この商品をお持ちですか?
マーケットプレイスに出品する

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません 。詳細はこちら
Kindle Cloud Readerを使い、ブラウザですぐに読むことができます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189) 新書 – 1982/4/20
購入を強化する
- ISBN-104004201896
- ISBN-13978-4004201892
- 出版社岩波書店
- 発売日1982/4/20
- 言語日本語
- 本の長さ212ページ
この商品を見た後に買っているのは?
ページ: 1 / 1 最初に戻るページ: 1 / 1
商品の説明
著者について
かつて、この国に「恋愛」はなかった。「色」や「恋」と区別される“高尚なる感情”を指してLoveの翻訳語がつくられたのは、ほんの一世紀前にすぎない。社会、個人、自然、権利、自由、彼・彼女などの基本語が、幕末―明治期の人びとのどのような知的格闘の中から生まれ、日本人のものの見方をどう導いてきたかを明らかにする。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1982/4/20)
- 発売日 : 1982/4/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 212ページ
- ISBN-10 : 4004201896
- ISBN-13 : 978-4004201892
- Amazon 売れ筋ランキング: - 56,720位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
5つ星のうち4.2
星5つ中の4.2
63 件のグローバル評価
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2019年5月22日に日本でレビュー済み
違反を報告する
Amazonで購入
近代思想史学上に「翻訳」というカテゴリができるきっかけとなった書物の1つだという情報から手に取りました。新書としてこれを超えるものにはなかなか出会えないと思います。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2006年4月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
社会・個人・近代・美・恋愛・存在・自然・権利・自由・彼/彼女などの、西洋の概念を造語や従来の言葉を用いて翻訳しようとした明治人の苦悩が描かれている。この本が素晴らしいのは、先人の並々ならぬの努力が伝わってくることと、著者自身が膨大な資料にあたり実例を出しつつも断定を避け、謙虚にも「と私は考える」という姿勢を崩さないことだ。尊敬すべき研究者だと感じた。
「まえがき」において著者は次のように述べる。「日本の学問・思想の基本用語が、私たちの日常語と切り離されているというのは、不幸なことであった。・・・他面から見れば、翻訳語が日常語と切り離されているおかげで、近代以後、西洋文明の学問・思想などを、とにもかくにも急速に受け入れることができたのである」このような指摘を初めて目にしたが、まったく的確な指摘だと思う。
しかし何といっても面白かったのは「カセット効果」と著者が名づけているものである。「四角ばった文字」は、長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字には、よくは分からないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側で思い込むという効果である。中でも1890年に雑誌に掲載された「恋愛」の実例をあげ、「英雄を作り豪傑を作る恋愛よ。家を結び国家を固むる恋愛よ」をあげ、「いったこの人は『恋愛』を何のことと思っていたのだろうか」には噴き出した。感銘を受けると同時に楽しめる本書は、読者を魅了してやまない
「まえがき」において著者は次のように述べる。「日本の学問・思想の基本用語が、私たちの日常語と切り離されているというのは、不幸なことであった。・・・他面から見れば、翻訳語が日常語と切り離されているおかげで、近代以後、西洋文明の学問・思想などを、とにもかくにも急速に受け入れることができたのである」このような指摘を初めて目にしたが、まったく的確な指摘だと思う。
しかし何といっても面白かったのは「カセット効果」と著者が名づけているものである。「四角ばった文字」は、長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字には、よくは分からないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側で思い込むという効果である。中でも1890年に雑誌に掲載された「恋愛」の実例をあげ、「英雄を作り豪傑を作る恋愛よ。家を結び国家を固むる恋愛よ」をあげ、「いったこの人は『恋愛』を何のことと思っていたのだろうか」には噴き出した。感銘を受けると同時に楽しめる本書は、読者を魅了してやまない
2011年2月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私たちがある程度抽象的なものごとを考えようとすると、明治期に日本語に翻訳された西欧語に頼らざるを得ない。
たとえば、社会、個人、存在、権利などは、典型的な例である。(ただし、「権利」については、「権」という語に新しい意味が付与された事例の一つである)
舶来の新しい概念を、漢字を用いて新語を作ろうとした当時の知識人の迷いと試行錯誤のエピソードはたいへんに面白い。ただ、この著作でもっとも興味深いのは、著者が「カセット(cassette)効果」と名指す、そうした翻訳語が持つ特徴である。cassetteとは、元来は小さな宝石箱を指していたフランス語で、「中味が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである」。たとえば、"individual"(英語で「個人」を指す)が、「人民各箇」だとか「一身ノ身持」などと訳されたとき、読者の側ではよく意味が分からないのであるが、何だか難しそうだから何か重要な意味があるのだろう、と勝手に受け取ってくれる、というわけである。
こうしたことばは、逆説的ではあるが、意味が曖昧であるか希薄であるほど、濫用され、流行することになる。翻訳語が使われ出したときに、意味の希薄であるままに濫用されたり、あるいは意味の複数性に由る矛盾が生じていたことは、著者が鮮やかに示している。そして、残念ながら、今日のわれわれにとっても未だ、困難で耳が痛い課題として残されている。日本人は、よく意味の分らないままにとにかくことばを翻訳して受容し、長い時間をかけて理解してきたともいえるのであるが。
