神聖喜劇 第一巻 (幻冬舎単行本) Kindle版
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言語日本語
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出版社幻冬舎
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発売日2014/7/10
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ファイルサイズ166963 KB
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登録情報
- ASIN : B00LMVP5P6
- 出版社 : 幻冬舎; 第一巻版 (2014/7/10)
- 発売日 : 2014/7/10
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 166963 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効になっていません。
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- 本の長さ : 277ページ
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Amazon 売れ筋ランキング:
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- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
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16 件のグローバル評価
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2006年5月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大西巨人の超傑作『神聖喜劇』を渾身の力業で漫画化した作品です。原作に感動し、大笑いし、まじめに考えた人なら、きっとこの漫画版も好きになるのではないかと思わされます。少なくとも私は、忙しいのに読み始めたら止まらず、台詞だらけの2冊500ページあまりをイッキ読みしてしまいました。
基本的なストーリーは原作に忠実です。その内容や思想性についてまとめるのは私の手に余りますが、透徹した戦争批判・差別批判であるとともに、そのようなスローガンに収まりきらない「人間」のあらゆる面、可能性を網羅する観察記録のような趣もあります。
印象深かった点を一つ。普通、小説がマンガやアニメになると、どうしても「キャラのイメージが違う〜」と思ってしまいますが、そしてこの作品でも確かに違ってはいるのですが、私は最初の方で主要登場人物が初めて描かれたとき、「ああ、あの冬木ってこんな顔してたのか」等と感じて、不覚にも目頭が熱くなってしまいました。木訥な絵柄ですが、底知れないリアリティに引きずり込まれてしまったのです。
基本的なストーリーは原作に忠実です。その内容や思想性についてまとめるのは私の手に余りますが、透徹した戦争批判・差別批判であるとともに、そのようなスローガンに収まりきらない「人間」のあらゆる面、可能性を網羅する観察記録のような趣もあります。
印象深かった点を一つ。普通、小説がマンガやアニメになると、どうしても「キャラのイメージが違う〜」と思ってしまいますが、そしてこの作品でも確かに違ってはいるのですが、私は最初の方で主要登場人物が初めて描かれたとき、「ああ、あの冬木ってこんな顔してたのか」等と感じて、不覚にも目頭が熱くなってしまいました。木訥な絵柄ですが、底知れないリアリティに引きずり込まれてしまったのです。
2012年3月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
原作「
神聖喜劇 (光文社文庫)
」を損なうことなく、漫画で再現する。この困難な道に乗り入れた作者2人の勇気と根性に感動を禁じ得ない。原作を映像化すること。舞台化すること。絵で表現すること。いずれも困難な挑戦だと思うが、挑みたくなる気持ちは理解できる。
私は、原作から先に読んでいるので、絵画で再現されたいろいろな場面、登場人物の表情などが、私自身の頭の中で再現していた映像と、異なる部分は当然にある。
大前田軍曹は、これでよいのか。神山上等兵は、これでよいのか。冬木照美二等兵は、これでよいのか。いちいち確かめながら、ページを繰る。
