題名が気になったためかなり迷った挙句、購入。
正直、お高いと思ったが、研究書の部類だししょうがないか。
確かにかなり細かい資料収集の元に丁寧に考察がなされていて、
共著でないと無理な広範囲をカバーしていた。
この作品放映時のテレビアニメ世代ではなく、
少年少女世界の名作文学で本文とウィーダに関する解説を読んだ世代。
哀しい話だったが、作品そのものはまだ見ぬオランダの風俗やキリスト教文化、
ルーベンスの絵画などへの憧れを掻き立ててはくれた。
故に涙に暮れて聖地巡りしようとは思わなかった。
本当にアニメの影響力は大きい。
異文化理解に役立つ1冊ではあるかな。
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誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬 単行本(ソフトカバー) – 2015/12/11
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あの名作に感動するのは日本人だけ? 本国ベルギーではほとんど無名? アメリカ映画ではネロもパトラッシュも死なずにハッピーエンド? 原作を書いたイギリス人女性作家の数奇な運命とは? 大聖堂で涙を流す大勢の日本人に驚いたフランダース人が、原作と日米の映像作品から「涙の名作」の虚構と現実に迫る。
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2015/12/11
- 寸法12.9 x 1.8 x 18.8 cm
- ISBN-104000610856
- ISBN-13978-4000610858
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
イギリス人作家が、なぜフランダース地方を舞台に悲しい物語を書いたのか。本国ベルギーでは、なぜ人々に受け入れられなかったのか。アメリカで作られた5本の映画は、なぜハッピーエンドに書き換えられたのか。日本にはどのように紹介され、1975年のテレビシリーズはなぜ大成功したのか。そして、悲しいストーリーの『フランダースの犬』が今も日本で愛され続けている理由とは。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ディーンデレン,アン・ヴァン
映画監督。シント・ルーカス・インスティテュート(ブリュッセル)オーディオビジュアルアーツ専攻科卒業。ゲント大学比較文化研究科博士課程修了。元カリフォルニア大学バークレー校研究員。視覚人類学/パフォーマティブ・アントロポロジーに関する論考の発表を続ける一方、ゲント大学美術学部の講師を務める。また、ドキュメンタリー、人類学、ビジュアルアーツが重なる領域における作品制作を支援する場であるSoundImageCultureの発起人でもある
ヴォルカールト,ディディエ
1971年、ベルギー生まれ。日本のアニメとオタク文化の研究で博士号取得
塩崎/香織
オランダ語を中心とした翻訳・通訳者。国際基督教大学卒業。1997年よりオランダ在住(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
映画監督。シント・ルーカス・インスティテュート(ブリュッセル)オーディオビジュアルアーツ専攻科卒業。ゲント大学比較文化研究科博士課程修了。元カリフォルニア大学バークレー校研究員。視覚人類学/パフォーマティブ・アントロポロジーに関する論考の発表を続ける一方、ゲント大学美術学部の講師を務める。また、ドキュメンタリー、人類学、ビジュアルアーツが重なる領域における作品制作を支援する場であるSoundImageCultureの発起人でもある
ヴォルカールト,ディディエ
1971年、ベルギー生まれ。日本のアニメとオタク文化の研究で博士号取得
塩崎/香織
オランダ語を中心とした翻訳・通訳者。国際基督教大学卒業。1997年よりオランダ在住(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2015/12/11)
- 発売日 : 2015/12/11
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 224ページ
- ISBN-10 : 4000610856