明治時代の擬古文の引用が多く、慣れていなければやや読みにくいところもあるが、全体としてはかなり平易に「翻訳語成立事情」を説いた秀作。本書が扱っている翻訳語は順に、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」である。こうしたことばに、日本語を使った日常生活にすとんと馴染まないような、若干の居心地の悪さを感じる人、あるいはそうしたことに問題意識を感じてきた人にはぜひ読んでもらいたい。
たとえば、社会、個人、存在、権利などは、典型的な例である。(ただし、「権利」については、「権」という語に新しい意味が付与された事例の一つである)
舶来の新しい概念を、漢字を用いて新語を作ろうとした当時の知識人の迷いと試行錯誤のエピソードはたいへんに面白い。ただ、この著作でもっとも興味深いのは、著者が「カセット(cassette)効果」と名指す、そうした翻訳語が持つ特徴である。cassetteとは、元来は小さな宝石箱を指していたフランス語で、「中味が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである」。たとえば、"individual"(英語で「個人」を指す)が、「人民各箇」だとか「一身ノ身持」などと訳されたとき、読者の側ではよく意味が分からないのであるが、何だか難しそうだから何か重要な意味があるのだろう、と勝手に受け取ってくれる、というわけである。
こうしたことばは、逆説的ではあるが、意味が曖昧であるか希薄であるほど、濫用され、流行することになる。翻訳語が使われ出したときに、意味の希薄であるままに濫用されたり、あるいは意味の複数性に由る矛盾が生じていたことは、著者が鮮やかに示している。そして、残念ながら、今日のわれわれにとっても未だ、困難で耳が痛い課題として残されている。日本人は、よく意味の分らないままにとにかくことばを翻訳して受容し、長い時間をかけて理解してきたともいえるのであるが。
明治時代の擬古文の引用が多く、慣れていなければやや読みにくいところもあるが、全体としてはかなり平易に「翻訳語成立事情」を説いた秀作。本書が扱っている翻訳語は順に、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」である。こうしたことばに、日本語を使った日常生活にすとんと馴染まないような、若干の居心地の悪さを感じる人、あるいはそうしたことに問題意識を感じてきた人にはぜひ読んでもらいたい。
2005年11月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「恋愛」「近代」「権利」など、日本には存在しない概念に、漢字をあてる苦闘が描かれる。僕がとりわけ興味深かったのは「存在」の章。「存在」という語をあてることは決して道理がないわけではない。でも、日常では使われないこうした漢語が頻繁にあてられたことで、抽象的な概念の理解をより難しくしてしまったところがある。著者が指摘するように、啓蒙思想家はラテン語ではなく、あえてネイティブの言語で書いた。それはできるだけ多くの人たちにわかりやすく読んでもらうためである。ところが日本語になおされると、日常語から疎隔された難しいものになってしまった。もはやとりかえしはきかないわけだが、翻訳者はできるだけ日常語で訳すのが必要だなと思った。
2014年12月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「社会」・「個人」・「近代」・「美」・「恋愛」・「存在」・「自然」・「権利」・「自由」・「彼/彼女」。
本書で取り上げられるこうした言葉が、幕末から明治にかけて西欧に学ぶ学徒によって試行錯誤の末に、今日に至っているということ、そして、その言葉を支えているはずの我々の実在の危うさ。
むしろ、今の我々はこうした言葉の上滑りを所与のものとして、その時代のステージの上で上滑りして転ぶことがないように、その事ばかり念ずる余りに、上滑りの上で上滑りしないための芸事の上達だけを追い求めているのかもしれない。
しかし、昨今の中韓の動きを見るにつけて、ここでも描かれている西洋受容のあり方が、良しにつけても悪につけても、大きな分岐点を作ってしまったのかもしれない。
言葉の持つ力とその影響力の怖さを理解するためにも、20前後の若い人に一度は読んでもらいたい本だと思います。
本書で取り上げられるこうした言葉が、幕末から明治にかけて西欧に学ぶ学徒によって試行錯誤の末に、今日に至っているということ、そして、その言葉を支えているはずの我々の実在の危うさ。
むしろ、今の我々はこうした言葉の上滑りを所与のものとして、その時代のステージの上で上滑りして転ぶことがないように、その事ばかり念ずる余りに、上滑りの上で上滑りしないための芸事の上達だけを追い求めているのかもしれない。
しかし、昨今の中韓の動きを見るにつけて、ここでも描かれている西洋受容のあり方が、良しにつけても悪につけても、大きな分岐点を作ってしまったのかもしれない。
言葉の持つ力とその影響力の怖さを理解するためにも、20前後の若い人に一度は読んでもらいたい本だと思います。
2016年6月29日に日本でレビュー済み
最初の興味は、明治の文明開化の時代に経済という翻訳語が日本で作られ、
それが明治期に日本に留学していた中国人によって母国(中国)にもたらされた。
(経済という用語は元々中国古典の経世済民という用語が由来なので結果的に逆輸入。)
という逸話がおもしろいと思い、その他の翻訳語にはどようようなエピソードが
あるのだろうという単純なものであった。
しかし、本書を読み終えてみると、翻訳語とは、そもそもが翻訳困難な言葉(概念)を
現実的な必要性からわかった気にさせる仕掛けであることがわかり、
当初いだいていた野次馬根性的な興味は失せて飛んでしまった。
かくも重い気持ちになったのは、我々は翻訳はできるのが当たり前との前提で英語などの
外国語を義務教育でも学んできたにも関わらず、それができない場合のあることが示されているからだ。
ではなぜ翻訳不可能なのか? それは文化が違うと、西洋において、ある言葉で表されている概念が
日本にはない場合があるからだ。そんなバカなと思う方は本書を読んでいただきたい。
たとえば、社会、個人、自由、恋愛などで表される概念は明治以前には日本にはなかったのだ。
だから、大変なのは、たとえば中国において民主化デモがあったなどのニュースは、
そもそも中国四千年の歴史において、かつて自由や民主のあった時代はあったのか?
