・『続日本紀』は、わが国の正史「六国史」の第2番目の歴史書である。時代でいえば、第1番目の『日本書紀』が神代から7世紀末の持統天皇までを対象とするのに対し、『続日本紀』は、697年8月から791年の歳末までの94年余、すなわち、天平文化が花開いた奈良時代をほぼカバーし、大宝律令の頒布、遣唐使の派遣、平城京遷都、長屋王の変、藤原広嗣の乱、大仏発願の詔、東大寺大仏の開眼供養、唐僧鑑真の来日、恵美押勝の乱等々、著名な歴史的事件の記事が目白押しとなっている。本書の校注者の一人・青木和夫氏は、その価値について、「『続日本紀』こそ、万葉歌群の背景、律令の実施状況、そして古文書一通一通の持つ意味を明らかにしてくれる、奈良時代についての基本的な資料である。」と述べている。
・本シリーズは、『続日本紀』原本全40巻を5冊に分載したもので、「索引年表」を加えて、全6冊となる。底本は、蓬左文庫本(名古屋市博物館蓬左文庫所蔵)である。本文の体裁は、いずれも見開きの右ページに原文(漢文)、左ページにその訓み下し文が掲げられ、各ページの上段に小見出しが、下段に脚注が、各巻末に補注が付される。本シリーズには、現代語訳が付されていないが、訓み下し文の漢字にはふりがなが付され(古点本が存在しないため、奈良時代・平安時代初期の言語に近づけた訓読という。)、注記、補注や解説が豊富であるため、本文を理解する上での不便さはあまり感じられない。
・『続日本紀』は、その抑えた筆致が、「簡潔」「淡々としている」といわれ、叙位・任官の官僚人事、天変地異などの事実の列挙が続いていて、確かに素っ気ないが、権力者に肩入れをせず、客観冷静な正史を後代に伝えようとする編纂者の矜持が行間から伝わってくる。『日本後紀』の記事によって、編纂者は、右大臣・藤原継縄、図書頭兼皇太子学士・菅野眞道、大判事兼大外記・秋篠安人らと判明しているが、本書の解説は、菅野眞道が編纂の中心となったとみている。
・先ごろ、令和への改元で、大伴旅人の「梅花の宴」が話題になった。「令和」の出典は、『万葉集』巻第五の「梅花の宴序」の、「于時、初春令月、気淑風和」(時は初春のよい月で、気は清く、風は和らぐ)であった。この梅花の宴は、天平2年(730年)正月13日、太陽暦で、梅の開花には少し早い2月8日、大宰帥・旅人の大宰府にあった邸宅で開催されたもので、当然のことながら、『続日本紀』は、一官僚が催した宴会にはなにも触れていない。
・『万葉集』の編纂者は、旅人の子の大伴家持とする説が有力である。『万葉集』の和歌に付された「左注」に着目すると、個人歌集の善本を探索し、厳密な校訂に徹しようとする編纂者の意気込みが窺えるが、その真摯な態度から、壮年の家持の繊細で学究的な面影が垣間見える気がする。その家持に関する『続日本紀』の記事を「索引年表」で辿っていくと、天平17年(745年)正月の従五位下の叙位で初出し、以下、それぞれ1行足らずの簡単なものであるが、中央官僚としての叙位・任官の記事が簡潔に記述されている。
・最後の記事は、延暦4年(785年)8月28日、「庚寅、中納言従三位大伴宿禰家持死にぬ。祖父は大納言贈従二位安麿、父は大納言従二位旅人なり。」と、家持の逝去を伝えており、続いて、略伝が付される。死亡時のキャリアは「陸奥按察使鎮守将軍」であった。が、突如として、造長岡宮使であった藤原種継の暗殺への関与と除名処分(官位剥奪)が次のとおり記述される(わかりやすいよう、講談社学術文庫版『続日本紀』の宇治谷孟訳も引用する)。
・「死にて後廿余日、その屍(かばね)未だ葬られぬに、大伴継人・竹良ら、種継を殺し、事(こと)発覚(あらは)れて獄に下る。これを案験(かむが)ふるに、事(こと)家持らに連(つらな)れり。是に由りて、追ひて除名す。その息(こ)永主ら、並に流(る)に処せらる。」(『続日本紀 五』p347)
