本書は、ぜひ津田敏秀『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(2004年刊、2014年文庫化)と突き合わせて読むことをおすすめする。伊勢田の科学哲学が科学史に反するものであることが明らかになるだろう。
・科学と疑似科学の線引き問題
著者によると、ファインやクワインの自然主義は、科学的信念をあるがまま認めるが、あるべき科学という規範性を欠いた自然主義的態度では、科学と疑似科学の区別に答えることができない。自然主義は「哲学者の職場放棄」(149頁)だ。科学と疑似科学の区別に答えを出すのが著者の考える科学哲学の役割である。科学自体には還元されない哲学の役割がそこにあるとする。
・科学方法論を変化させる社会政策的価値判断の典型としての水俣病訴訟
科学的方法論を考えるとき本書が模範例とするのは、水俣病裁判の経過における科学的方法論の変化である(191~195頁、245~247頁)。
「水俣病の場合、排水以外に原因が考えられないということは多くの人が気づいていたにもかかわらず、原因物質が特定されなかったために排水を止めることができなかった。これを受けて、その後の公害訴訟の中で、原因物質が特定できなくても工場の操業と周辺住民の発病との間の関係が確立できればよいという判決が出され、それが方法論の変化につながったのである」(193頁)。1956年の発生当初には、「科学に基づかない一般的な感覚としては、因果関係は十分明らかにみえたのである」(193頁)が、1959年の有機水銀説の登場から、1968年段階の公害認定判決の過程で、原因物質の特定なしで因果関係を認めるように、いわば“公害学”の科学的方法論(科学的立証基準)が変化した。それにより、公害認定の判決が「科学的根拠」にもとづいて下されることになる。
この科学方法論の歴史的変化を、伊勢田はベイズ主義で合理的に説明する。「政策X:原因が分かるまでチッソ水俣工場に操業停止を命じる」(245頁)。その逆を政策Yとし、いくつか前提を述べた上で「水俣病が発生し続けることの社会的コストが一時的操業停止のコストの10倍程度であるとすれば、もう政策Xの期待効用の方が高くなる」(247頁)。公平な立場での合理的で自由な政策選択の問題ととらえる。
「「水俣病が有機水銀中毒だとは当時まだ科学的に立証されていなかった」というのは、たしかに間違いではないけれども、そういう「立証」の問題と、「確からしさ」の評価は分けて考えることができるし、政策問題を考える上では積極的に分ける必要すらあるだろう」(247頁)。「ある分野で何が科学的な立証と見なされるかはその分野内の暗黙の了解で決まっている面が大きく、(中略)、仮説が肯定されたり否定されたりというのも決してオール・オア・ナッシングの問題ではなく程度の要素が絡んでくる」(同)。
・伊勢田による科学的立証基準についてのベイズ主義
その分野の科学を成功に導くためには何を科学的立証と認めるべきか、さまざまな提案がなされてきた。リサーチプログラム論、機械論的世界観の使用、マートンの科学の四つの規範などなど。その中の一つには統計的検定法も含まれる。ここから、知的な価値判断による科学的立証の基準のチェックリストが得られる。その科学分野にどの基準の組み合わせが適用されるかの選択は、政策的意思決定(そこにベイズの定理をもちいた効用計算が働く)にもとづく。また、このチェックリストは、その分野がどの程度科学的なのか、という指標を提供する。これにより科学と疑似科学の区別が、より科学的な理論とより疑似科学的な理論との程度の差として得られる。これが著者の科学/疑似科学の線引き問題の解決法である。さまざまな科学分野の多様な個別性がありつつも、その科学分野を「成功する科学」として発展させよう、という知的価値判断はベイズ主義にもとづき統一的に考えることができる、というわけである。
・伊勢田・津田「科学の文法」論争(2011/9月-2013/1月)
本書の2003年の出版から8年たち、東日本大震災から半年後の2011年9月。疫学者津田敏秀による著書『医学と仮説』の出版と同時に、津田の担当編集者が伊勢田に献呈したところ、伊勢田は「まだ半分しか呼んでいないが科学哲学関係の記述がひどすぎる」と著者名と書名を名指しでTwitterに投稿する、という事件が起こり(後日伊勢田は言葉足らずだったと中途半端に謝罪するが)、ここに「科学の文法」をめぐる伊勢田・津田論争が勃発し、ネット上で2013年1月まで論争は継続する。
ヒューム解釈、クワイン解釈など様々に論争は及ぶが、疫学や統計の地位についての両者の態度が対照的である。疫学者津田によると、因果関係の根拠には、原因物質やメカニズムが未解明のままの疫学的エビデンスで十分であるだけでなく、それ以外に因果関係の根拠となる科学的エビデンスはない。さらに、津田はヒュームの「原因」の定義を統計学的に確立される因果関係と読み替える。一回きりの個別事象(実在世界に属する)の間の因果性を主張する科学的根拠は、多数の個別事象の観察から得られる統計学的因果関係(言語世界に属する)であり、因果関係の背後のメカニズム(機序)の解明なしに因果関係が成り立つと主張した。このことは因果法則を述べる科学全般に当てはまる。一回きりの個別事象の群から因果法則を導く統計学は、科学の文法である。
