賛否はおいて記憶をめぐる物語批判としで考察が明快なので、
まずは読むべき本だと思います。
他者との出来事の分有、その可能性について、諸々考察が
されてます。結論らしきものはないですが。
歴史に興味がある人はふまえておくべき論点であること
はまちがいないです。
但し、ポストモダン的物語批判の影響を多分に受けてい
るためか(というかそのものだけど)、「痕跡」「署名」とか、
気持ちはわかるが、かなり神秘的です。
しかし、<出来事>って、いったい何回でてくるんで
しょうか。言葉と対比的に語られる論じ方は、とても危なっか
しい感じがします。
背景には「歴史修正主義」への嫌悪?もあるのかもしれ
ませんが、こうまで表象不能の<出来事>を連発されると
オカルトになります。遡行的に見出されるなら、逆に論点
先取感もなきにしもあらず(誤読ならごめんなさい)。
他者との分有に思弁的に夢を語る終章は、ある意味神々しく
ちょとカルト的宗教ちっくなテイストさえ漂う。
個人的にはやはり個人でなく、国家としての歴史という
レイアも依然として必要だと思いますね。著者のいうよう
それが物語だとしてもね。
勿論、擬人化した国家を前提に、他国との「分有」などと、
本書でなされている議論を誇大妄想的に拡張することは
あってはなりません(やると宗教ですから)。
記憶/物語 (思考のフロンティア) (日本語) 単行本 – 2000/2/21
岡 真理
(著)
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本の長さ123ページ
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言語日本語
-
出版社岩波書店
-
発売日2000/2/21
-
ISBN-104000264273
-
ISBN-13978-4000264273
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
或る出来事―しかも、暴力的な―体験を物語ることは、果たして可能だろうか。もし不可能なら、その者の死とともに、その出来事は起こらなかったものとして、歴史の闇に葬られてしまうだろう。出来事の記憶が、人間の死を越えて生きのびるために、それは語られねばならない。だが、誰が、どのように語りうるのか。記憶と物語をめぐるポリティクスを、パフォーマティヴに脱構築する果敢な試み。
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カスタマーレビュー
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2008年10月13日に日本でレビュー済み
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14人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2011年2月14日に日本でレビュー済み
巻末によると、本書出版時の著者の専攻は、「現代アラブ文学、第三世界フェミニズム思想」である。アラブ世界に身を置いた体験があり、アラビア語、アラブ文学に通暁している著者は、ほとんどの日本人が知ることのない、あるパレスチナ人の虐殺事件から、この本を語り始める。ただし、本書の目的は、特定の虐殺事件に照準を絞ることにあるのではなく、戦争において典型的に顕在化する、圧倒的に不条理で無意味な暴力やその記憶を、他者と分有するとはどのようなことであり、また、それは如何にして可能かという、より一般的なテーマを追究することにある。
著者は、自らの問いの重みに困惑し逡巡しながらも(そうした軌跡の轍を残しながらもなお)、畏怖するほどに明晰な文章で、欺瞞のない誠実な思考を実践している。
著者の思考の前提は、以下のようなものだ。すなわち、戦争のような理不尽で激しい暴力に晒され損なわれた者たちは、その〈出来事〉を、その記憶を、現在形の〈出来事〉として生きている。彼ら彼女らは、それを過去形のレベルに回収し、体験として語ることができない。このとき、彼ら彼女らと、その〈出来事〉(の記憶)との主客が逆転している。すなわち、ここにあっては、人が思い出すのではなく、記憶が到来する。人が出来事を語るのではなく、出来事が人に語らせるのだ。とはいえ、暴力に特徴づけられた、こうした常に現在形として回帰する〈出来事〉は、語ろうとしても、汲み上げられない〈出来事〉が常にこぼれ落ちてしまう。
こうした「語り」の前にあって、われわれは、如何にその他者と記憶を分有すべきか。まず、著者が何より唾棄するのは、無意味で不条理な暴力や死、その記憶に対して、意味の不在を直視できないために、英雄物語や愛の讃歌のようなもので意味を充填しようとする態度だ。著者は、このような態度を「暴力」ということばを遣ってすら糾弾する。この感覚は、著者ほどに優れた文学的資質を持っていれば至極当然であろうが、この観点からスピルバーグの『プライベート・ライアン』や『シンドラーのリスト』を完膚なきまでに批判する手腕は見事で、喝采を送りたくなったほどだ。
とは言っても、著者は単なる手腕ある辛辣な批評家ではない。語り得ぬものの存在を自覚し、自らの無力を自覚し、それでもなお、他者の語りに切迫しようとする彼女は、彼女自身の誠意によってもまた傷つけられているように感じる。思想の場はもちろん戦場ではないが、彼女自身もまた、傷だらけになりながら、他者の語りの不可能性の漸近線まで肉迫したのだ。
著者は、自らの問いの重みに困惑し逡巡しながらも(そうした軌跡の轍を残しながらもなお)、畏怖するほどに明晰な文章で、欺瞞のない誠実な思考を実践している。
著者の思考の前提は、以下のようなものだ。すなわち、戦争のような理不尽で激しい暴力に晒され損なわれた者たちは、その〈出来事〉を、その記憶を、現在形の〈出来事〉として生きている。彼ら彼女らは、それを過去形のレベルに回収し、体験として語ることができない。このとき、彼ら彼女らと、その〈出来事〉(の記憶)との主客が逆転している。すなわち、ここにあっては、人が思い出すのではなく、記憶が到来する。人が出来事を語るのではなく、出来事が人に語らせるのだ。とはいえ、暴力に特徴づけられた、こうした常に現在形として回帰する〈出来事〉は、語ろうとしても、汲み上げられない〈出来事〉が常にこぼれ落ちてしまう。
こうした「語り」の前にあって、われわれは、如何にその他者と記憶を分有すべきか。まず、著者が何より唾棄するのは、無意味で不条理な暴力や死、その記憶に対して、意味の不在を直視できないために、英雄物語や愛の讃歌のようなもので意味を充填しようとする態度だ。著者は、このような態度を「暴力」ということばを遣ってすら糾弾する。この感覚は、著者ほどに優れた文学的資質を持っていれば至極当然であろうが、この観点からスピルバーグの『プライベート・ライアン』や『シンドラーのリスト』を完膚なきまでに批判する手腕は見事で、喝采を送りたくなったほどだ。
とは言っても、著者は単なる手腕ある辛辣な批評家ではない。語り得ぬものの存在を自覚し、自らの無力を自覚し、それでもなお、他者の語りに切迫しようとする彼女は、彼女自身の誠意によってもまた傷つけられているように感じる。思想の場はもちろん戦場ではないが、彼女自身もまた、傷だらけになりながら、他者の語りの不可能性の漸近線まで肉迫したのだ。
VINEメンバー
暴力の歴史は、後の世に語り継ぐことで平和の礎としなければならない。だが、暴力的な出来事を語りつぐことなど、本当にできるのだろうか?本書を貫くものは、暴力の「記憶」を「物語」ることにまつわる問題群をめぐる、ある種の「悩み」である。
PTSDやトラウマ、フラッシュバックにさいなまれる人々にとって、「記憶」とは領有する対象ではない。「記憶」が人を領有するのである。暴力的な出来事を経験した人々にとって、そのような「記憶」を言語化することなど果たして可能なのか?