- ISBN-13 : 978-4000610858
- 寸法 : 12.9 x 1.8 x 18.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 477,156位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 1,183位ドイツ文学研究
- - 2,028位その他の外国文学研究関連書籍
- - 9,751位英米文学
- カスタマーレビュー:
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私が一番好きな児童文学は、誰が何と言おうと、『フランダースの犬』である。特に、クリスマスの朝、アントワープの聖母大聖堂(ノートルダム大聖堂)で、見たくて見たくて堪らなかった憧れのピーテル・パウル・ルーベンスの「キリスト昇架」と「キリスト降架」の絵を見上げながら、愛犬パトラッシュを固く抱き締めたネロとパトラッシュが冷たくなっていく場面では、いつも涙が止まらなくなってしまう。本名マリア・ルイーズ・ラメ、筆名ウィーダの原作では、このシーンはこう描かれている。「ふたりにとって、それ以上生きるより、死ぬほうが救いだったのかもしれません。愛がむくわれず、信仰が実らないこの世から、死は、愛する人に忠実なパトラッシュをつれ去り、素朴に神と人を信じるネロをつれ去りました」。
『誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬』(アン・ヴァン・ディーンデレン、ディディエ・ヴォルカースト編著、塩﨑香織訳、岩波書店)では、6名のフランダース人の著者たちによって、●イギリス人女性作家は、なぜベルギーのフランダース地方を舞台にした悲しい短篇小説を書いたのか、●ベルギーでは、なぜこの作品は人々に受け容れられなかったのか、●一方、日本では、なぜこの物語が今日に至るまで人々に愛され続けているのか、●また、アメリカで製作された5本の映画は、なぜパッピー・エンディングに書き換えられたのか――という興味深い謎が、粘り強く追求されている。
1857年、18歳のウィーダはロンドンで作家としてのスタートを切り、たちまちベストセラー作家となり、27歳にして大金持ちになっていた。彼女は、読者に歓迎される読み物とはどういうものかをよく心得ており、そういう作品を創り出す才能に恵まれていたのである。
そのウィーダが『フランダースの犬』を書いたのはなぜか。1871年の夏の終わりから秋にかけてベルギーのブリュッセルに滞在したウィーダは、この地で経験したさまざまなことからインスピレーションを得て、罪のない動物たちの受難、庶民の窮乏、身分違いの恋愛が辿る悲惨な運命、芸術の保護が芸術を攻撃するものとなること――を融合させた物語を書こうと思い立つ。こうして書き上げられたのが、『フランダースの犬』なのである。
フランダース人の著者たちは、「ウィーダの『フランダースの犬』は虚構――短いフランダース滞在とロマンチックな空想の産物だ」、「ウィーダが描写するフランダースは魅力に乏しい。『フランダースの犬』に登場するフランダース人は、おとなしいだけの田舎者、無教養な人物、しみったれ――要するに小心の伝統主義者として描かれている」と、舌鋒鋭く指摘している。その上、舞台として設定したフランダースを事実とはかなり異なる形で借用しているというのだ。「短編小説『フランダースの犬』が見事に示しているのは、名作といわれる作品がひとつの文化圏を描写するとき、虚構と現実はどう混ざり合うかということである。ウィーダは、事実として確かめられる事柄と自分で作った話を一緒にすることに優れた能力を発揮し、それが本当に起きたという錯覚を読者に与えるような、きわめて説得力のある物語を生み出した。この物語の翻案がさまざまな国で作られ。その文化に受け入れられていく驚くべき道のりが始まったきっかけは、この芸術的な語りの手法だった」と、皮肉を交じえて論評している。
さらに、ウィーダの晩年の落魄ぶりにまで言及している。