作者の心の中から湧き出てきた絵画と、私自身が描いていた映像が、不一致だったとしても、この作品に違和感を感じることはない。
原作に最大限の感動を覚え、原作をいかに伝えるか。その精神のぎりぎりのところまで追及している点において、原作を描こうとする、真剣必死の心もちに於いて、この漫画作品の作者と、私との間に、隔たりはほとんどない。
原作が持つ、比類ない日々の世界。軍隊という特殊閉鎖な環境に置かれた、主人公の日常。同じ空気を、描いた作者も、読んで頭の中に再現していた私も、その気持ちにおいて、まったく共感できる。
素晴らしい原作。その世界を違う形で伝えたいと描いた、入魂の漫画作品。どちらも楽しむことができる。
原作を読み終わるのが惜しい。このために、購読した本書だが、この世界もまた楽しい。「神聖喜劇」を手にした数か月。とても幸せな時間を、送っている。
私は、原作から先に読んでいるので、絵画で再現されたいろいろな場面、登場人物の表情などが、私自身の頭の中で再現していた映像と、異なる部分は当然にある。
大前田軍曹は、これでよいのか。神山上等兵は、これでよいのか。冬木照美二等兵は、これでよいのか。いちいち確かめながら、ページを繰る。
作者の心の中から湧き出てきた絵画と、私自身が描いていた映像が、不一致だったとしても、この作品に違和感を感じることはない。
原作に最大限の感動を覚え、原作をいかに伝えるか。その精神のぎりぎりのところまで追及している点において、原作を描こうとする、真剣必死の心もちに於いて、この漫画作品の作者と、私との間に、隔たりはほとんどない。
原作が持つ、比類ない日々の世界。軍隊という特殊閉鎖な環境に置かれた、主人公の日常。同じ空気を、描いた作者も、読んで頭の中に再現していた私も、その気持ちにおいて、まったく共感できる。
素晴らしい原作。その世界を違う形で伝えたいと描いた、入魂の漫画作品。どちらも楽しむことができる。
原作を読み終わるのが惜しい。このために、購読した本書だが、この世界もまた楽しい。「神聖喜劇」を手にした数か月。とても幸せな時間を、送っている。
2006年5月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自己の生きている状況を「喜劇」として、観るというのはかなり力がいる。ましてや、「神聖なる喜劇」として 観ると いう立場を維持し続ける意志力。そう 観ることで 冷ややかに 自己の立場を 貫こうとしている。舞台は 敗戦間近 対馬。そこの日本帝国陸軍。
大西巨人という作家・・・大西巨人は 『神聖喜劇』を完成させた。奇怪なる 文体。その緻密な 世界は 彼の文体でないと 描かれないことに納得する。妥協しない 大西巨人。 私たちは彼の世界に屈して彼の世界に入り込まざるを得ない。そこは かって私たちが知ることができない未知の世界。全く 異なる 世界を 私たちは 見ることができる。大西巨人の『神聖喜劇』は そのようなもの。天才と言うべきか 奇才と言うべきか 私には わからず。
かって 私は『神聖喜劇』を 読み通す努力をした。彼の世界に入る儀式は大変であった。
今、大西巨人の『神聖喜劇』は いつ映画化してもいいように 脚本が 別の人によってきあがっている。
そして、粘り強く 漫画化した創造者がいたとは。おどろきと感動。新しい体験をしてみましょう。早く。
大西巨人という作家・・・大西巨人は 『神聖喜劇』を完成させた。奇怪なる 文体。その緻密な 世界は 彼の文体でないと 描かれないことに納得する。妥協しない 大西巨人。 私たちは彼の世界に屈して彼の世界に入り込まざるを得ない。そこは かって私たちが知ることができない未知の世界。全く 異なる 世界を 私たちは 見ることができる。大西巨人の『神聖喜劇』は そのようなもの。天才と言うべきか 奇才と言うべきか 私には わからず。
かって 私は『神聖喜劇』を 読み通す努力をした。彼の世界に入る儀式は大変であった。
今、大西巨人の『神聖喜劇』は いつ映画化してもいいように 脚本が 別の人によってきあがっている。
そして、粘り強く 漫画化した創造者がいたとは。おどろきと感動。新しい体験をしてみましょう。早く。
2013年1月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
すごい。これは一体、漫画なのか。漫画の臨界点をほとんど突破しようとしている。
この物語は「この世は真剣に生きるに値しない」というニヒリズムを心に抱いた主人公、東堂太郎が、対馬の重砲兵連隊に入営するところから幕を開ける。
しかし、少なくとも漫画版では、そのニヒリズムは、物語の通奏低音とはなっていない。
むしろ主人公の「法的思考」による戦いが、はじめはユーモラスに、やがてはヒロイックなものとして描かれ、それが物語の中心をなしている。
