「近代の成立は、『異形の人』の発見をともなった。
江戸時代にあっては、なんの不思議もなかった人、
(中略)そういう人たちが、明治維新後もしばらくすると、とてもめずらしく思えた。
そして、かれらについての記事が新聞に載るようになり、多くの本が書かれる。
ここでは、それらの本のいく冊かについて、コメンタールを付し、
対象とされた人たちに、わたしなりのアプローチをこころみた。
(中略)かれらを『異形』として見てしまうのが、維新以降に誕生した『知識人』だ。
異形として見てしまったあとで、反省もこめて、『反差別』の主張になる。
そして、精神のこのはたらきは、百年以上たったいまもつづいていて、まだ、そこから自由ではない。
『異形』でもなんでもなかった人を、『異形』としてとらえ、
その『同形化』にひたすら努力する社会とは、いったい、なんなのだろうか。
やがて、『同形化』が社会のほとんどのエリアをおおいつくしたとき、
『異形』と名づけ、かれらを同化しなければならないという強迫観念にとらえられ、
そして、ついに消し去った行為は、どのように理解されるのだろう。
消し去られた人は、どのように追憶されるのだろうか」 (「はじめに」より)
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本書の意義は上記のとおり。
著者の塩見先生が、「異形の人」を食い物にしている輩どもに筆誅を加える作品で、読み応えは抜群です。
後述しますが、終章だけが別人が書いたかのように妙な文章になっています(書き下ろしではなく、
様々な本に書いてきたものを一つにまとめたため、初出年度の開きが最大で12年もあるため、
心境の変化なんかもあったのでしょうか)が、大変に面白い本に仕上がっています。
以下に目次を記しつつ、各章の面白かったところを少し紹介。参考になれば。
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異形にされた人たち・・・「四民平等」の逆説
「差別語の問題にしても、(中略)わたしなども、おもしろがって、『ホームレス』の語の『レス』は、有徴を示す語尾だ。
スチュワードに対するスチュワーデスがいやならば、ホームレスだって同じじゃないか、とか、
『子供』の『共』は、王が家来などを呼びつける、『家来共』の『共』と同じ意味なのだから、
子ドモといわれるのはうれしくないのではなかろうか、とか、
『登校』『下校』という、官尊民卑のことばを人権教育をするかたわらで平気で使っているのはどういうことなのだろう、などとやる」
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山窩はなぜ興味をそそったか・・・近代史における「サンカ」の記憶
「結論をさきに述べるなら、わたしたちの『サンカ』への関心こそが、『サンカ』を絶滅に追い込んだのだ。
『サンカ』が告発してこないことをいいことにして、知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいるが、
わたしたちが『サンカ』に関心を持ち、『サンカ』について語ってきたことが、かれらを追いつめた。
わたしたちのこれまで持った『知』とはそのようなものだ。
こんにち、ふたたび、『サンカ』について語る意義があるとするなら、
そのようなわたしたちの近代の『知』を批判的に理解するためだけであろう」
「近代の市民社会は、『自由』と『民主』を真理だといいはる『一神教』であった。
< 民主主義はさまざまな意見を認めるといいながらも、『民主主義』を疑うことは許さなかった >。
つまり、同化以外の方法を許さなかった。
サンカのように、自分たちの生活と思想を他の集団に対して強制しようとはしなかった者にとっては、
近代の市民社会の『おせっかい』さは理解の埒外であった」
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虚構としての山窩・・・鷹野弥三郎「山窩の生活」をめぐって
「日本の山中を縦断しながら漂白するグループが、かつてはなかなか話題になっていた。
竹にかかわる仕事をおもにし、山菜をとり、川魚を食べ、ときには里を襲う凶暴さを見せる。
体力にすぐれ、女性は美しく、男は色好みだとか、あのサンカの群はどうなったのか。
人びとのうちに、そのようなイメージを残したのは、多分に三角寛(みすみかん)の小説だと推測できるので、
わたしは意見を問われても、『サンカなどいません』とか、『警察業界の用語にすぎません』と、そっけなくこたえた。
それにまた、明治以降に『山窩』と書かれる人たちが、
それ以前においてはなんと呼ばれていたのかも、はっきりとしないのだから、うまくこたえようがなかった」
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コトリとサンカ・・・なぜ今またサンカなのか
「さて、わたしが疑問とするのは、今日の『サンカ本』の盛んな刊行は、どのような社会意識とつながっているのかということだ。
息苦しい高度管理社会で日々を送っていると、
その外側に、自然の風にふかれてさまよう人がいてほしいと思うのだろうが、
まさか、いまだ本気で山窩をもとめているわけではなかろう。
『箕作りの研究』よりも『サンカの研究』としたほうが原稿が売れるからなのか。
それとも、まったくあたらしい地平でこのあぶなっかしいテーマとむかいあう決心をしているのか。