『フランダースの犬』が、ベルギーの北半分を占めるフランダース地方を含め、ベルギーでは、ほとんど知られていないのはなぜか。そして、フランダース人はなぜネロとパトラッシュのことが好きではないのだろう。「このフランダースの犬をめぐる物語は産業化を経る前の貧しい時代が舞台となっている。フランダース人としては思い出したくない過去だ。さらに、フランダース人の目からすると、これは貧しく、何よりも人生に失敗する少年の物語であり、自分たちが打ち出したいイメージとは違う。フランダースがエネルギッシュで経済的にも豊かな地域としてその地位を固めようとしているいま、惨めな物語などごめんだ。・・・つまり、『フランダースの犬』には、フランダース人が本来受け付けない、あるいは認めたがらない要素が入っている」。
一方、「日本の場合、映像化されたフランダースには(ベルギーともアメリカとも)まったく異なる価値観が見て取れる。日本の教育学者・高橋晃は、ネロとパトラッシュの悲劇的な最期は、決まって悲しい結末を迎える日本の多くの映画のパターンになじむものだと論じている。日本の親は、子どもたちが他人の悲しみや苦しみに共感する能力を養うことが重要だと考えるのだ。また、ベルギーで日本学と観光学を学んだデ・フロイターと映画監督のヴァン・ディーンデレンは、ネロとパトラッシュが、日本の伝統文化で軸となる資質とされる価値観を満たしていることから、いかに日本のヒーローとして認識されているかを説明した。つまり、崇高な失敗(高貴なる敗北)が真摯な態度(誠)と合わさって、感動的な自己犠牲につながるという考え方だ」。著者たちは、1975年にテレビの「カルピスこども劇場」で放映されたアニメーションの影響が大きかったと見做している。アニメーション化の洗礼を受けた後、物語は一層日本人好みのものとなったというのである。
「アメリカ映画の5作品すべてに共通して用いられた翻案のパターンは、家族を大切にするアメリカの価値観を明確に伝えるものだ。・・・アメリカのネロはアメリカンドリームを体現している。だからこそ、ハリウッドで映画化された5作品はどれも必ずハッピーエンドで終わる。自分自身への信頼と自国の価値観に対する信念をアメリカの観客が失わないようにするためだ」。アメリカの親たちは、自分の力を信じてアメリカン・ドリームを体現し、自分の置かれた悲惨な社会状況から脱出する、そういう物語を子供たちに見せたいと思っているというのだ。
最後に、著者たちが、「観光や広報、さらには文化史的な面でこの(『フランダースの犬』の)足跡に大きな価値が秘められていることを、フランダース人は理解していないのだろうか」と、フランダース人に現在の状況を改善するよう求めていることを付記しておく。
『誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬』(アン・ヴァン・ディーンデレン、ディディエ・ヴォルカースト編著、塩﨑香織訳、岩波書店)では、6名のフランダース人の著者たちによって、●イギリス人女性作家は、なぜベルギーのフランダース地方を舞台にした悲しい短篇小説を書いたのか、●ベルギーでは、なぜこの作品は人々に受け容れられなかったのか、●一方、日本では、なぜこの物語が今日に至るまで人々に愛され続けているのか、●また、アメリカで製作された5本の映画は、なぜパッピー・エンディングに書き換えられたのか――という興味深い謎が、粘り強く追求されている。
1857年、18歳のウィーダはロンドンで作家としてのスタートを切り、たちまちベストセラー作家となり、27歳にして大金持ちになっていた。彼女は、読者に歓迎される読み物とはどういうものかをよく心得ており、そういう作品を創り出す才能に恵まれていたのである。
そのウィーダが『フランダースの犬』を書いたのはなぜか。1871年の夏の終わりから秋にかけてベルギーのブリュッセルに滞在したウィーダは、この地で経験したさまざまなことからインスピレーションを得て、罪のない動物たちの受難、庶民の窮乏、身分違いの恋愛が辿る悲惨な運命、芸術の保護が芸術を攻撃するものとなること――を融合させた物語を書こうと思い立つ。こうして書き上げられたのが、『フランダースの犬』なのである。
フランダース人の著者たちは、「ウィーダの『フランダースの犬』は虚構――短いフランダース滞在とロマンチックな空想の産物だ」、「ウィーダが描写するフランダースは魅力に乏しい。『フランダースの犬』に登場するフランダース人は、おとなしいだけの田舎者、無教養な人物、しみったれ――要するに小心の伝統主義者として描かれている」と、舌鋒鋭く指摘している。その上、舞台として設定したフランダースを事実とはかなり異なる形で借用しているというのだ。「短編小説『フランダースの犬』が見事に示しているのは、名作といわれる作品がひとつの文化圏を描写するとき、虚構と現実はどう混ざり合うかということである。ウィーダは、事実として確かめられる事柄と自分で作った話を一緒にすることに優れた能力を発揮し、それが本当に起きたという錯覚を読者に与えるような、きわめて説得力のある物語を生み出した。この物語の翻案がさまざまな国で作られ。その文化に受け入れられていく驚くべき道のりが始まったきっかけは、この芸術的な語りの手法だった」と、皮肉を交じえて論評している。