物語中、「軍法会議」なるものが登場する。
軍法会議というのは戦前における一種の司法機関(すなわち裁判所)であり、判例も残っている。
ただし、それは軍隊内の裁判機関である。
(日本国憲法は「特別裁判所」の設置を禁じているが(76条2項)、これは軍法会議を狙い撃ちにした規定だ。)
主人公が法的思考を戦わせる舞台は、この軍法会議においてである。
この物語はいわゆる「法廷物」ではない。
しかし、「法的思考」というものをここまで物語化し得たという意味では、凡百の「法廷物」を抑えて稀有の存在だ。
この物語は「この世は真剣に生きるに値しない」というニヒリズムを心に抱いた主人公、東堂太郎が、対馬の重砲兵連隊に入営するところから幕を開ける。
しかし、少なくとも漫画版では、そのニヒリズムは、物語の通奏低音とはなっていない。
むしろ主人公の「法的思考」による戦いが、はじめはユーモラスに、やがてはヒロイックなものとして描かれ、それが物語の中心をなしている。
物語中、「軍法会議」なるものが登場する。
軍法会議というのは戦前における一種の司法機関(すなわち裁判所)であり、判例も残っている。
ただし、それは軍隊内の裁判機関である。
(日本国憲法は「特別裁判所」の設置を禁じているが(76条2項)、これは軍法会議を狙い撃ちにした規定だ。)
主人公が法的思考を戦わせる舞台は、この軍法会議においてである。
この物語はいわゆる「法廷物」ではない。
しかし、「法的思考」というものをここまで物語化し得たという意味では、凡百の「法廷物」を抑えて稀有の存在だ。
VINEメンバー
Amazonで購入
なんの予備情報もなく、「とにかくすごいらしいよ」というだけの噂を頼りに、一巻を読みました。
読み終わった後も、自分が読んだのが「何」であるのか、よく分かりません。
とにかくものすごい言葉の量でした。
作中の主人公、東堂はあらゆる書物を読破し、その一言一句を全て頭にいれいる、優れた記憶力の持ち主です。「世界は真剣に生きるに値しない」と考えた彼は、徴兵検査において同郷のよしみで見逃してくれようとした医師の情けを振り切り、兵士に志願し、軍隊に入隊します。
そこで起きる様々な理不尽に、彼は言葉のみで応戦してゆきます。怒濤のようにあふれる論理に、全ての人は閉口します。
東堂は、決して声を荒げたりはしません。
軍での数々の理不尽な規律も、よくある戦争マンガのように悲劇的には描かれず、淡々と、つい読み流してしまうような調子で描かれます。
ですから、ストーリーは、全体を通して一種の静けさが漂います。
絵柄はトーンを一切使わず、画面のすみずみまで黒々とペンで覆われて、「10年かけて漫画化した」というこの情熱と、ドラマティックな描き方の一切が押さえられたストーリーは、いっそ対称的で、それがこのマンガの「凄み」を増しています。
原作者、大西巨人は、この小説を25年かけて完成させたそうです。
私は戦争体験がないし、戦争の悲劇も悲惨さも、本当の意味では理解することはできません。ただ、大西巨人と、漫画化したのぶえのぶひさの、あふれんばかりの「鬱屈さ」は、理解できるような気がします。
このマンガは、戦争という、誰が描いたのかしれない、とてつもなく大きく理不尽な物語に巻き込まれた人物の、「あれは一体なんだったのか」という理不尽を徹底して問うているものだと思います。
そのために、膨大な書籍を読破し、引用し、言葉の限りをつくして、主人公はその理不尽さに対峙するのです。これは作者の大西が戦中言いたかったことのすべてを、「これは一体何であるのか」という世間への問いを、主人公に代弁させているのではと思います。
しかしそれは、どんなに言葉を尽くしても語り尽くせるものではなく、それがいったい「何」であるかなど、断定することはできません。多くの死者と悲劇を産み出したものが「何」であるかを説明などできないのです。しかしその「説明することのできなさ」、そして「何」であるのかを誰も知らぬままにただ抑圧されてきた者たちの鬱屈、そういったものが描かれているのではないでしょうか。
私が戦争体験がないのと同様、漫画化したのぶえのぶひさにも、戦争体験はありません。それでいて、軍生活の細部までもを絵で表現するという「無謀」に挑戦するのは、抑圧された者の語り得ぬ言葉の鬱屈さを彼も抱えていて、語りたい、言葉が欲しいという、ただ一つの情熱ではないかと思います。
戦争はたくさんの人から言葉を奪いました。そして今も、たくさんの人が自分のリアリティについて、語る術を持たず、沈黙を強いられています。
そういった人々が何かを語らんとしたとき、それはダムの決壊のような勢いを持って、言葉の放流となって私たちの前に現れます。
