「法」に関連して、ケルゼンとハートの関係がおもしろかったです。
一読して、著者は、どっぷりルーマンというのではなく、ルーマンを踏まえた
その先を模索するという方向性が強いのかなとの印象です。
で、前著の『メディアの哲学』の末尾にもチロっと書いていた「身体性」ですが。
それはどこまでも区別に基づく私たちにとっての逃れられない「意味」でしか
なくって、いかに「身体性」とか言い立てても、それが公刊されるという社会的な
言説に乗っかった途端に、システムに回収されちゃうんじゃないでしょうか?。
ちゃんと機能的に分化したものじゃなくても、相互対面的な意味の流通の範囲で
あっても。
だから、それはルーマンを超えたことにはならないんじゃないかしら、
と思ったのでした。
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