さらに、ウィーダの晩年の落魄ぶりにまで言及している。
『フランダースの犬』が、ベルギーの北半分を占めるフランダース地方を含め、ベルギーでは、ほとんど知られていないのはなぜか。そして、フランダース人はなぜネロとパトラッシュのことが好きではないのだろう。「このフランダースの犬をめぐる物語は産業化を経る前の貧しい時代が舞台となっている。フランダース人としては思い出したくない過去だ。さらに、フランダース人の目からすると、これは貧しく、何よりも人生に失敗する少年の物語であり、自分たちが打ち出したいイメージとは違う。フランダースがエネルギッシュで経済的にも豊かな地域としてその地位を固めようとしているいま、惨めな物語などごめんだ。・・・つまり、『フランダースの犬』には、フランダース人が本来受け付けない、あるいは認めたがらない要素が入っている」。
一方、「日本の場合、映像化されたフランダースには(ベルギーともアメリカとも)まったく異なる価値観が見て取れる。日本の教育学者・高橋晃は、ネロとパトラッシュの悲劇的な最期は、決まって悲しい結末を迎える日本の多くの映画のパターンになじむものだと論じている。日本の親は、子どもたちが他人の悲しみや苦しみに共感する能力を養うことが重要だと考えるのだ。また、ベルギーで日本学と観光学を学んだデ・フロイターと映画監督のヴァン・ディーンデレンは、ネロとパトラッシュが、日本の伝統文化で軸となる資質とされる価値観を満たしていることから、いかに日本のヒーローとして認識されているかを説明した。つまり、崇高な失敗(高貴なる敗北)が真摯な態度(誠)と合わさって、感動的な自己犠牲につながるという考え方だ」。著者たちは、1975年にテレビの「カルピスこども劇場」で放映されたアニメーションの影響が大きかったと見做している。アニメーション化の洗礼を受けた後、物語は一層日本人好みのものとなったというのである。
「アメリカ映画の5作品すべてに共通して用いられた翻案のパターンは、家族を大切にするアメリカの価値観を明確に伝えるものだ。・・・アメリカのネロはアメリカンドリームを体現している。だからこそ、ハリウッドで映画化された5作品はどれも必ずハッピーエンドで終わる。自分自身への信頼と自国の価値観に対する信念をアメリカの観客が失わないようにするためだ」。アメリカの親たちは、自分の力を信じてアメリカン・ドリームを体現し、自分の置かれた悲惨な社会状況から脱出する、そういう物語を子供たちに見せたいと思っているというのだ。
最後に、著者たちが、「観光や広報、さらには文化史的な面でこの(『フランダースの犬』の)足跡に大きな価値が秘められていることを、フランダース人は理解していないのだろうか」と、フランダース人に現在の状況を改善するよう求めていることを付記しておく。
VINEメンバー
クリスマスの夜の大聖堂。「パトラッシュ、疲れただろう…僕も疲れたんだ…なんだかとても眠いんだ」ネロとパトラッシュは冷たい石の床に身体を横たえていた。すると小さな天使たちが舞い降りてきて、ネロとパトラッシュを天国へ導いていくのだった。
このシーンを覚えている人は多いはずだ。何しろこのアニメ「フランダースの犬」は1974年に「カルピスこども劇場」52回シリーズとして放映され大ヒットした。毎日曜日に3000万人が観たというが、その後も繰り返し再放送されている。しかし、舞台となったベルギーのフランダース地方では「フランダースの犬」の物語はほとんど知られていない。なぜそんな奇妙なことが起きたのか。その理由をフランダースの日本アニメ研究者、映画監督、英文学者、文化人類学者などが調べ上げたのが本書である。
