1961年から71年にかけて書かれた、以下の8編のテクストを収める。
「物語の構造分析序説」――文が若干の特定化によって小さな〈ディスクール〉になるのとまったく同様、ディスクールは大きな〈文〉ということになろう。ある種の物語(たとえば、民話)は、きわめて機能的であり、反対に、ほかのある種の物語(たとえば、〈心理〉小説)は、きわめて指標的である。この両極のあいだに、歴史や社会やジャンルによって変わる、一連の中間形式の全体がある。物語の内部では(贈与者と受益者に分担された)交換という大きな機能が働く。それと同様、それと相同的に、対象としての物語は、コミュニケーションの伝達物である。物語の送り手が存在し、物語の受け手が存在するのだ。
「天使との格闘」――われわれはテクストを三つのシークェンスに分けることにしよう(これは不自然なことではないと思う)。つまり、(1)「渡河」、(2)「格闘」、(3)「命名」である。われわれの目標は、見出すべき真実を保持している文献学的、歴史的記録ではなく、テクストのヴォリュームであり、テクストの意味形成性なのである。
「作者の死」――エクリチュールとは、われわれの主体が逃げ去ってしまう、あの中性的なもの、混成的なもの、間接的なものであり、書いている肉体の自己同一性そのものをはじめとして、あらゆる自己同一性がそこでは失われることになる、黒くて白いものなのである。テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。読者の誕生は、「作者」の死によってあがなわれなければならないのだ。
「作品からテクストへ」――作品は手のなかにあるが、テクストは言語活動のうちにある。テクストはあるディスクールにとらえられて、はじめて存在する。あますところなく象徴的な性質が、想像され、認められ、引き出せる作品は、テクストである。「テクスト」は複数的である。ということは、単に「テクスト」がいくつもの意味をもつということではなく、意味の複数性そのものを実現するということである。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないであろう。
「現代における食品摂取の社会心理学のために」――食べ物とは何か? それは単に、統計的、栄養学的研究をおこなうべき生産物の総体ではない。それはまた同時に、コミュニケーションの体系であり、種々のイメージの集まりであり、慣用と状況と行動とに関する儀礼集でもある。食品は、栄養的価値と同時に儀礼的価値をもち、必要が満たされるやいなや、この儀礼的価値は、次第に栄養的価値をしのぐようになる。これがフランスの場合である。
「エクリチュールの教え」――文楽では、操り人形は、いかなる糸によっても操られていない。もはや糸は存在せず、したがって、もはや隠喩も、「運命」も、存在しない。操り人形は被造物の猿まねをやめ、人間は神々の手に操られる操り人形であることをやめ、もはや内部が外部を支配することはないのだ。全体的でありながら分裂した見せ物としての文楽は、もちろん、即興を排除する。自発性に立ちもどることは紋切型に立ちもどることだ、ということを文楽はおそらく知っているのである。
「逸脱」(対談)――記号表現。われわれはまだ長くこの語を濫用する覚悟を決めなければなりません(これを最後に注意したいのですが、われわれはこの語を定義するべきではなく、使うべきなのです。つまりそれを隠喩化し―とりわけ記号内容に対立させるべきなのです。記号学の初期にあっては、記号表現は、記号内容の単なる相関項であると信じられていましたが、今日われわれは、それが記号内容の敵であることをもっとよく知っています)。
「対象そのものを変えること」――新しい記号学―または新しい神話学―は、もはや記号内容から記号表現を、作文的なものからイデオロギー的なものを、それほど容易に切り離すことができない。あるいは、できなくなるだろう。それはこの区別が、間違っているとか無効であるからではなく、いわば神話的なものとなってしまったからである。
文学の科学から読書の快楽へ、構造分析からテクスト分析へと変化していったのが、この10年である。「作者の死」に代わる「読者の誕生」という言説が、このバルトの変化を良く表している。ここには、クリステヴァによるバフチンの紹介が大きく作用しているだろう。そして優れたものを優れたものとして認めた上での、この変化があったからこそ、バルトは今日においても魅力的な存在になっているのである。文学に興味ある人は必読の書。
物語の構造分析 (日本語) 単行本 – 1979/11/16
ロラン・バルト
(著)
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ISBN-10462200481X
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ISBN-13978-4622004813
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出版社みすず書房
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発売日1979/11/16
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言語日本語
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本の長さ232ページ
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登録情報
- 出版社 : みすず書房 (1979/11/16)
- 発売日 : 1979/11/16
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 232ページ
- ISBN-10 : 462200481X
- ISBN-13 : 978-4622004813
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2020年8月4日に日本でレビュー済み
収録されているエッセイ『作者の死』の冒頭は
