本書がどのジャンルの本であるのかと考えると、人類学、科学哲学、文明論などがあたりますが、個人的には「啓蒙思想書」と呼ぶのがより正確だと思います。ドイチュは量子コンピューターの発明者である理論物理学者として有名ですが、自分は彼はただの物理学者の枠には収まらない本物の哲学者だと考えています。
以下、かなり端折りながらになりますが、『無限の始まり』を要約します。
本書の主張の一つは、進歩は「良い説明」によってなされる、というものです。そして、進歩は無限に続けることができます。これらの主張を科学と哲学における事実上すべての基本的分野を俯瞰することで検証します。
進歩は知識が増大することで可能となります。知識が何に由来するのかという問いは哲学において長らく議論されてきました。当初は「経験論」とよばれるアイデアが主流でした。経験論は伝統的権威を追放しましたが、その代わりに・帰納法などの「導出プロセス」と・感覚的経験 という二つの偽りの権威を生み出しました。帰納法は直感的ですが、説明を生むことはありません。どの感覚的経験が正当かを論じる哲学が「正当化主義」です。正当化主義の論理は、変化に対してアイデアを守る方法を探す傾向にあります。
正当化主義と逆の認識は、「可謬主義」とよばれます。可謬主義とは、権威ある知識の源という存在を否定し、アイデアが真であると正当化する手段が存在しないとする考え方です。可謬主義者は、自分たちの最善かつ基本的な説明にさえ、真実だけでなく、誤解が含まれていると考え、そうした説明を良い方向へ変えようと努力する傾向があります。この哲学を押し進めたのがカール・ポパーです。今はまだ問題だと考えられていないような誤ったアイデアを、将来発見して変えたいと考える論理は、限りない知識の成長に不可欠です。科学理論はあくまで推量にすぎません。推量は説明を伴います。悪い説明に対し、良い説明は一部分を取り出して変更することが難しい点で、客観的に区別がつきます。
ポパーを数少ない例外として、20世紀以降の知識論は混迷を続けてきました。経験論から発展し、目に見えるものしか理論に組み込むことを認めない実証主義は、さらに論理実証主義という流れに退行しました。言語哲学や分析哲学からは、自然科学的真理や科学の営みですらナラティブにすぎないと考えるポストモダン哲学が生まれました。これらの哲学の潮流は別にしても、経験論の名残りはいまだに多くの科学者に残っています。
ドイチュによれば、ニールス・ボーアらによる観測問題の解釈「コペンハーゲン解釈」は、悪い哲学に則っています。現象の理由を説明せず、予測が合うからとその説明を省こうとする「道具主義」は、量子論に限らず心理学などさまざまな科学分野でいまだに見られると言います。悪い哲学とは、単に間違っているだけでなく、真理へ近づく試みを積極的に阻むような哲学です。
説明を省く科学理論には、「道具主義」の他にも「全体論」「還元主義」といったバリエーションがあります。全体論と還元主義はいずれも、特に後者は現在も根強い支持のある科学哲学観です。
物事にはさまざまな「創発性のレベル」が存在します。私たちはヤカンの中の水分子の個別の振る舞いを計算することなく、沸騰するまでの正確な時間を計算できます。あるいは、人類の歴史を振り返って抽象的な用語を用いてそれを説明することなくして、ある銅原子がその銅像を構成している理由を説明できません。このように、より上位の創発性レベルで事象を簡単に説明できるようになることが「創発性」です。この創発性の法則は、いまだ解明されていません。最も上位の全体的創発性レベルですべてが説明できると考える全体論や、要素還元を繰り返すことで真理へ到達できると考える還元主義は間違っており、物事のあらゆる創発性レベルは基本的で最善な説明になり得ます。抽象概念は創発的なものですが、実在し、物理世界に影響を与えます。
人間の「創造力」は、脳内で起こる創発的な現象です。この原理は未解明ですが、人間の創造力と、その宇宙的意義を認めないと、人類の意味や進歩が起こることの説明に大きな間違いを冒します。その間違いを冒している人として、スティーブン・ホーキングやジャレド・ダイヤモンドなどが挙げられます。