ということになってしまうからだ。これを別の言い方ですると、四千年間の永きに渡り
自由や民主などの概念がなくても民衆は生き続けててきたのだから、そんなもの必要なの?
とい言うことだ。
中国などを引き合いに出すべくもなく、我が日本においても明治時代より前には
自由や民主などの概念はなかったのだ。
だから、現在においても日本において自由や民主ということが人間”社会”の最重要な価値であるとは
必ずしも考えられていないのだろう。それがために自由や民主が奪われても、
”それが直ちには健康に影響しない”という聞き飽きたフレーズと同じになってしまうのだ。
さらに、自由と民主が最重要であるのかないのかは、エマニュアエル・トッドが説明している
「家族の価値観が国家の政治体制を決定する」という仮説に結びつく。
言うまでもなく自由と民主が最重要な価値であると考えている民族はアングロサクソンだ。
かつてのソビエト連邦や中国の民衆は自由や民主は最重要な価値とは考えておらず、
それらよりも平等が最重要と考えている民族であるがために、共産主義の政治体制になっている
というのがトッドの説だ。
となると、自由や民主が最重要とは考えない日本およびアジアでは、自由や民主などの翻訳語は
永久に翻訳語のままであり続けるかもしれないのだ。かくも重大な命題に愕然とするしかない。
それが明治期に日本に留学していた中国人によって母国(中国)にもたらされた。
(経済という用語は元々中国古典の経世済民という用語が由来なので結果的に逆輸入。)
という逸話がおもしろいと思い、その他の翻訳語にはどようようなエピソードが
あるのだろうという単純なものであった。
しかし、本書を読み終えてみると、翻訳語とは、そもそもが翻訳困難な言葉(概念)を
現実的な必要性からわかった気にさせる仕掛けであることがわかり、
当初いだいていた野次馬根性的な興味は失せて飛んでしまった。
かくも重い気持ちになったのは、我々は翻訳はできるのが当たり前との前提で英語などの
外国語を義務教育でも学んできたにも関わらず、それができない場合のあることが示されているからだ。
ではなぜ翻訳不可能なのか? それは文化が違うと、西洋において、ある言葉で表されている概念が
日本にはない場合があるからだ。そんなバカなと思う方は本書を読んでいただきたい。
たとえば、社会、個人、自由、恋愛などで表される概念は明治以前には日本にはなかったのだ。
だから、大変なのは、たとえば中国において民主化デモがあったなどのニュースは、
そもそも中国四千年の歴史において、かつて自由や民主のあった時代はあったのか?
ということになってしまうからだ。これを別の言い方ですると、四千年間の永きに渡り
自由や民主などの概念がなくても民衆は生き続けててきたのだから、そんなもの必要なの?
とい言うことだ。
中国などを引き合いに出すべくもなく、我が日本においても明治時代より前には
自由や民主などの概念はなかったのだ。
だから、現在においても日本において自由や民主ということが人間”社会”の最重要な価値であるとは
必ずしも考えられていないのだろう。それがために自由や民主が奪われても、
”それが直ちには健康に影響しない”という聞き飽きたフレーズと同じになってしまうのだ。
さらに、自由と民主が最重要であるのかないのかは、エマニュアエル・トッドが説明している
「家族の価値観が国家の政治体制を決定する」という仮説に結びつく。
言うまでもなく自由と民主が最重要な価値であると考えている民族はアングロサクソンだ。
かつてのソビエト連邦や中国の民衆は自由や民主は最重要な価値とは考えておらず、
それらよりも平等が最重要と考えている民族であるがために、共産主義の政治体制になっている
というのがトッドの説だ。
となると、自由や民主が最重要とは考えない日本およびアジアでは、自由や民主などの翻訳語は
永久に翻訳語のままであり続けるかもしれないのだ。かくも重大な命題に愕然とするしかない。