わたしの知りたいのはサンカよりも、それを熱心に論ずる人たち、それを買い求めて読む人たちが二十一世紀のいま、
どのような心象でいるのかというほうだ。
『サンカ・山窩』は実在しなかった。
そこにいたのは、山野をうろつく『刑余者、癩患者、穢多、非人、失業者、家出人』のほか、
『箕作り』などが個別に生活していただけである。
『山窩』というネーミングは、右の人びとを手っ取り早くつかまえて矯正さすための警察の護符でしかなかった。
サンカは民俗学の課題にはならない。
コトリ同様に、なかば忘れられた歴史の記憶にしておいたほうがよいのではなかろうか」
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弾左衛門の読み方・・・たかが解放令一片か
「近代とは露骨に牛馬を食するようになっていながら、
それを神聖として『禁食』にしていた近世よりも、その仕事に従事する人たちを無視した。
日本の近代は、客観性を重んじるように見せかけながらも、
浅草のはずれに制度として存在していた人たちを隠すことから出発したのだ。
やがて時間が経過するうちに、見ないふりをしたという詐術がおこなわれたことすら記憶からうすれた」
「まとめておけば、部落を封建制の遺制といった人は、
封建制のもとでの部落民の制度的なあり方をまったく知らないまま、このことを口走っていたのだ。
そしてこの言い草の二重のまちがいは、生活に残る封建的なもの(旧習や迷信のたぐい)をつぶしていくことで
近代市民社会への道を歩んでしまったこと、
つまり、近代主義にとらわれることで、近代化に幻想をいだいてしまったことにある。
もうひとつのまちがいは、差別の実態を、部落の現場に求めてしまい、
差別を、近代主義者との対立する関係のうちに把えきれなかったことである。
このときにいたってもなお、非は被差別部落(当時の言葉では未開放部落)の側にあって、
部落民の教育の向上をはかり、
生活スタイルを市民ふうに同化させていくことを重要な課題にしてしまったのだ。
生活の向上や環境整備を決して否定するつもりはないが、
ここには転倒がある。そしてこの転倒を支える理論として、
部落の存在を遅れた近代化に根拠を求める理論があったのである。
かつては-------つまり解放令後はひたすら隠蔽しておいて、
当の被差別部落の人が意見を述べ、声を発しはじめるや、隠蔽してきた事実を棚に上げて、
封建制の遺制だというのは、少々いい加減すぎたのではなかろうか」
「わたしたちはそろそろ、解放令が不十分であったからとか、
アフターケアをちゃんとしてくれなかったからといった主体放棄の言い方からのがれて、
この法令が徳川身分制を完全に破棄したこと、
明治政府が発した法令のうちでもっとも民主的にしてラディカルなものであったことを認めたほうがよいのではなかろうか。
この八月二十八日を境にして、穢多(長吏)も非人身分もなくなったのだ」
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新聞事始(ことはじめ)・・・朝野(ちょうや)新聞連載「徳川制度」について
「(明治初期の頃は)新聞のほうも、今日のようなマスメディアにまだなっていない。
何十万、何百万の読者をかかえて各紙で競争しているなら、紙面の論調は平均的になるだろう。
政府とぴったり一致しないにしても、だれにでも受け入れられる可もなく不可もない記事が並び、体制的になる。
しかし、明治のはじめの新聞はまだ同人誌に毛がはえたくらいである。
つまり、幸せなことに、紙面に刺激的な新しい意見を掲載できた。
わたくしの言葉でいえば、『意味生産が可能』であった。
しかも新聞社には、本来は政治家になりたかったのになれなかった者がたむろしている。
薩長の出身でなかったためにチャンスをつかみそこなった者や、
旧幕府に仕えていたために椅子(ポスト)をあたえられなかった者もいた。
筆鋒鋭くならざるをえない」
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乞食への哀愁・・・石角春之助「乞食裏譚(こじきうらものがたり)」について
「こんにちの話で、一例をあげよう。
新宿の『ホームレス』に同情を寄せた新聞記事があるとする。
もう一方に、路上生活者・大石太の、『寝覚めの顔に露霜が張りつき』(創造書房、1996年)という句がある。
このふたつの表現のあいだの距離は、埋めようもなく、大きい。
記者は、『こちら側』から、『あちら側』を見てしまう。
一方的に対象を観察してしまうこのスタンスそのものが、差別を生じさせるのだが、
記者は、どうしようもなく、いつも、段ボールの外にいる。外から中にいる路上生活者をのぞく姿勢になる」
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賎民史のインデックス・・・浩瀚(こうかん)「日本奴隷史」について
「(『日本奴隷史』という本の)復刻は、八切止夫の手になり、日本シェル出版から出た。
私的な感慨を漏らせば、『また八切止夫か』というものだ。
『また八切止夫か』という言葉には、さすがに良い本を見つけて復刻したという意味と、
雑駁と独断の解釈が付けられたにちがいないという思いの両方がある」
「(前略)また、八切は、
末尾の、(『日本奴隷史』の著者である阿部)弘藏の子・阿部徳藏の『日本奴隷史の後に記す』も削除している。
つまり、八切復刻本だと、『日本奴隷史』の成立に関するデータはすべて消され、