私たちはそれにとまどい、それが「何」であるのかを理解できません。言葉はあまりに複雑で、あまりに多すぎるからです。
そして、その言葉の放流を前にしたとき、私たちは「閉口」するのです。主人公の東堂に論破される人々のように。
そして、語っている本人ですら、もはやそれが「何」であるのかなど、分かってはいないのかもしれません。ただ、その語り得ぬ「何」かを、その「説明することのできなさ」を、他者に言葉を尽くして「説明している」のだと思います。
オマエはこれを知っているのか、知っているなら語ってみよ、説明してみよ、と迫るのです。そして誰も説明できずに、言葉を飲み込むしかないのです。
これだけの言葉を尽くしても、決して説明しえない理不尽があり、これだけの言葉を用いて25年かけても昇華されない痛みと悲しみと怒りがある。
極力まで押さえた表現からにじみ出てくるもののすごさに、私はただただ、言葉を失って、圧倒されたのでした。
読み終わった後も、自分が読んだのが「何」であるのか、よく分かりません。
とにかくものすごい言葉の量でした。
作中の主人公、東堂はあらゆる書物を読破し、その一言一句を全て頭にいれいる、優れた記憶力の持ち主です。「世界は真剣に生きるに値しない」と考えた彼は、徴兵検査において同郷のよしみで見逃してくれようとした医師の情けを振り切り、兵士に志願し、軍隊に入隊します。
そこで起きる様々な理不尽に、彼は言葉のみで応戦してゆきます。怒濤のようにあふれる論理に、全ての人は閉口します。
東堂は、決して声を荒げたりはしません。
軍での数々の理不尽な規律も、よくある戦争マンガのように悲劇的には描かれず、淡々と、つい読み流してしまうような調子で描かれます。
ですから、ストーリーは、全体を通して一種の静けさが漂います。
絵柄はトーンを一切使わず、画面のすみずみまで黒々とペンで覆われて、「10年かけて漫画化した」というこの情熱と、ドラマティックな描き方の一切が押さえられたストーリーは、いっそ対称的で、それがこのマンガの「凄み」を増しています。
原作者、大西巨人は、この小説を25年かけて完成させたそうです。
私は戦争体験がないし、戦争の悲劇も悲惨さも、本当の意味では理解することはできません。ただ、大西巨人と、漫画化したのぶえのぶひさの、あふれんばかりの「鬱屈さ」は、理解できるような気がします。
このマンガは、戦争という、誰が描いたのかしれない、とてつもなく大きく理不尽な物語に巻き込まれた人物の、「あれは一体なんだったのか」という理不尽を徹底して問うているものだと思います。
そのために、膨大な書籍を読破し、引用し、言葉の限りをつくして、主人公はその理不尽さに対峙するのです。これは作者の大西が戦中言いたかったことのすべてを、「これは一体何であるのか」という世間への問いを、主人公に代弁させているのではと思います。
しかしそれは、どんなに言葉を尽くしても語り尽くせるものではなく、それがいったい「何」であるかなど、断定することはできません。多くの死者と悲劇を産み出したものが「何」であるかを説明などできないのです。しかしその「説明することのできなさ」、そして「何」であるのかを誰も知らぬままにただ抑圧されてきた者たちの鬱屈、そういったものが描かれているのではないでしょうか。
私が戦争体験がないのと同様、漫画化したのぶえのぶひさにも、戦争体験はありません。それでいて、軍生活の細部までもを絵で表現するという「無謀」に挑戦するのは、抑圧された者の語り得ぬ言葉の鬱屈さを彼も抱えていて、語りたい、言葉が欲しいという、ただ一つの情熱ではないかと思います。
戦争はたくさんの人から言葉を奪いました。そして今も、たくさんの人が自分のリアリティについて、語る術を持たず、沈黙を強いられています。
そういった人々が何かを語らんとしたとき、それはダムの決壊のような勢いを持って、言葉の放流となって私たちの前に現れます。
私たちはそれにとまどい、それが「何」であるのかを理解できません。言葉はあまりに複雑で、あまりに多すぎるからです。
そして、その言葉の放流を前にしたとき、私たちは「閉口」するのです。主人公の東堂に論破される人々のように。
そして、語っている本人ですら、もはやそれが「何」であるのかなど、分かってはいないのかもしれません。ただ、その語り得ぬ「何」かを、その「説明することのできなさ」を、他者に言葉を尽くして「説明している」のだと思います。
オマエはこれを知っているのか、知っているなら語ってみよ、説明してみよ、と迫るのです。そして誰も説明できずに、言葉を飲み込むしかないのです。
これだけの言葉を尽くしても、決して説明しえない理不尽があり、これだけの言葉を用いて25年かけても昇華されない痛みと悲しみと怒りがある。
極力まで押さえた表現からにじみ出てくるもののすごさに、私はただただ、言葉を失って、圧倒されたのでした。