「フランダースの犬」は1972年にイギリス人女性作家、ウィーダによって書かれた65ページの短編小説である。人気作家であったウィーダがベルギーに短期間滞在したときの作品である。ウィ―ダは、貧しくて文化的にも遅れていた当時のベルギーにいい印象を持たなかったようだ。犬が荷馬車を引いているのを見て彼女が憤慨した話が残っている。そのためにウィ―ダは不幸な境遇にある子供が愛犬と共に悲しい最期をとげる作品を批判を込めて書いたのだった。こうした経緯でできた「フランダースの犬」はベルギーを見下しているととれる内容であったためにベルギーでは無視されてしまったのである。
ところが「フランダースの犬」はアメリカに渡り、注目を浴びることになる。1914年から1999年までに5回も劇映画化されている。しかし、いずれの作品も結末がハッピーエンドに改変されるという共通の特徴がある。ネロとパトラッシュは死なずに裕福な家庭に引き取られて幸せに暮らすのである。ネロは、才能ある者、努力する者は必ず成功する、とのアメリカンドリームの体現者となったのである。しかし、実写映画のこの5作品は、いずれも興行的に成功を収めてはいない。もちろんフランダースではまったく知られていない。
日本では1908年に翻訳書が出版された。以来、さまざまな訳で「フランダースの犬」は普及していく。宇野浩二や川端康成などの有名作家が翻訳者に名を連ねた。ネロが純粋無垢な、心の清らかな少年として描かれていることから名作童話として扱われ、高く評価されたのである。そして戦後、1974年に1年にわたって放映されたTVアニメ番組で「フランダースの犬」は熱狂的な人気を獲得する。
本書では「フランダースの犬」のベルギー、アメリカ、日本での受け止め方の差が詳しく論じられる。ベルギー人にとっては思い出したくない貧しい過去の時代の物語はできれば読みたくない。また、貧しい上に夢破れる少年の物語にはベルギー人は文化的に共感できないのだ。しかし、アメリカ人は物語をハッピーエンドに変えて受け入れた。厳しい状況から抜け出して幸運を掴むことや自己実現の大切さを説くアメリカ人がネロとパトラッシュを殺すはずがない。親は子供に向かって「ネロのように努力すればいい結果が待っている」と教えたいのだ。そして、たとえ否定的な結果であっても相手への共感を尊ぶ日本人は「フランダースの犬」の悲劇的結末を好ましいと考える。つまり日本人の伝統的な道徳観と「フランダースの犬」の結末は一致するのだ。本書では「たかが童話」をめぐって各国の道徳的、文化的、歴史的な差異が論じられていて興味深く読んだ。
今も「フランダースの犬」の遺跡を求めて大勢の日本人がアントワープの街を訪ねているらしい。しかし、彼らはベルギー人がネロもパトラッシュも知らない事実に驚きと失望を味わうはずだ。著者たちは、せっかくの観光資源を生かして日本との文化交流を活性化させようと提言している。しかし、その道のりは遠いのではないかと、本書を読んだ私は考えてしまう。
追記1:日本のアニメへの評価が高い。シリーズ52話の各話のあらすじを35ページにわたって丁寧に紹介し、作画が素晴らしく、ユーモアにあふれ、四季の季節感があり、アニメの傑作だと絶賛している。
追記2:「アルプスの少女ハイジ」も「赤毛のアン」も現地ではあまり知られていないという。
このシーンを覚えている人は多いはずだ。何しろこのアニメ「フランダースの犬」は1974年に「カルピスこども劇場」52回シリーズとして放映され大ヒットした。毎日曜日に3000万人が観たというが、その後も繰り返し再放送されている。しかし、舞台となったベルギーのフランダース地方では「フランダースの犬」の物語はほとんど知られていない。なぜそんな奇妙なことが起きたのか。その理由をフランダースの日本アニメ研究者、映画監督、英文学者、文化人類学者などが調べ上げたのが本書である。
「フランダースの犬」は1972年にイギリス人女性作家、ウィーダによって書かれた65ページの短編小説である。人気作家であったウィーダがベルギーに短期間滞在したときの作品である。ウィ―ダは、貧しくて文化的にも遅れていた当時のベルギーにいい印象を持たなかったようだ。犬が荷馬車を引いているのを見て彼女が憤慨した話が残っている。そのためにウィ―ダは不幸な境遇にある子供が愛犬と共に悲しい最期をとげる作品を批判を込めて書いたのだった。こうした経緯でできた「フランダースの犬」はベルギーを見下しているととれる内容であったためにベルギーでは無視されてしまったのである。