人工知能研究は数十年間にわたり行き詰まっています。これは創造力が未解決問題であることを無視した結果と言えます。チャットボットを人工知能の定義に使おうとしたチューリングテストは、ドイチュに言わせれば道具主義ということになります。逆に、人間の創造力の原理が解明されさえすれば、明日にでもそれをプログラムすることができます。人間の脳と古典的コンピューターは同等だからです。
本物の人工知能は、人間と同じく、普遍的な説明能力を獲得するはずです。ドイチュは人間を「ユニバーサル・エクスプレイナー(普遍的な説明者)」であり、自然法則で制約されていない限りあらゆる物理的変成が可能な「ユニバーサル・コンストラクター(普遍的な建設者)」であるといいます。知識の増大によって可能になったその文明の物理的変成のレパートリーを「富」といいます。かつて多数の文明が自然や外敵に滅ぼされましたが、それは例外なく富が足りないことが原因でした。資源管理に失敗したためにイースター文明が滅んだという通説は間違いです。彼らに足りなかったのは資源管理ではなく富です。ジャレド・ダイヤモンドは、西洋文明が成功した理由の説明を地理的要因に求めますが、この還元主義的説明も間違っています。
抽象概念であっても、客観的な進歩があります。道徳的説明も客観的であり、かつては疑われない常識であった、「黒人は軍隊の中で出世できなくて良い」「女性はその能力を使うべきではない」といった価値観は現在の西洋文明では間違いだと見なされています。政治哲学も同様です。長い間、政治哲学の中心テーマは「誰が統治すべきか」というものでした。ここでは、良い政策は良い為政者から生まれると仮定されています。しかしこれは説明にはなりえません。社会選択理論では政策を選ぶ国民の投票行動を「意思決定」としていましたが、その意味で合理的な選択は不可能であることはケネス・アローが半世紀以上前に証明しています。論理的に不可能なことを要求することを強いられているのは、その前提が不合理であることを示しています。社会選択理論は、理論が想定する「意思決定」を、現実の意思決定のプロセスと取り違えています。選挙で大事なことの一つは、存在しない「市民の意思」を測ることではなく、政策についての良い説明を生み出すことです。一般に、二つの良い説明の中間をとると、それぞれよりも悪いものが出来上がります。比例代表制では、そうした政策を生み出す悪いインセンティブが働きます。また、選挙は失敗したリーダーを非暴力的手段で排除する仕組みとして働きます。すなわち、民主主義制度は可謬主義に根ざしています。
「美」も、一般に客観的であるとは見なされていません。しかし、名曲や名画が生み出されるとき、芸術家の脳内では創造的なプロセスが働いており、実際に世界に何かを付け加えています。美は人間の創造力とは別に、生物進化のプロセスでも生み出されます。花がその代表です。花は虫と共進化をしてきましたが、その過程で離れた種族間で利用する偽造されにくい暗号パターンとして、「客観的な美」という基準を用いたのです。人間はその遺伝情報量とは比較にならない大量の情報を一個人でも扱うため、花や虫と同様に、個人間の情報交換でも客観的な美の基準を用います。ユニバーサル・エクスプレイナーである私たちは美それ自体を目的として生み出す営みも行います。これは科学と同様、自然界には存在しない知識創造のプロセスです。さらに、人間の美の選択基準は性選択にも適用されているでしょうから、人間は進化の過程でサルから客観的な美の基準へ向かって進化しつつある、という愉快な推論ができます。
数、文字、計算機といったものが普遍性を獲得したのは、偶然でした。ドイチュはこれを「普遍性への飛躍」とよびます。これらはそれぞれ、最初は偏狭な目的で作られました。数は古代ギリシャにおいて、現実のものを対応させ、数える目的を脱しなかったようです。0という仕組みを導入したことで、数は普遍性を獲得しました。象形文字は、そのリストの中でしか意味を当てはめられません。当初は象形文字を補助する表記法として発達したアルファベットは、次第にそれのみであらゆる文章を表記するようになりました。アルファベットは潜在的にあらゆる単語を表記する普遍性を持っています。アルファベットの発明は人類史でフェニキア人祖先による一度のみ起こりました。計算機は、バベッジが解析機関を作り出した時点で、普遍性を獲得していてもおかしくなかったはずです。彼がきちんと周りを見渡せば、すでに継電器という便利なものがあり、普遍的なデジタルコンピューターを作れたはずでした。潜在的に長さ制限のないシステムには誤差修正が不可欠なので、普遍性への飛躍はすべてデジタル・システムで起こります。基本音声の数が有限であることや、普遍的アナログ・コンピューターが存在しないのはこれが理由です。