・(宇治谷訳: 死後二十余日、家持の屍体がまだ埋葬されないうちに、大伴継人(つぐひと)・大伴竹良(つくら)らが藤原種継を殺害、事が発覚して投獄されるという事件が起こった。これをとり調べると、事は家持らに及んでいた。そこで追って除名処分とし、息子の永主(ながぬし)らはいずれも流罪に処せられた。)
・「〇乙卯、中納言正三位兼式部卿藤原種継、賊に射られて薨(こう)しぬ。〇丙辰、車駕、平城より至りたまふ。大伴継人、同じく竹良併せて党与数十人を捕獲(とら)へて推鞫(すいきく)するに、並に皆承伏す。法に依りて推断して、或は斬(ざむ)し或は流(る)す。」(同)
・(宇治谷訳: 九月二十三日 中納言・正三位で式部卿兼任の藤原種継が、賊に射られて薨じた。/九月二十四日 天皇は平城京より帰った。/大伴継人・大伴竹良とその徒党の数十人を捕らえて、これを取り調べたところ、そろってみな罪を認めたので、法によって判決し、斬首あるいは配流とした。)
・引用文に登場する大伴継人は、家持と同じ大伴一族の人らしいが、その親族関係はわからない。種継暗殺事件の9年前の宝亀8年(777年)、遣唐使の一員として、唐の長安に朝貢し、その帰途、嵐により遭難し、苦難の末、宝亀9年(778年)11月、肥後国天草郡に漂着した人であり、その際の上奏文は、遣唐使の行程と船の構造を推定するための極めて貴重な文書であると評価されている。
・この種継暗殺事件に関連し、折口信夫は、生前の大伴家持が「大伴集」とも呼ぶべき手記(私歌集)をまとめており、『万葉集』の成立のきっかけが、この事件に伴う「大伴集」の官庫への没収であったと推論している(『折口信夫全集6』所収「万葉人の生活」)。
・「かの家持の手記が、大伴家を出たのは、此(この)間に在るので、其(それ)も恐らく、官庫に没収せられたものであらう、と私は考へてゐる。」
・「あれだけの事件になつた訣(わけ)は、大和朝廷時代に屡(しばしば)繰り返された旧都回復熱が、奈良の故家(ふるへ)を思ふ人々の心を煽り立てたからである。」
・「万葉集の主要な部分が、大歌所の台本から出て居る、と言ふ私の考へを裏書きする少しの証拠が、万葉集の仮名書きの方法に見えて居る。/神楽浪・楽浪と書いてさゝなみと訓ますのは、神楽を擬声してさゝとしたのであるとするが、此は、音楽の知識あつて初めて、納得の出来る神楽の上の特色の約束であらう。」
・「私は、大伴家を出た大伴集は、采風熱の盛んであつた大歌所にまづ這入つたことゝ思ふ。」
・「大歌所に這入つた家持手記の「大伴集」は此処に大歌の台帳と合体して、万葉集を組み立てることになるまはり合せとなつたのである。」
・いかにも折口信夫らしい大胆な推論であるが、客観的な証拠に乏しく、おそらく、古代史家はあまり信用しないであろう。しかし、大伴家が逆臣の汚名を背負った後も、同家の私的歌集の色合いの強い『万葉集』が時代の風雪に耐えて伝存した歴史のイロニーをうまく整合させる解釈として、この折口説にも相応の信憑性があるように思う。種継暗殺事件のその後の顛末については、『続日本紀 五』の補注で、「家持の除名は、のち大同元年三月、桓武の没前に許され、本位の従三位に復された。」とある。同様に、大伴継人も、死後に名誉回復するが、補注で「伴善男の祖父」と説明されている。伴善男といえば、あの『伴大納言絵詞』の伴大納言であり、応天門の変の主役となる人である。
・種継暗殺事件は、名門豪族・大伴氏の家運衰退を決定づけた歴史的事件であり、かつ、折口説によれば『万葉集』が成立するきっかけとなった事件でもあった。だが、『続日本紀』の編纂者たちは、長岡京遷都から平安京遷都へと時代を転回させたエピソードの一つとして、先の引用文のとおり、事件の首謀者たちを特に非難することもなく、いつもの淡々とした簡潔な筆致で記述するのみであった。
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