代わりに、独断と自己宣伝の序文がつけられたことになる。
たとえば、八切は自分の序文で、『始めに納得しやすいように引用書の主だったもの五百冊を併記したが』という。
その『引用書』というのは、阿部弘藏が作った『引用書目』のことだ。
八切は、あたかも自分がそれを作ったかのようないいまわしをしている。
自分の知をひけらかしたいのだ。
(大中略)たぶん、八切止夫は、阿部弘藏についてよくわからないまま、自分の妄想をふくらませて、
断りもなく勝手なことを書いている」
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五百年前の東京・・・江戸城は「別所」の跡か
「今日の規範にひっかかってくる用語に『特殊部落』というのがあるだろう。
この言葉は、明治三十年代に、解放令でなくなったはずの部落が残存しているのを呼ぶために作られた官製の言葉である。
日本のあちこちの山間などに『部落』と呼ばれる村はあるが、
それらのなかでも『特殊』だというのである。
どういう部落が特殊とされるのか、よく調べて見る必要があるが、
まずは穢多身分であった人たちのところであろう。
『新平民』と一般に呼ばれていた人たちの村である。
この『特殊部落』も『新平民』も、相手を傷つけ差別するためにかつて広く使用された。
そこで、いまは、むやみには使用されなくなった。
それを菊池山哉は戦後になっても使い、しかも自著のタイトルにまで使用している。
深い考えがあってそうしたのか、かれのまわりにいた役人官吏の目と重なってしまったのか」
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別所と東光寺の魅力・・・エミシの俘囚の配流地
「柴田(弘武)のいうエミシは、製鉄技術をよくするのに、
高橋(富雄)のいうエミシは、騎馬こそ得意なものの、製鉄の農具が造れないのである。
どう判断すればよいのだろう。
また、騎馬あるいは馬生産をよくしたというエミシと、乗馬すらしなかったというアイヌ人の存在をどうつなげて考えたらよいのだろう。
(中略)エミシ=アイヌ人説の喜田貞吉との対立葛藤もあって、
(菊池)山哉は、エミシはアイヌ人ではないと強く主張する。
山哉にとっては、古代のエゾ(エミシ)は『化外の民』なのである。
天皇国家にまつろわぬ者で、『エゾと呼ばれた異族は、津軽と渡島だけで外にはない』という」
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起源論の水準・・・菊池山哉「特殊部落の研究」をめぐって
「実証できない歴史の空隙には、今現在のイデオロギーに都合のよい解釈がはめこまれるのが常だから、
まだまだゆらぎがつづくはずである」
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差別と天皇・・・農民の「王」から文化の「玉」へ
・・・抜群の面白さを誇る本書の中では、唯一の理解不能だった終章。
先に感想を書いてしまうと、『塩見先生は、天皇陛下になにか恨みでもあるのでしょうか』でした。
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「伊藤博文や原敬など、日本の権力者でテロに倒れたものも多いが、
(中略)実際には、伊藤博文のほうが明治天皇よりも権力をもっていたにもかかわらず、
騒ぎかたが異常にちがうのである。
天皇を利用しているものよりも、使われている天皇のほうが偉くなってしまうというこのパラドックス。
それは一種の詐術ではないか」
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・・・「利用」して悪事をしたわけではなし、明治天皇が「使われて」いたわけでもなし。
なぜこんな表現に。
これではまるで明治天皇が虐められていたのかと錯覚してしまう。
・
「つまり、維新以降の天皇は、江戸城に入り込んで豪壮な生活をくりひろげていようと」
・
・・・明治天皇は、若い頃に大西郷や山岡鉄舟に鍛えられたおかげで質実剛健がモットー。
洋服・洋食なども嫌いだったのに。
・
「(昭和天皇が)全軍の統帥を意味する『大元帥』という肩書きをあたえられていても、
逐一具体的な戦況を知らされ判断を仰がれていたわけではない。
敗戦の報告がつづくと、このままでは皇室の運命はどうなるのか、
自分たち一族の生命はどうなるのか、と心を痛め眠れぬ夜を送らねばならない始末だった」
・
・・・「だった」って。
見てきたような言い方せんでくれ。
「具体的な戦況」云々は、陸海軍の仲の悪さのほうの話だし、
昭和天皇がいかに自らの身を顧みずに国家と国民のことを考えていたのかなんて、
商売アカの宝島社の本ですら書いていることなのに。
・
・・・以上。
終章だけ、別人が書いたかのように本当に理解できませんが、面白い本です。
因みに、終章のあとの「おわりに」で、「いい気なものかもしれない」と言っていたので、
終章のこともあったので「うん、そうだね」と思いました。
ところで、この塩見先生の文章、上記の引用を読めばわかりますが、
読点(とうてん)が、異常に、多い、です、こんなふうに。
ちょっと読みづらい本です(いろいろな意味で)が、面白いのでかなりオススメです。
このレビューが参考になれば幸いです。 (*^ω^*)
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