数や文字などは「ミーム」です。ミームは目には見えませんが、確かに実在しています。ミームは文化の最小単位でもあるアイデアであり、大半のミームは短命です。
生物の進化のプロセスと、脳内での知識の成長には、後者には「説明」があるという大きな相違点があります。ミームと生物進化においても、その伝達・変異・選択メカニズムは異なります。ミームは遺伝子と異なり、行動を起こさせることによって初めて人に伝わり自己を複製します。ミームの創造は創造的なプロセスで行われます。スーザン・ブラックモアのミーム論は人間の創造力を軽視していたために、文明の進歩もミームの自然選択的な進化の結果だと考えていました。また、従来のミーム論は、「合理的なミーム」と「非合理的なミーム」の違いを理解していませんでした。
人特有のミームの伝達方法があります。オウムは聞いた音を正確に反復しますが、その話の内容は理解できません。人間は講義の教授の話をそっくり反復することはできませんが、その内容を理解することができます。人は「模倣」でミームを伝達しているのではありません。事象から創造的に説明を見抜くことでミームを複製します。
私たちの文明の歴史は、一人一人の創造力が生み出したアイデアの歴史です。しかし、その創造力が発揮されてきたのはかなり最近のことです。各自がその創造力により少しでも改善を行っていれば、指数関数的な発展が始まったはずです。実際には、100万年間、人類は洞穴で生活し、農耕を初めてから1万年以上もほとんど変わりばえのない生活を続けてきました。
この謎を解く鍵は「非合理的なミーム」です。ミームは(遺伝子と同じく)宿主やその種に有利に働くとは限りません。幸せを増大するとも限りません。そのミームが多くの人へ正しく複製され、競合ミームを排除するという選択圧があるのみです。
人々の創造力は、ミームにとっては複製プロセスに欠かせないものでもあると同時に、危ういものでもあります。創造力で改変されてしまうため、ミームが正しく複製されない可能性があるからです。
人類史の大半の期間、人類に広がっていたのは非合理的なミームでした。
非合理的なミームは、人々の創造力を機能停止させます。人々は、自分が存在しているのはそのミームを複製するためであると思い込みます。革新は許容されません。人々には知識を生み出す方法も批判能力もないので、変化は往々にして良くないものです。すなわち、皮肉にも創造力を発揮せず変化を起こさないことは理にかなっています。こうした社会は、生まれた時から死ぬまで、何の変化も起きない社会です。これをドイチュは「静的社会」とよび、反対に、現在の私たちの西洋文明を「動的社会」とよびます。
静的社会での性選択においては、非合理的ミームを忠実に実行できるかどうかが重要な基準になります。非合理的ミームを、たとえば集団内の社会的地位の高い相手から見抜く目的で、人類はその創造力を発達させてきました。このミームと創造力の共進化は、言語操作に特化した脳構造の発達や、記憶力の向上などを伴ったものでした。
ミームの選択圧の上で、真理であるというのは複製されるのに有利な面もあります。橋を建てたり砲弾を飛ばしたりなど、さまざまなことに便利に使えるとしたら、正しいニュートン力学は人々に広がるでしょう。こうした合理的なミームは、深遠なる真理に近づきます。合理的なミームは動的社会において発達します。そして、非合理的ミームと合理的ミームは互いにそれを排除しようとします。
人類が非合理的ミームの支配する社会から、合理的ミーム支配へ移行しようとした時期が、歴史上、何度かありました。アリストテレスのいたアテナイはスパルタの侵略により進歩の芽が摘まれました。中世フィレンツェの啓蒙運動はキリスト教勢力によって排除されました。現代の西洋文明の進歩は、歴史上初めて、継続的に何世代にもわたって起きています。この波はガリレオで始まり、ニュートンで後戻りできなくなりました。
合理的ミームが完全に支配的になったとは言い切れません。世界にはいまだに「この進歩は本物ではない」とする思想家が大勢います。また大半の人がその自分の認識とは異なり、普遍性に不要な制約を加える「偏狭思考」から脱していません。これもやはり経験論の名残りです。このような中では、またいつか「悲観主義」が蔓延することになるかもしれません。
