脳、意識、心、精神、自我、アイデンティティなど、これらはどのように異なり、どのように関係するのか。
脳は器官であり、細胞からなる物質的な人体組織の1つと言えよう。
心や精神は脳の機能と一致するのではなく、その働きのすべてを脳に見出すことはできない、と言う。
心や精神は、脳を超えて身体の動きのなかに、さらには環境の一部にも及んで成立すると考えられるからである。
また、心や精神は他者との関係にも及び、自我やアイデンティティを形成することが可能になるのであろう。
心は、脳を超えて、身体、環境へと拡張していると考えるべきなのだろう。
そもそも、脳は身体の器官をコントロールするものである。
また、高等動物と大差のない人間の脳の機能は貧弱なので、できるだけ負担を小さくしたい。
そのため、人間も含めて生物は身体と周辺環境を大いに活用する。
脳が発達していない生物でも、身体と周辺環境との相互作用によって、複雑な動作が可能になる。
同様のことは、簡単なプログラムで複雑な動きが可能になる「お掃除ロボット」についても言える。
脳の負担を軽くするためにも、脳に強く依存するのではなく、身体と環境へと自己を拡張するのである。
杖と一体化する目の不自由な人の場合は、よく知られている。
脳の記憶量は極めて限られているので、ノートにメモしたりコンピュータに入力したりすることは当然である。
脳の計算機能は低レベルなので、紙に書いて筆算したり電卓を使ったりする。
さらには、言語を使う。
しかし、言語は個人が発明して所有するものではなく、社会的なものである。
すなわち、言語の使用は、1人の人間の脳のなかだけで可能になるのではない。
脳と身体とが一体となってコミュニケーションする他者との関係、社会的環境のなかに言語は実在し、その使用が可能になる。
したがって、言語も、脳が利用する外部のリソースと言えよう。
もちろん、内言もある。
他者からの言葉ではなく、自己の内面において自己に語りかける自己の言葉であるが、それも以前に他者から与えられた言葉(外言)が内化(ヴィゴツキー)したものとされる。
しかし、それでも言語は脳の外部の社会的なリソースである。
言語は、認知的道具として大いに活躍する。
活用しようとする外部のリソースをメモとして書きとめるなら、長く保存できるし、外部のあれこれに直接アクセスする必要もなくなる。
環境のリソースを活用するための道具として、それ自体が問題解決に大きな役割を果たすものである。
人間は言語を道具とすることによって、高いレベルでの認知や問題解決を行うことができるようになったと言えよう。
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