> In his story Sarrasine, Balzac, speaking of a castrato disguised as a woman, writes this sentence: "It was Woman, with her sudden fears, her irrational whims, her instinctive fears, her unprovoked bravado, her daring and her delicious delicacy of feeling" Who is speaking in this way? (リチャード・ハワードの「英訳」)
> 中編小説『サラジーヌ』のなかで、バルザックは、ある女装した去勢者について語り、つぎのような文を書いている。《それは女特有の突然の恐れ、訳のわからない気まぐれ、本能的な不安、いわれのない大胆さ、虚勢、えもいわれぬ感情のこまやかさをもった、まぎれもない女だった》と。(花輪光訳)
herの繰り返しが訳せなかったので、「女の本能的な不安」の面白さがなくなりました。それはともかく、her delicious delicacy of feelingには「女が感じたときに出す美味しいごちそう」という意味もあります。こんな下品なことを書いたのはだれか?というのがこのエッセイのテーマです。このエッセイ自体も下品なことばかり言っています。
🐾
> Let us return to Balzac's sentence: no one (that is, no "person") utters it: its source, its voice is not to be located; and yet it is perfectly read; this is because the true locus of writing is reading. Another very specific example can make this understood: recent investigations (J. P. Vernant) have shed light upon the constitutively ambiguous nature of Greek tragedy, the text of which is woven with words that have double meanings, each character understanding them unilaterally (this perpetual misunderstanding is precisely what is meant by "the tragic"); yet there is someone who understands each word in its duplicity, and understands further, one might say, the very deafness of the characters speaking in front of him: this someone is precisely the reader (or here the spectator). In this way is revealed the whole being of writing: a text consists of multiple writings, issuing from several cultures and entering into dialogue with each other, into parody, into contestation; but there is one place where this multiplicity is collected, united, and this place is not the author, as we have hitherto said it was, but the reader:
> バルザックの文にもどろう。誰も(つまり、いかなる《人格》も)それを語っているわけではない。この文の源、この文の声は、エクリチュールの本当の場ではない。本当の場は*読書*である。もう一つの、きわめて明確な例が、このことを理解させてくれる。最近の探求(J・P・ヴェルナン[現代フランスのギリシア学者])は、ギリシア悲劇の本質的構成要素をなす両義的性質を明らかにした。ギリシア悲劇のテクストは、二重の意味をもった語で織りなされていて、各登場人物はそれを一面的に理解する(このたえざる誤解が、まさしく《悲劇》なのである)。ところが、それぞれの語の二重性(犬っち:二枚舌)を見抜き、そのうえ、もしこう言ってよければ、目の前で語っている登場人物たちの耳の悪ささえ見抜いている誰かがいる。この誰かこそ、まさしく読者(ここでは聴衆)なのである。こうしてエクリチュールの全貌が明らかになる。一編のテクストは、いくつもの文化からやってくる多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく、読者である。
J・P・ヴェルナンというのはバルトの同僚ジャン・ピエール・ヴェルナンのことで、ギリシャ悲劇の両義的性質については「『オイディプス王』の謎とスピンクスの謎」(みずす書房『プロメテウスとオイディプス --ギリシァ的人間観の構造--』収録)に述べられています。
> この劇におきまして、オイディプスが舞台に登場してまず初めに語る言葉の中に、自分こそ事件の根源に遡って必ず犯人を発見せずにはおかぬであろうという意味のの台詞があります。すなわち彼はまずテバイの人々に対して、「王位がこのようにして覆された時に、ことの究明が行われるのを妨げたのはいったい何であったか」と言って、彼らが事件の起こった直後に犯人を見つけ出すべく真剣に努力することを怠り、真相の究明を果たさなかったことを非難するわけです。そしてその後で彼は、自分はこの犯罪が行われたときにテバイにいなかった、しかし今こそこの自分が、忌まわしい犯罪の源に遡って、犯人を見つけ出さずにはおかないと宣言する。これを彼はギリシァ語で「エゴ パノ」(Ego phano)、すなわち「この自分が明らかにするであろう」という表現を用いて言っているわけです。
