出版社があの青林堂、さらには「テロリスト」という言葉が入っていたり、著者近影が大きく表紙だったりとなかなか手に取りにくいハードルがあるものの、一度読んでみるとわかりやすい左翼運動史(新左翼の離合集散と敵対関係、それに対する共産党の立ち位置(75年以降のそれらの動向))、さらには現在の日本の思想的状況や政治的空白状況への提言と、近現代史のこの50年の良い歴史書であり、従来の歴史教科書では無視されてきた部分を概説する極めて有用な「教科書」であると言える。もちろんこれは著者の史観であり、それに対する批判や検証は必要ではあるものの、語られることの少ない現代史の重要な一部分に対して網羅的、概説的にこのような説得力のある一つの史観を提示し得た、という意味ではまず手にとって読むべき本であると言える。政治活動家、運動家としての著者だからこそ体得してきた重要な知見や歴史認識をアカデミズムの俎上に載せるためのたたき台として、特に日本の現代政治史を研究する研究者たちにこそ読んでもらいたいと思う。『今起きているのは「右傾化」ではなく、実は「左傾化」である。』という著者の主張もこの本を読み終えるときには単なる詭弁ではなくかなり説得力を持った主張として受け止めざるを得なくなる。
個人的には、華青闘告発から東アジア反日武装戦線を通して「加害者としての自己」の認識がPC(political correctness)的な左翼運動を生み出してきたという著者の歴史認識については深く首肯しうるものの、そこからどのような方向への活動が必要となるかについて、改めて非常に難しい選択を迫られているということを考えさせられた。PCを推し進めることは表現活動や政治活動の画一化を進め、まさに「コントロールされた政治活動」を生み出してしまうし、「表現の不適切さ」を排除することによって、新たな方向性の運動自体が芽を摘まれていくというのは本当に大きな問題である。しかし一方で、このように「差別」に対して「反差別」の声がすぐに大きくなるこの社会を「風通しが良くなっている」と現段階で感じている被抑圧者は必ずいるはずで、それはたしかに事実である。しかし、そのような社会の行き着く先はみながあまりに「潔癖」になったがゆえにPC的にアラを探すことによって、容易に誰をも攻撃し、引きずり下ろすことのできる社会になってしまっている(それは不倫報道による攻撃や猪瀬都知事に対する反応を見ても明らかである)、というこの恐ろしい状況は長期的に見て、やはり大きな問題であるが、しかしそれに反対することは「差別に反対するのか!」と攻撃をされることになる。著者が言うように「PCは正しいからこそ、反対しにくい」という問題の根深さについては、改めて考え続けていかなければならないと思い知らされた。
著者一流の様々な演説や政治活動に含まれるユーモアも、ただ「面白さ」や「ウケ」を狙っているのではなく、このようなPC的抑圧に対する抵抗であり、言論的自由、引いては政治活動的自由を広げるための運動である、という著者の首尾一貫した意図もよくわかる一冊になっているところもとても素晴らしいと思う。
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