ところが「フランダースの犬」はアメリカに渡り、注目を浴びることになる。1914年から1999年までに5回も劇映画化されている。しかし、いずれの作品も結末がハッピーエンドに改変されるという共通の特徴がある。ネロとパトラッシュは死なずに裕福な家庭に引き取られて幸せに暮らすのである。ネロは、才能ある者、努力する者は必ず成功する、とのアメリカンドリームの体現者となったのである。しかし、実写映画のこの5作品は、いずれも興行的に成功を収めてはいない。もちろんフランダースではまったく知られていない。
日本では1908年に翻訳書が出版された。以来、さまざまな訳で「フランダースの犬」は普及していく。宇野浩二や川端康成などの有名作家が翻訳者に名を連ねた。ネロが純粋無垢な、心の清らかな少年として描かれていることから名作童話として扱われ、高く評価されたのである。そして戦後、1974年に1年にわたって放映されたTVアニメ番組で「フランダースの犬」は熱狂的な人気を獲得する。
本書では「フランダースの犬」のベルギー、アメリカ、日本での受け止め方の差が詳しく論じられる。ベルギー人にとっては思い出したくない貧しい過去の時代の物語はできれば読みたくない。また、貧しい上に夢破れる少年の物語にはベルギー人は文化的に共感できないのだ。しかし、アメリカ人は物語をハッピーエンドに変えて受け入れた。厳しい状況から抜け出して幸運を掴むことや自己実現の大切さを説くアメリカ人がネロとパトラッシュを殺すはずがない。親は子供に向かって「ネロのように努力すればいい結果が待っている」と教えたいのだ。そして、たとえ否定的な結果であっても相手への共感を尊ぶ日本人は「フランダースの犬」の悲劇的結末を好ましいと考える。つまり日本人の伝統的な道徳観と「フランダースの犬」の結末は一致するのだ。本書では「たかが童話」をめぐって各国の道徳的、文化的、歴史的な差異が論じられていて興味深く読んだ。
今も「フランダースの犬」の遺跡を求めて大勢の日本人がアントワープの街を訪ねているらしい。しかし、彼らはベルギー人がネロもパトラッシュも知らない事実に驚きと失望を味わうはずだ。著者たちは、せっかくの観光資源を生かして日本との文化交流を活性化させようと提言している。しかし、その道のりは遠いのではないかと、本書を読んだ私は考えてしまう。
追記1:日本のアニメへの評価が高い。シリーズ52話の各話のあらすじを35ページにわたって丁寧に紹介し、作画が素晴らしく、ユーモアにあふれ、四季の季節感があり、アニメの傑作だと絶賛している。
追記2:「アルプスの少女ハイジ」も「赤毛のアン」も現地ではあまり知られていないという。
2016年4月20日に日本でレビュー済み
元々のTVアニメ「フランダースの犬」が放映された当時、私は小学生で、とにかくこのアニメの最終回に向けての友達同士の話が盛り上がっていたのを覚えている。最終回の放映に向けて「ネロとパトラッシュを殺さないで!」という全国の視聴者からの嘆願投書がTV局に殺到したのは当時の記憶としていまだに残っている。アニメに対してこんなに思い入れが多くの人々から成されたのは初めてだったのではないか。しかしそれは狭い日本の中だけの話で、物語の舞台となったベルギーのフランダース地方の人々にとっては「関係ない」話だったが、観光などでアントワープを訪れる日本人達にとっては「アントワープ=フランダースの犬」として(TVアニメを通して頭の中に刷り込まれた)結び付けられているので、現地のベルギーの人達を当惑させる元となった。私はこのフランダース人により著されたこの本を読み「原作者ウィーダの死後、完全に物語が独り歩きをしてしまったんだな」という印象を持った。原作者ウィーダはイギリス人で、でも話の舞台はベルギーのフランダース地方で、遠い東アジアの日本でアニメ化された後、“逆輸入”される様な形でアントワープやホーボーケンといったベルギーの地方都市に観光を通して経済効果が波及してしまっている。アメリカのハリウッドでも何度か映画化されているが、結末が原作通りではなくハッピーエンドにされているなど、お国柄によって話が脚色されているのは面白い。やはり日本人のこのアニメに対する思い入れぶりが半端なかったことが回り回ってフランダース人によるこういう「総括」の本が出版されることとなった背景としては最も大きいだろう。アントワープ市とホーボーケン(どちらも「フランダースの犬」を通して日本で知られるようになった)の町興しをめぐる“覇権争い”みたいなことが起こっていた事も興味深い。「こう在って欲しい」という日本のアニメファンの現地に対する憧れと「でも実際はこうです」とズレが現地の方により初めて解説された詳しい報告書といった内容。面白かった。