> ところで、彼がこの「エゴ パノ」という言葉を口にいたしますときに、実は古注の中でも指摘されておりますように、劇を見ております観客は、この言葉の中にもう一つ別の意味を明らかに聞き取る。この箇所に対する古注には「なぜならすべては彼自身の中に明らかにされるであろうから」(epei to pan en autoi phanesetai)と言われています。すなわち「エゴ パノ」というギリシァ語の表現の中に、聞く耳を持った観客は「自分がそれを明らかにするであろう」というオイディプス自身によって意識的に付与されている意味と同時に、「自分が自分自身の正体を明らかにするであろう」というもう一つの意味を聞き取るのです。
readerを「読者」とするか「reeder脱穀機」のダジャレとするかは読者しだいです(ここから英文が本当のオリジナルだとわかります)。『作者の死』は多元性を駆使してハズレ、当たり、大当たりの三通りの読みかたができるようになっています。頭の悪い連中が大好きな、多様性のイデオロギーの称揚がハズレです。いっぱい釣れ、バルトはゆーめーになることができました。このエッセイを日本語にそのまま訳すのは不可能ですが、邦訳はハズレにしか読めないようになっています。
> テクストは*多枚舌の*エクリチュールからなる。*テクスト*はたくさんの*教養*から出で、たがいの対話に、パロディに、論争に入る。しかし*一つの*場所があり、この多枚舌が集められ、統合される。そしてその場所は作者ではなく、*わわわれがここまでに言ってきたように*、読者である。(当たり)
> テクストは(一人の)多回数の精〇からなる。精〇は何回もの性交から発射され、二人でする(ホモの)セッ〇スに、お口に、お〇んこに入る。しかし一つの場所があり、この多回数のものが集められ、一つに混ぜられる。そしてその場所は射精者ではなく、わわわれがここまでに言ってきたように、脱穀機=種(精〇)を入れられる人=人間である。(大当たり)
ハンナ・アーレントは『人間の条件』でバルトと正確におなじことを言っています。multiplicityをcollect, uniteする、すなわち「隠喩を理解する」はたらきや乱交がアーレントの活動actionであり、その結果生まれるものが多数性plurality、その場所が人間homoです。
ナボコフは「Good Readers and Good Writers」で、collectやunifyということばでおなじものを表現しています。
> In reading, one should notice and fondle details. There is nothing wrong about the moonshine of generalization when it comes after the sunny trifles of the book have been lovingly collected.
> The three facets of the great writer—magic, story, lesson—are prone to blend in one impression of unified and unique radiance, since the magic of art may be present in the very bones of the story, in the very marrow of thought.
> In his story Sarrasine, Balzac, speaking of a castrato disguised as a woman, writes this sentence: "It was Woman, with her sudden fears, her irrational whims, her instinctive fears, her unprovoked bravado, her daring and her delicious delicacy of feeling" Who is speaking in this way? (リチャード・ハワードの「英訳」)
> 中編小説『サラジーヌ』のなかで、バルザックは、ある女装した去勢者について語り、つぎのような文を書いている。《それは女特有の突然の恐れ、訳のわからない気まぐれ、本能的な不安、いわれのない大胆さ、虚勢、えもいわれぬ感情のこまやかさをもった、まぎれもない女だった》と。(花輪光訳)
herの繰り返しが訳せなかったので、「女の本能的な不安」の面白さがなくなりました。それはともかく、her delicious delicacy of feelingには「女が感じたときに出す美味しいごちそう」という意味もあります。こんな下品なことを書いたのはだれか?というのがこのエッセイのテーマです。このエッセイ自体も下品なことばかり言っています。
🐾
> Let us return to Balzac's sentence: no one (that is, no "person") utters it: its source, its voice is not to be located; and yet it is perfectly read; this is because the true locus of writing is reading. Another very specific example can make this understood: recent investigations (J. P. Vernant) have shed light upon the constitutively ambiguous nature of Greek tragedy, the text of which is woven with words that have double meanings, each character understanding them unilaterally (this perpetual misunderstanding is precisely what is meant by "the tragic"); yet there is someone who understands each word in its duplicity, and understands further, one might say, the very deafness of the characters speaking in front of him: this someone is precisely the reader (or here the spectator). In this way is revealed the whole being of writing: a text consists of multiple writings, issuing from several cultures and entering into dialogue with each other, into parody, into contestation; but there is one place where this multiplicity is collected, united, and this place is not the author, as we have hitherto said it was, but the reader:
> バルザックの文にもどろう。誰も(つまり、いかなる《人格》も)それを語っているわけではない。この文の源、この文の声は、エクリチュールの本当の場ではない。本当の場は*読書*である。もう一つの、きわめて明確な例が、このことを理解させてくれる。最近の探求(J・P・ヴェルナン[現代フランスのギリシア学者])は、ギリシア悲劇の本質的構成要素をなす両義的性質を明らかにした。ギリシア悲劇のテクストは、二重の意味をもった語で織りなされていて、各登場人物はそれを一面的に理解する(このたえざる誤解が、まさしく《悲劇》なのである)。ところが、それぞれの語の二重性(犬っち:二枚舌)を見抜き、そのうえ、もしこう言ってよければ、目の前で語っている登場人物たちの耳の悪ささえ見抜いている誰かがいる。この誰かこそ、まさしく読者(ここでは聴衆)なのである。こうしてエクリチュールの全貌が明らかになる。一編のテクストは、いくつもの文化からやってくる多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく、読者である。
J・P・ヴェルナンというのはバルトの同僚ジャン・ピエール・ヴェルナンのことで、ギリシャ悲劇の両義的性質については「『オイディプス王』の謎とスピンクスの謎」(みずす書房『プロメテウスとオイディプス --ギリシァ的人間観の構造--』収録)に述べられています。
> この劇におきまして、オイディプスが舞台に登場してまず初めに語る言葉の中に、自分こそ事件の根源に遡って必ず犯人を発見せずにはおかぬであろうという意味のの台詞があります。すなわち彼はまずテバイの人々に対して、「王位がこのようにして覆された時に、ことの究明が行われるのを妨げたのはいったい何であったか」と言って、彼らが事件の起こった直後に犯人を見つけ出すべく真剣に努力することを怠り、真相の究明を果たさなかったことを非難するわけです。そしてその後で彼は、自分はこの犯罪が行われたときにテバイにいなかった、しかし今こそこの自分が、忌まわしい犯罪の源に遡って、犯人を見つけ出さずにはおかないと宣言する。これを彼はギリシァ語で「エゴ パノ」(Ego phano)、すなわち「この自分が明らかにするであろう」という表現を用いて言っているわけです。
> ところで、彼がこの「エゴ パノ」という言葉を口にいたしますときに、実は古注の中でも指摘されておりますように、劇を見ております観客は、この言葉の中にもう一つ別の意味を明らかに聞き取る。この箇所に対する古注には「なぜならすべては彼自身の中に明らかにされるであろうから」(epei to pan en autoi phanesetai)と言われています。すなわち「エゴ パノ」というギリシァ語の表現の中に、聞く耳を持った観客は「自分がそれを明らかにするであろう」というオイディプス自身によって意識的に付与されている意味と同時に、「自分が自分自身の正体を明らかにするであろう」というもう一つの意味を聞き取るのです。
readerを「読者」とするか「reeder脱穀機」のダジャレとするかは読者しだいです(ここから英文が本当のオリジナルだとわかります)。『作者の死』は多元性を駆使してハズレ、当たり、大当たりの三通りの読みかたができるようになっています。頭の悪い連中が大好きな、多様性のイデオロギーの称揚がハズレです。いっぱい釣れ、バルトはゆーめーになることができました。このエッセイを日本語にそのまま訳すのは不可能ですが、邦訳はハズレにしか読めないようになっています。
> テクストは*多枚舌の*エクリチュールからなる。*テクスト*はたくさんの*教養*から出で、たがいの対話に、パロディに、論争に入る。しかし*一つの*場所があり、この多枚舌が集められ、統合される。そしてその場所は作者ではなく、*わわわれがここまでに言ってきたように*、読者である。(当たり)
> テクストは(一人の)多回数の精〇からなる。精〇は何回もの性交から発射され、二人でする(ホモの)セッ〇スに、お口に、お〇んこに入る。しかし一つの場所があり、この多回数のものが集められ、一つに混ぜられる。そしてその場所は射精者ではなく、わわわれがここまでに言ってきたように、脱穀機=種(精〇)を入れられる人=人間である。(大当たり)
ハンナ・アーレントは『人間の条件』でバルトと正確におなじことを言っています。multiplicityをcollect, uniteする、すなわち「隠喩を理解する」はたらきや乱交がアーレントの活動actionであり、その結果生まれるものが多数性plurality、その場所が人間homoです。
ナボコフは「Good Readers and Good Writers」で、collectやunifyということばでおなじものを表現しています。
> In reading, one should notice and fondle details. There is nothing wrong about the moonshine of generalization when it comes after the sunny trifles of the book have been lovingly collected.
> The three facets of the great writer—magic, story, lesson—are prone to blend in one impression of unified and unique radiance, since the magic of art may be present in the very bones of the story, in the very marrow of thought.