「楽観主義」と「悲観主義」という区別は、「コップ1杯の水を『たった半分しかない』と考えるか『半分も入っている』と考えるか」といった感情論の意味合いで理解されがちです。しかし、ドイチュの言う楽観主義/悲観主義の定義は、そうした感情論とは無関係です。この違いは、将来の物事へどう備えるべきかという認識論の問題です。
この違いについて「持続可能性(sustainable)」の意味を検討し明らかにします。「維持(sustain)」には二つの相反する意味があります。・人の必要を満たす と、・物事の変化を妨げる という意味です。
イースター文明は、せっせと巨大な石像を作り出す文明を維持して、滅びました。今ではイースター島の最盛期の人口密度を超える地域は多数あります。人々が知識を生み出し、富を生み出すことによってのみ、文明は維持されてきたわけです。
悲観主義にもとづく行動指針は、予防原則として知られています。例えば、CO2を排出していたら地球温暖化が進むのでCO2の排出を減らすため生活水準を落とすべきだ、という発想が当てはまります。しかし、仮に予想と反して来年から地球が寒冷化したらどうするのでしょうか。自然由来だから対処する必要がない、という考え方は偏狭です。私たちは常に予測可能性の地平の向こうに思考を巡らせ、技術開発を行い、テクノロジーを発達させなければなりません。パンデミック、隕石衝突、ガンマ線バースト、太陽の赤色巨星化なども克服していく必要があります(注:本書原書は2011年,邦訳は2013年)。人類は宇宙的枠組みで重要です。スティーブン・ホーキングの説く、⼈間は「典型的な銀河の外縁部にある、平均的な恒星を回る中規模の惑星の上に⽣じた化学物質の浮きカスに過ぎない」という認識は間違っています。数十億年後の太陽の色は、人間の選択次第です。
ドイチュは楽観主義の原理を以下のように提示します。
【いかなる悪も知識が不十分なために生じる】
また、 すべての物理的変換現象は
・自然法則によって禁じられているために不可能である
あるいは
・適切な知識があれば達成可能である
のどちらかであるはずです。そして、より深い説明は新たな問題を提示します。すなわち、そこから以下の二つの原理が示されます。
【問題は避けられない】
【問題は解決できる】
ドイチュに言わせれば、イギリス啓蒙思想はこの二つを理解していたのに対し、ヨーロッパの啓蒙思想は後者を理解し前者を理解できていませんでした。理想郷を目指して恐怖政治に陥った急進派を生み出したのはこの誤りが原因です。
物理法則で禁じられているものの中には、並行宇宙間での情報通信、一部の数学証明問題の証明、将来のテクノロジーや重大変化の予測、などがあります。物理法則で禁じられていることがあることは、無限の進歩を阻害する要因ではなく、必要条件です。
人間の死は悪であり、物理法則では不死は禁じられておらず、したがって解決可能です。これができないと考えるのは偏狭思考です。コンピューターが意識をもつことも同様に、実現可能です。道徳的価値基準を含め、私たちは無限に進歩することができるのです。
無限の始まり : ひとはなぜ限りない可能性をもつのか (日本語) 単行本 – 2013/10/29
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本の長さ616ページ
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言語日本語
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出版社インターシフト
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発売日2013/10/29
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寸法19.4 x 14.2 x 4.2 cm
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ISBN-104772695370
-
ISBN-13978-4772695374
