抜粋
コラム「末期(まつご)の水」~最後のケアと癒された死~
2004年11月9日、すい臓がんの末期だった実母は、82歳の生涯を静かに自宅で迎えました。最後のひと呼吸は、末期の水を差し上げてから、鳥が羽を休めるように、私の胸に抱かれまま、すべてをゆだねるように安らかに逝きました。
「末期の水」とは、「人の死のうとすると時、口に注ぐ水」(広辞苑)のことです。日本では古くから、人の死を看取る習慣の中で、家族や縁者からこの末期の水の作法が伝統的に続いていました。しかし、近年は、施設や病院死での死が優先され、看取りの主役は家族から医療者に委ねられてしまい、看取りの場面も変化してきました。
実母の末期ケアと見取りの場面を通じて、思うことを述べてみましょう。
母のすい臓がんが発見されたのは、2004年6月です。すい臓の尾に5cmくらいの腫瘍で発見されて、3〜4ヶ月 の命と判断されました。手術、化学療法(抗癌剤)などの治療選択肢もありましたが、 家族内で相談して、積極的な治療をやめたらどうかという提案がされました。この判断には夫である父がもう反対。「おまえたちは母を見殺しにするのか」と言う父の本音。そこで私が「母の気持ちはどうかな」と本人に尋ねると、「手術はいや、できれば家族と過ごしたい」という返事。その意思を最大限に尊重することにしました。それでようやく父も納得しました。一般的には「かわいそうな母の為」という本人を抜きの感情論が支配して、治療方針が決まってしまいます。こういうときこそ、できるだけ本人の意志を確認していくことが大切ですね。
家族が「在宅緩和ケアをしたい」と病院医師に伝え、理解と協力を得て、 村の診療所医師との連携しつつ、病院では積極的な治療はしないで退院することになりました。
その後自宅療養中に、膵癌が胆管などを圧迫して十二指腸までの胆汁がでなくなるという通過障害が出現。(そのままだと肝臓機能が低 下、黄疸症状がでて死期が早まる)。そこで再度入院して、ステントを胆管(総胆管)の一部に挿入したものです。これは一種の手術です。したがって末期であっても、QOLを考えた治療は時には必要です。それで3ヶ月は口から物が食 べれたのです。近代のホスピスケアはないも治療しないことではなく、時には手術もするのです。
死が近くなって少し痛みが強くなり、塩酸モルヒネ(カディアンステック剤一日5mg)を使用されると、うとうとと眠ることも多くなります。経口摂取も一日わずかとなっていきます。しかし、時々覚醒しては家族と語らいの時間を持ちます。孫やひ孫が来るとぱっちりと目を開けて、手を差し伸べます。本当にしずかな時間が過ぎています。父は最期まで母の隣にベッドで寝ていました。日常的な時間の流れの中に母の最後の姿がありました。 栄養補給のための点滴などは一切やらない(末期ではかえって腹水がたまって患者は苦しいから)という方針で、だんだん痩せて枯れていきました。パンパンだった腹部の腹水も、衰弱した体が栄養として吸収したようで、最後はぺちゃんこになりました。
自然死を望む在宅ケアはある意味では介護する家族の負担も大きいのです。しかし、それを支える人間関係の存在が、家族や肉親の絆を強めます。在宅を可能にする条件には本文中でも述べましたが、「本人の在宅ケアの希望意志」「在宅ケアを支える医療体制」「家族の受け入れとケア能力」という少なくともこの3つが揃わないと難しいことです。頻繁に親族が出入りする濃厚な時間や 人間模様は、病院ケアでは味わえない家族的なつながりや信頼関係の再構築を意味します。
枕元に、十三仏画の掛け軸をかけて、ときどき母の好きな仏教音楽の声明を、母の呼吸(一分間に10ー12回)に合わせて、私が唱えました。痛みを訴えないことで、やすからな静かな最期の時間が流れます。
死の前日の夜に次男である私は、30年ぶりに母の枕元で寝ました。「今夜は僕と姉ちゃんが一緒に寝るからね」というと、モグモグとうなずいた母でした。夜中に時おり目を覚ましては母を見ましたが、安らかな寝息でした。安心して翌朝に一旦は寺へもどって仕事をしていました。その夕方「母の呼吸がおかしいよ」という兄嫁の電話で実家へ急行。担当の土川医師もすぐにかけつけてくれました。しかし、医師と看護師は手を出さず、家族の後ろで見守ってくれていました。
すでに、死の前兆である下顎呼吸が始まっていました。そこで私と兄と二人で背後から母を起こして、抱きかかえました。ガーゼに水を含ませ、母の口に入れました。末期の水です。母の口の中へ入っていきました。私は母の耳もとで、話しました。「よくがんばったね。オレたちを一生懸命に育ててくれてありがとうね。いっぱい、いっぱい愛をありがとう。また会おうね」と母の胸を何度も撫でながら伝えました。私の涙が頬を伝わって流れ落ちました。60才を過ぎた兄も大泣きで、その場にいた家族みんなが泣きました。父も「ありがとう」といって、泣きました。やがて、二人の息子(私と兄)の腕に抱かれて、母は静かにしずかに息をひきとりました。孫やひ孫、みんなで看取った母の死、その死の瞬間に兄弟、家族、縁者、医師、看護師、僧侶が立ち合うという場面でした。枕元には、十三仏の仏さまの掛け軸がみんなを見守っていました。日本的な看取りの風景です。
一日たって、良く生き、よく死んだ母のほっこりとした、ほのかな暖かさが、みんなの心に広がっていました。
母の死を看取ることによって、みんなは悲しみだけではなく、心にほんのりとした癒された思いを共有することができたのです。
著者について
飛騨千光寺住職
高桑内科クリニックスピリチュアルケアワーカー
高野山大学、同大学院講師
日本スピリチュアルケアワーカ-協会副会長
日本ホスピス在宅ケア研究会理事