になったことに異議申し立てをする生徒などが活躍する小説だった。憲法修正第一項(言論・新聞・宗教の自由を保障)などがキーワードにもなる。
右からであれ左からであれ、PC(ポリティカル・コレクトネス)的であれ、自分の価値観を絶対視して、他の解釈や価値観を全面否定する人に限って、焚書や禁書などをしたがるのだろう。もちろん、エロスビデオなど、一定の年齢になるまで見せないといった制限は時に必要なこともあるかもしれないが……。
そういえば、『ハックルベリー・フィンの冒険』は、文中に出てくる「ニガー」という言葉を、中立的な「奴隷(slave)」という表現に言い換えた新版がアメリカでも刊行されたそうな。いわゆる「差別語」問題をめぐってアメリカでもいろいろと議論されているようだ。
そのほか、我々日本人にとっても『ちびくろサンボ』をめぐって、絶版措置にした出版社などがあって、当時いろいろと論争があったものだった。言論の自由、出版の自由を考える上で、こういった本は大変参考になる。