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
人間はなぜ限りない可能性をもつのか?多宇宙と量子物理学の核心とは?生命が遺伝暗号DNAへ飛躍した謎とは?―『世界の究極理論は存在するか』で、“知”の衝撃をもたらしたドイッチュ、超弩級の新展開!年間ベスト科学本(ニューサイエンティスト誌)、年間最重要作(ニューヨーク・タイムズ紙)。
著者について
オックスフォード大学の物理学教授、同校の量子計算研究センターに所属。英国王立協会の特別会員。量子計算・量子コンピュータのパイオニアにして、並行宇宙論の権威、多世界解釈の主唱者として知られる。かつてホーキングやペンローズも受賞したディラック賞を受賞。既刊書は、『世界の究極理論は存在するか』(朝日新聞社)。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ドイッチュ,デイヴィッド
オックスフォード大学の物理学教授、同校の量子計算研究センターに所属。英国王立協会の特別会員。量子計算・量子コンピューターのパイオニアにして、並行宇宙論の権威、多世界解釈の主唱者として知られる。かつてホーキングやペンローズも受賞したディラック賞を受賞。著書『無限の始まり』は、ニューサイエンティスト誌による「年間ベスト科学本(Best 10、2011)」、ニューヨーク・タイムズ紙による「年間最重要作(Best 100、2011)」を獲得(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
オックスフォード大学の物理学教授、同校の量子計算研究センターに所属。英国王立協会の特別会員。量子計算・量子コンピューターのパイオニアにして、並行宇宙論の権威、多世界解釈の主唱者として知られる。かつてホーキングやペンローズも受賞したディラック賞を受賞。著書『無限の始まり』は、ニューサイエンティスト誌による「年間ベスト科学本(Best 10、2011)」、ニューヨーク・タイムズ紙による「年間最重要作(Best 100、2011)」を獲得(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : インターシフト (2013/10/29)
- 発売日 : 2013/10/29
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 616ページ
- ISBN-10 : 4772695370
- ISBN-13 : 978-4772695374
- 寸法 : 19.4 x 14.2 x 4.2 cm
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Amazon 売れ筋ランキング:
- 234,427位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2019年12月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
Amazonのレビューを見ると抽象的なものが多いが、これには意味がある。書き方や論理展開に癖がある(課題提起しながらトピック毎の具体的な解決策を提示しないまま次に進む、列挙した話の内筆者がどれをなぜ支持するのか曖昧なまま先に進む等)ので、正しい方法で読まないと世界平和レベルの内容しか頭に残らないのだ。
私も初回読んだときメッセージがまったく頭に入らず、個別の記述は面白いものの、結局要点を人に説明できるレベルに到達できなかった。色々試した末、面白く読めてかつ主旨も理解できた方法があるので紹介したい。
まず長すぎないまとめサイトをいくつか読む。ここで本の大まかな流れと要点を把握する。詳細にハマる必要はないが、重要そうな概念はググって理解しておく。
次に目次で筆者の経歴から、本業とエッセイ的に書いている部分の位置付けを分ける。例えば科学哲学や物理、またはその歴史に関する部分は強いが、政治やAI、人間とは的な哲学などはエッセイ的に意見を述べているだけのことが多いので同等に扱わないようにする(読む際の優先度や強弱、情報や意見の期待値は下げる)。