また、著者はバルザックらの小説や「プライベート・ライアン」などの映画を批評しつつ、第三者による、小説や映画を通してなされる「記憶」の共有の試みにも、ナショナルな物語に取り込まれる傾向や、「記憶を積極的に抑圧する装置」に転化する危うさが孕まれているのではないかと問題を提起する。犠牲に「物語」として意味づけがなされるそのような作品を前に、そもそも「物語を欲しているのは誰だろう?」「そのような物語を欲しているのは私たち「出来事」の外部にいる者たちで」はないか。そこには「他者の存在の否定」がありはしないか。著者の考察と問いかけは、「記憶」を共有する作業がいかに困難なものであるかを突きつけてくる。
個人の体験と記憶をいかに汲み取るべきなのか?本書における著者の悩みには、スッキリした回答は出てこないが、そのこともこの問題の困難さを示すものであるといえる。歴史を考えるうえでも、本書の問題提起を受け止め、悩んでみたい。
PTSDやトラウマ、フラッシュバックにさいなまれる人々にとって、「記憶」とは領有する対象ではない。「記憶」が人を領有するのである。暴力的な出来事を経験した人々にとって、そのような「記憶」を言語化することなど果たして可能なのか?
また、著者はバルザックらの小説や「プライベート・ライアン」などの映画を批評しつつ、第三者による、小説や映画を通してなされる「記憶」の共有の試みにも、ナショナルな物語に取り込まれる傾向や、「記憶を積極的に抑圧する装置」に転化する危うさが孕まれているのではないかと問題を提起する。犠牲に「物語」として意味づけがなされるそのような作品を前に、そもそも「物語を欲しているのは誰だろう?」「そのような物語を欲しているのは私たち「出来事」の外部にいる者たちで」はないか。そこには「他者の存在の否定」がありはしないか。著者の考察と問いかけは、「記憶」を共有する作業がいかに困難なものであるかを突きつけてくる。
個人の体験と記憶をいかに汲み取るべきなのか?本書における著者の悩みには、スッキリした回答は出てこないが、そのこともこの問題の困難さを示すものであるといえる。歴史を考えるうえでも、本書の問題提起を受け止め、悩んでみたい。
2003年11月23日に日本でレビュー済み
「暴力的な出来事を語ることは可能か」という書き出しで始まる本書の問題意識は、ホロコーストのような出来事と、その出来事を語ること、の格差をどう埋めるのか、ということで一貫している。ホロコーストを伝承する試みに失敗している「シンドラーのリスト」などを批判しつつ、著者は、悲惨な出来事を「是非とも語らなければならない」と言う。そういう語りの可能性としてナショナルな視点などのあらゆる立場を相対化することー著者の言葉では「難民になること」ーが必要ではないか、と結語する。僕が言うと陳腐になる著者の主張も、本書では輝きと深みをもって語られる。本書が良書である理由は、政治的な主張というよりは、著者の文学作品並の的確な言葉使いと、問題意識に対する深い苦悩が現れているところーそれゆえ読者の価値判断を再考させるーだと思う。著者の言葉は、僕の頭のなかにこれかも残存してゆくだろう。
2005年8月30日に日本でレビュー済み
学術書か、と問われれば答えは否だろうが、かといって知的刺激がないわけではない。著者は、暴力的な記憶と物語の可能性の問題に、非常に切実な解決への欲求を持っている。だが、問題はその欲求の倫理だ。結局著者は最後で、「呼びかけに対する応答」を解決策、もしくはこれからの希望として挙げているのだが、その応答を「語りたい」「語らせたい」という欲望と区別することができるのだろうか? 本書を読みながら野田秀樹の演劇「Right Eye」を思い出した。戦争カメラマンも、原爆に興味を持つ人も、ワイドショーのレポーターも、同じ「覗きたい」という欲望を持っているのではないか? と疑問を投げかける作品だが(非難しているわけではない)、この『記憶/物語』にはその疑問が欠如しているように感じた。しかし、このように考えることができるのも、著者の考えに感化されたがゆえ。著者に教えて貰うのではなく、一緒になって議論を進めながら読む本なのかもしれない。