2019年1月28日に日本でレビュー済み
ロラン・バルトは物語の構造分析において「作者の死」という考え方をテクストにしたけれども、私の理解によれば、それは「作者の不在」という表現が適切な概念表記である。
最も、ロラン・バルトのテクストは「作者の死」であるから、「作者の不在」という解釈は、実は、作者としてのロラン・バルトの意図を汲んだ私のテクストであって、作者としての私の意図を汲まないで欲しいというロラン・バルトの意図を敢えて汲まないでテクスト解釈をするならば「作者の不在」という理解は、「作者の死」の適切な概念理解であると言えるだろう、即ち、そのような「作者の不在」という私のテクスト表記は、まさしく作者としてのロラン・バルトの意図を殺したテクスト解釈なのである。
従って、ロラン・バルトの「作者の死」とは、「作者の不在」に他ならない。
このような「作者の死」というテクストを取り巻くテクストの構造分析を、私は、ロラン・バルトのパラドクスと名付けたい。
作品(texte)は死なない、作者は作品の著者(texte)として死なない、作者の意図(verbum)はもう死んでる。
読者としてのバルトは、テクストを作者の意図による支配から解放する自由を愛したのだろう。
テクストの快楽は、作者の死から始まるのだから。
バルトのテクストは常に誘惑に満ちたエクリチュールであり、読者に対する恋愛のディスクールを演じるから、作者としてのバルトは手強い、即ち、ロラン・バルトは作家である。
フランス現代文芸批評を代表する作家であるロラン・バルト氏に対する敬意はロゴス中心主義的構造主義者ではない作家である彼のテクストに対して、彼の意図を殺すという彼の意図を知らぬフリを演じながら読むことではないだろうか?
バルト氏の意図(leveret!)によれば、「作者の意図(verbum)=作品のロゴス(logos)」。
このカラクリ(作品構造,ecriture)が、私の考えるロラン・バルトのパラドクスのテーゼ(規範命題,justice)である。
最も、ロラン・バルトのテクストは「作者の死」であるから、「作者の不在」という解釈は、実は、作者としてのロラン・バルトの意図を汲んだ私のテクストであって、作者としての私の意図を汲まないで欲しいというロラン・バルトの意図を敢えて汲まないでテクスト解釈をするならば「作者の不在」という理解は、「作者の死」の適切な概念理解であると言えるだろう、即ち、そのような「作者の不在」という私のテクスト表記は、まさしく作者としてのロラン・バルトの意図を殺したテクスト解釈なのである。
従って、ロラン・バルトの「作者の死」とは、「作者の不在」に他ならない。
このような「作者の死」というテクストを取り巻くテクストの構造分析を、私は、ロラン・バルトのパラドクスと名付けたい。
作品(texte)は死なない、作者は作品の著者(texte)として死なない、作者の意図(verbum)はもう死んでる。
読者としてのバルトは、テクストを作者の意図による支配から解放する自由を愛したのだろう。
テクストの快楽は、作者の死から始まるのだから。
バルトのテクストは常に誘惑に満ちたエクリチュールであり、読者に対する恋愛のディスクールを演じるから、作者としてのバルトは手強い、即ち、ロラン・バルトは作家である。
フランス現代文芸批評を代表する作家であるロラン・バルト氏に対する敬意はロゴス中心主義的構造主義者ではない作家である彼のテクストに対して、彼の意図を殺すという彼の意図を知らぬフリを演じながら読むことではないだろうか?
バルト氏の意図(leveret!)によれば、「作者の意図(verbum)=作品のロゴス(logos)」。
このカラクリ(作品構造,ecriture)が、私の考えるロラン・バルトのパラドクスのテーゼ(規範命題,justice)である。
2002年10月3日に日本でレビュー済み
本書はバルトのいくつかの有名な論文を翻訳し、一冊にまとめたものです。収められている論文にはどれも非常に興味深いですが、特に有名なものでは「物語の構造分析序説」、「作者の死」、「作品からテクストへ」、「対象そのものを変えること」などがあります。この一冊を読んでいくと、バルトの理論の変遷を見ることができます。「物語の構造分析序説」では、構造主義者としてのバルトを見ることが出来ますし、「作品からテクストへ」ぐらいになると、徐々にいわゆる快楽のバルトの兆しを見ることができます。また、「現代における食品摂取の社会心理学のために」における記号論的分析は、記号論とは何かを知る上では非常によいと思います。扱っている話題が身近なものなので、自分でもバルトの真似をして自分の生活の様々な現象に関して記号論的分析を実践することができるかもしれません。また訳者の花輪さんによる解題は非常に丁寧で、それぞれのバルトの論文を理解する手助けとなってくれます。収められている論文は文学理論や記号論などの分野の発達に大きく貢献したものばかりなので、本書を読む価値は大きいと思います。