上記の準備を経た上で、時間があれば全部読めば良い。ただし本筋を失わないように、この章は本を通して伝えたいことのどの部分をどの立場から表現しているのか、を定期的に整理する。
効率的に質の高い学びだけ得たい場合は、上記で優先度を高く設定した部分、この本から得られる価値がもっとも高い部分だけを読む。私の主観も入るが、オススメは第1・3・4・8・12・15・16章だが、ある程度理系的な興味があれば11も面白いと思う。
個人的には後者の方法で読み、他の章で扱われている領域は、より詳しく整理された書籍で学んだ方が効果的だと思う。
私も初回読んだときメッセージがまったく頭に入らず、個別の記述は面白いものの、結局要点を人に説明できるレベルに到達できなかった。色々試した末、面白く読めてかつ主旨も理解できた方法があるので紹介したい。
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次に目次で筆者の経歴から、本業とエッセイ的に書いている部分の位置付けを分ける。例えば科学哲学や物理、またはその歴史に関する部分は強いが、政治やAI、人間とは的な哲学などはエッセイ的に意見を述べているだけのことが多いので同等に扱わないようにする(読む際の優先度や強弱、情報や意見の期待値は下げる)。
上記の準備を経た上で、時間があれば全部読めば良い。ただし本筋を失わないように、この章は本を通して伝えたいことのどの部分をどの立場から表現しているのか、を定期的に整理する。
効率的に質の高い学びだけ得たい場合は、上記で優先度を高く設定した部分、この本から得られる価値がもっとも高い部分だけを読む。私の主観も入るが、オススメは第1・3・4・8・12・15・16章だが、ある程度理系的な興味があれば11も面白いと思う。
個人的には後者の方法で読み、他の章で扱われている領域は、より詳しく整理された書籍で学んだ方が効果的だと思う。
2013年11月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
目次をみると余りにも多分野にわたる内容で、ちょっと風呂敷広げすぎでは?と思えた。だが、読み進むにつれ、こうした「?」はだんだん溶解していく。どれも強固な論理でつながっている。「多宇宙」も「花の美しさ」も「人工知能」も「政治の選択」も。
その骨子をなすのは、科学的な実在論、ミームまで含めたネオ・ダーウィニズム、反証主義や可謬主義、多宇宙論に至る量子物理学・・・などなど。とはいえ、本書で刮目すべきなのは、こうした多領域を統合する力業だけではない。きわめてクールで論理的なのに、デモニーッシュ(魔神的)なまでの熱さ、創造的な破壊力を抱えていることだ。
それは第17章の「持続不可能(見せかけの持続可能性の拒否)」に凝縮されている。ここではジャレド・ダイアモンドへの真っ向勝負の批判とともに、持続可能性は良いことだとする私たちの「良識」が揺さぶられるだろう。
また、今日、私たちはさまざまな限界や決定不能性に陥っているように見える。理性の限界、成長の限界、ゲーデルやアローなどが示した定理・パラドックス、量子力学の不確定性原理・・・本書はこうした限界やパラドックスも検証しつつ、私たちには限りない可能性があり、「無限の始まり」に開かれていることを説き明かすのだ。
近年希にみる問題作であることは間違いない――肯定するにせよ、否定するにせよ、熟慮すべき深遠な思索がここにはある。なお、たまたまだろうか、ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか?』(「第7章 多宇宙論の鬼才」は、ドイッチュ宅への訪問記だ)、ジョン・D・バロウ『無の本』と、<存在(実在)と無(無限)>をめぐる訳書の刊行が重なった。併読をおすすめしたい。
その骨子をなすのは、科学的な実在論、ミームまで含めたネオ・ダーウィニズム、反証主義や可謬主義、多宇宙論に至る量子物理学・・・などなど。とはいえ、本書で刮目すべきなのは、こうした多領域を統合する力業だけではない。きわめてクールで論理的なのに、デモニーッシュ(魔神的)なまでの熱さ、創造的な破壊力を抱えていることだ。
それは第17章の「持続不可能(見せかけの持続可能性の拒否)」に凝縮されている。ここではジャレド・ダイアモンドへの真っ向勝負の批判とともに、持続可能性は良いことだとする私たちの「良識」が揺さぶられるだろう。