伊勢田は疫学的エビデンスが科学的エビデンス扱いされるのは疫学や医学(EBM)など特定の科学分野に限られることであり、科学全般にわたることとは考えない。水俣病訴訟についていえば、疫学的エビデンスにもとづいてチッソが操業停止すべきだったことに異存ないが、伊勢田にとって疫学的エビデンスは科学的立証基準のチェックリストの1項目にすぎず、科学分野ごとに重要性の異なるものに過ぎない。公害分野について疫学的エビデンスが科学的立証基準に繰り込まれたのは日本では1960年代ということになる。
この論争では伊勢田が先制攻撃を仕掛け、津田の本の記述の是非を論じることが主体となり、その中から「統計学が科学の文法である」というテーゼの是非が浮かび上がったが、議論は平行線のまま、おたがいに“こんなに言葉の通じない相手は初めてだ”と感情的に罵り合って終了した。
もしかりに、2003年出版の伊勢田の本書が、伊勢田担当の編集者により『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(2004年)出版直前の津田に献呈されていたら、津田の方が“伊勢田の水俣病訴訟をめぐる科学哲学関係の記述がひどすぎる”と編集者を通じて伊勢田に伝えていたことだろう。津田こそが、水俣病訴訟をめぐる科学史のエキスパートであるからだ。
・形而上学的科学実在論による誤謬
伊勢田によると水俣病について1956年時点で「科学に基づかない一般的な感覚としては、因果関係は十分明らかにみえたのである」(193頁)が、「「水俣病が有機水銀中毒だとは当時まだ科学的に立証されていなかった」というのは、たしかに間違いではない」(247頁)と、有機水銀原因説の登場以前は科学的なエビデンスがなかったかのようだ。また、因果関係を立証するためには有機水銀中毒というメカニズム(機序)の立証が必要であるかのようだ。津田の科学史・科学哲学は、これを「要素還元主義」「メカニズム論」の誤謬という(むしろ形而上学的科学実在論の誤謬といった方が伝わりやすいと思われる)。仮に工場廃液から有機水銀が検出されたりマウスを使った動物実験で有機水銀から水俣病発症の分子生物学的な機序が解明されたからと言って、個別の患者が工場排水からの公害被害者として認定されるかどうかは別の話である。(だから水俣病患者の認定・救済に50年以上かかることになる。日本の司法史、医学史のスキャンダルであるとともに、日本の科学史のスキャンダルでもあると言えよう)。
メカニズムが解明されなければ因果関係が立証されないなら、1854年のロンドンコレラ窩のさいに疫学の父ジョン・スノウがブロードストリートの井戸ポンプを止めたのは科学的根拠に基づかないことになり、1883年のロベルト・コッホによるコレラ菌の発見まで待たねばならないことになる。(伊勢田はベイズ主義にもとづくのならば、遅くとも19世紀半ばには少なくとも疫学・公害分野においては科学実在論ではなく反実在論を選好すべきものとしなければならなず、水俣病解釈の立論が崩れることになる)。
1940年代から奇病として噂されていた水俣病は、1956年に「第一号患者」を公式に発見することになる。じつは「食品衛生法」にもとづく「第一号」であり、食中毒事件として行政は認識しており(津田(2004年)63頁)疫学調査が法的に義務づけられていたはずだが、行政はそれを怠り、食中毒事件として認識していた事実を秘密にした。「他の食中毒事件においても、世間的なレベルでも常識であるはずの、この「病因物質の判明は対策をとる際の必要条件ではない」ということが、水俣病事件ではなぜか「病因物質の判明が対策をとる際の必要条件である」というように実質的に変えられてきたのである」。「そのことが責任逃れに有効であることが分かると今度は、国や熊本県は一般的には病因物質の判明は1959年であるにもかかわらず、どんどん有機水銀説、とりわけ塩化メチル水銀説に不明な点や曖昧な点、あるいは論点があったということにした」(津田(2004年)67-68頁)。
伊勢田の水俣病解釈は歴史と科学史と科学哲学の改ざんである。“公平な立場での合理的で自由な政策選択をするベイジアン”は、イデオロギーの産物である。科学/疑似科学の程度判定方法としては、まずは津田から疫学にもとづくEBMを学ぶことをおすすめする。
追記(2019/3/11)
科学知識社会学の規範的アプローチと記述的アプローチを「広い反照的均衡」という緩やかな基礎づけ主義(整合説の一つのバージョン)により統合しようとする伊勢田(『認識論を社会化する』2004年)は、けっきょくのところ、科学や科学の制度の変化の背後にある闘争を、澄ました顔のベイジアンの座るカーペットの下に隠ぺいしてしまったのである。本当の闘いは形而上学者の敷いたカーペットの下にある。たとえば現在、日本では原発や放射線被曝をめぐる科学論争が進行中であるが、形而上学ムラの科学哲学者はその論争において有効な役割を果たしていないどころか、反動的なふるまいをしている。日本の「社会化された認識論」における伊勢田の同伴者である戸田山和久の『「科学的思考」のレッスン』の反動性について、評者の書評をupしたので参照されたい。(放射線被曝をめぐる科学・哲学論争の現状については、宗教学者の島薗進の書を参照されたい)。
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