また、今日、私たちはさまざまな限界や決定不能性に陥っているように見える。理性の限界、成長の限界、ゲーデルやアローなどが示した定理・パラドックス、量子力学の不確定性原理・・・本書はこうした限界やパラドックスも検証しつつ、私たちには限りない可能性があり、「無限の始まり」に開かれていることを説き明かすのだ。
近年希にみる問題作であることは間違いない――肯定するにせよ、否定するにせよ、熟慮すべき深遠な思索がここにはある。なお、たまたまだろうか、ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか?』(「第7章 多宇宙論の鬼才」は、ドイッチュ宅への訪問記だ)、ジョン・D・バロウ『無の本』と、<存在(実在)と無(無限)>をめぐる訳書の刊行が重なった。併読をおすすめしたい。
2013年12月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
人間の持つ創発性・アイデアに焦点を当てた科学哲学本でとてもおもしろかった。
人類史の中ではある種の転換点となる強力なアイデアがあり(たとえば0の発明なんか)
それらのシンプルで普遍的なリーチの長い「良い説明」はミームとしても強力な無限の始まりとして機能するとか。
無限とは始まりがあるが終わりは無いもので、人類の進歩も新たな問題を生み出しながら(問題は避けられないので)、「悪い説明」を排除し、批判し、解決していく事で無限に続けていけるという。
なか見検索!で見られる参考文献にも載っているが、ポパーの論やミーム論の多くを下敷きにしている。
本書の中で取り上げられる「無限の始まり」はいくつかあるがその全ては良い説明を生み出す良い方向への変化だ。
ドイッチュは批判を重要視しており、プラトン、デカルトやカントやウィトゲンシュタイン、ファインマンなど過去の偉人や、ホフスタッター、ブラックモア、ホーキング、ドーキンスなど現代の人物の意見も取り上げて「悪い」部分には批判も加えていてなかなかおもしろい。
特にジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』『文明崩壊』に関しては本書で取り上げる、いくらでも変更が可能でリーチの短い「悪い説明」の条件に多くの部分が当てはまっているので、かなり痛烈な批判を加えている。
ここまで多岐にわたって論じて、批判を加えている本も無いような気がする。
著者は物理学者なので、多宇宙や量子論などの知識も色々と面白く、主張だけでなくエッセイ的にも考えさせられるところが多くて光る文章があっておもしろい。例えば
”宇宙のスケールに自らは取るに足りない存在だと感じさせられて、落ち込んでしまう人もいる。一方で、自分が取るに足らない存在だと感じることで安心する人もいるが、それはいっそう悪い。
しかしいずれにしても、そのように感じるのは誤りである。(略)
宇宙はわれわれを圧倒するためにそこにあるのではない。宇宙はわれわれの家であり、リソースである。大きければ大きいほど良いのである。”
人間中心的な誤りを批判しつつ、人間を中心に据え無限の可能性を論じる本書はなかなかアツい。
途中抽象的な部分も結構あったが目次に興味を引く部分があったら読んでみて損は無いと思う。
人類史の中ではある種の転換点となる強力なアイデアがあり(たとえば0の発明なんか)
それらのシンプルで普遍的なリーチの長い「良い説明」はミームとしても強力な無限の始まりとして機能するとか。
無限とは始まりがあるが終わりは無いもので、人類の進歩も新たな問題を生み出しながら(問題は避けられないので)、「悪い説明」を排除し、批判し、解決していく事で無限に続けていけるという。
なか見検索!で見られる参考文献にも載っているが、ポパーの論やミーム論の多くを下敷きにしている。
本書の中で取り上げられる「無限の始まり」はいくつかあるがその全ては良い説明を生み出す良い方向への変化だ。
ドイッチュは批判を重要視しており、プラトン、デカルトやカントやウィトゲンシュタイン、ファインマンなど過去の偉人や、ホフスタッター、ブラックモア、ホーキング、ドーキンスなど現代の人物の意見も取り上げて「悪い」部分には批判も加えていてなかなかおもしろい。
特にジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』『文明崩壊』に関しては本書で取り上げる、いくらでも変更が可能でリーチの短い「悪い説明」の条件に多くの部分が当てはまっているので、かなり痛烈な批判を加えている。
ここまで多岐にわたって論じて、批判を加えている本も無いような気がする。
著者は物理学者なので、多宇宙や量子論などの知識も色々と面白く、主張だけでなくエッセイ的にも考えさせられるところが多くて光る文章があっておもしろい。例えば
”宇宙のスケールに自らは取るに足りない存在だと感じさせられて、落ち込んでしまう人もいる。一方で、自分が取るに足らない存在だと感じることで安心する人もいるが、それはいっそう悪い。
しかしいずれにしても、そのように感じるのは誤りである。(略)
宇宙はわれわれを圧倒するためにそこにあるのではない。宇宙はわれわれの家であり、リソースである。大きければ大きいほど良いのである。”
人間中心的な誤りを批判しつつ、人間を中心に据え無限の可能性を論じる本書はなかなかアツい。
途中抽象的な部分も結構あったが目次に興味を引く部分があったら読んでみて損は無いと思う。
2014年2月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本は一見、ポパーの哲学を敷衍しているように見える。
しかしそうではない部分も多い。例えばポパーは多世界解釈(多宇宙理論)には明確に反対していたし、
人間の意識が計算的に記述、再現し得るというアイディアにも異を唱えていた。
また無節操な相対主義にも疑問を呈していた。
そういった点から見て、ドイッチュとポパーは違う。
あたかもフリードマンとハイエクのように。
後継者の方がラディカルになるらしい。
批判ばかりでは得るところが無いので興味深かった点を挙げると、
普遍性への飛躍による進化論の説明が面白かった。
どの章についても言えるが特に進化を扱った部分は、それだけでまた別に一冊の著作が出来そうだ。
多宇宙の章は少し盛り上がらない感じがする。
通読して思うのは、一般に科学には基礎となる価値の基準が暗黙に存在するが、
この著作にはそれがない。
例えばポパーなら人類の幸福が前提になっているが、ドイッチュにはそれがない。
この意味ではドイッチュはポパーよりもケルゼンに似ている。
いや、ベンサムの匂いかも知れない。
事実に関して明らか誤りもある。
日本軍が人体実験のために虐殺をしたとか、二酸化炭素により温暖化しているとかである
(前者は明らかな虚偽であり、後者は因果関係が明らかでない)。
訳は三名で分担しているが、分かりにくい所もあった。
例えば562頁「彼の排除がこの進歩を抑制する革新を是正せず…」など。
また恐らくは数百冊には上るだろうと思われる参考文献も存外に少なく、詳しく紹介して欲しかった。
それでも読む価値はかなり高いと思います。
しかしそうではない部分も多い。例えばポパーは多世界解釈(多宇宙理論)には明確に反対していたし、
人間の意識が計算的に記述、再現し得るというアイディアにも異を唱えていた。
また無節操な相対主義にも疑問を呈していた。
そういった点から見て、ドイッチュとポパーは違う。
あたかもフリードマンとハイエクのように。
後継者の方がラディカルになるらしい。
批判ばかりでは得るところが無いので興味深かった点を挙げると、
普遍性への飛躍による進化論の説明が面白かった。
どの章についても言えるが特に進化を扱った部分は、それだけでまた別に一冊の著作が出来そうだ。
多宇宙の章は少し盛り上がらない感じがする。
通読して思うのは、一般に科学には基礎となる価値の基準が暗黙に存在するが、
この著作にはそれがない。
例えばポパーなら人類の幸福が前提になっているが、ドイッチュにはそれがない。
この意味ではドイッチュはポパーよりもケルゼンに似ている。
いや、ベンサムの匂いかも知れない。
事実に関して明らか誤りもある。
日本軍が人体実験のために虐殺をしたとか、二酸化炭素により温暖化しているとかである
(前者は明らかな虚偽であり、後者は因果関係が明らかでない)。
訳は三名で分担しているが、分かりにくい所もあった。
例えば562頁「彼の排除がこの進歩を抑制する革新を是正せず…」など。
また恐らくは数百冊には上るだろうと思われる参考文献も存外に少なく、詳しく紹介して欲しかった。
それでも読む価値はかなり高いと思います。