映画関連書籍としては久々に読み応えのある本だ。映画史家・四方田犬彦氏による映画監督・内田吐夢(1898-1970)についての作家論である。
本書を手に取る人、本拙レビューを今お読みになっている人は当然、内田吐夢に関してはよくご存知であろうし、代表作「飢餓海峡」(1965年、東映)を始めとする吐夢芸術に親しんでこられた方が大半であろうから、釈迦に説法にはなってしまうが、世間には、海外での評判やら権威筋の評価やらの上にあぐらをかくだけの怠惰な映画ジャーナリズムの言説を鵜呑みにし、ジャーナリズムが漫然と神格化してきた小津、黒澤、溝口、成瀬の4人以外の監督には目もくれない従順な人たちが大勢を占めている中にあっても、なお、この4人の映画にどこか物足りなさを感じ、日本映画のさらなる高峰を探して登ってみたいとの欲求をお持ちの方もいるであろうし、そういう方がたまたま本サイトを覗いて拙レビューをお読みになるかもしれんので、まずは内田吐夢について簡単に紹介しておく。
内田吐夢は、1898年、岡山の出身。本名は内田常次郎。溝口健二、伊藤大輔と同年齢である。小津安二郎(1903年生れ)の先輩、黒澤明(1910年生れ)の大先輩にあたる。幼少期に横浜のピアノ工場に丁稚奉公に出されるも、愚連隊に加わり、背が高く日本人離れした風貌から「波止場のトム」と呼ばれ、その後もルンペンをしたり、旅芸人一座に加わって全国を放浪したりした後、最終的に映画界に流れ着き、愚連隊時代の通称をもじって吐夢と名乗った。当初は俳優、その後すぐに監督に転じ(1922年、監督デビュー)、1920年代の日本映画黎明期(サイレント映画)に頭角を現し、1930年代には日本映画を代表する巨匠へと上りつめるも、生来の放浪癖が頭をもたげたのか、敗戦直前の1945年5月、家族を東京に残し、単身で満州へわたる。敗戦ならびに満州国崩壊時には満映の甘粕理事長(「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じた人物)の死に立会い、その後は家族の待つ祖国への帰還を拒否し、内戦から新国家建設期の中国に残って辛酸をなめた。1953年、身も心もボロボロになって帰国。伊藤大輔、小津安二郎、清水宏ら友人・後輩たちの協力を得て1955年に映画界に復帰。帰国第一作目の「血槍富士」以降、主に東映を基盤に数々の名作(「大菩薩峠」3部作(1957~59年)、「森と湖のまつり」(1958年)、「浪花の恋の物語」(1959年)、「妖刀物語・花の吉原百人斬り」(1960年)、「宮本武蔵」5部作(1961~65年)、「恋や恋なすな恋」(1962年)、「飢餓海峡」(1965年)等々)を世に送りだした。1965年、「宮本武蔵」5部作の最終話を完成させた後、再び放浪癖が頭をもたげたらしく、東映を離れ、京都に建てた家(大島渚が東映で「天草四郎時貞」(1962年)を撮った際に招待されたエピソードをどこかで書いている)を売り払い、東京・幡ヶ谷の家も家族に差し出し、自分自身は小田原駅にほど近い小さなアパートでの一人暮らしを続け、1970年、「真剣勝負」の製作中に亡くなった(遺作「真剣勝負」は未完ながら翌1971年に公開)。1976年刊行の「日本映画監督全集」(キネ旬)における内田吐夢の項での執筆者・竹中労氏の表現を借りれば、「私生活においても、ハッピーエンドを拒絶したのである」。
以上のように、波乱万丈、歴史の目撃者のような生涯ではあったが、映画監督としての内田吐夢は、後輩の小津、黒澤ほどには、今現在、映画ジャーナリズムの脚光を浴びていないのが実情である。その理由は3点ある。(1)戦前の代表作群(「生ける人形」(1929年)、「仇討選手」(1931年)、「人生劇場」(1936年)、「生命の冠」(1936年)、「裸の町」(1937年)、「限りなき前進」(1937年)、「土」(1939年)等)のフィルムが散逸してしまったため、全体像がわからない。(1970年代までは、南部圭之助氏、滋野辰彦氏、淀川長治氏など戦前の吐夢作品を知る映画評論家がいたが、それぞれ亡くなってしまい、生き証人がいない。「土」に関しては、戦前にドイツに輸出したフィルムが戦火の中を生き延びてソ連経由で戻ってきたが、2時間20分のオリジナル版のうち、冒頭とラストが消失した1時間30分の不完全な短縮版でしか観ることができない。しかし短縮版の映像からだけでも、完全版の恐ろしいまでの水準の高さは想像できる。) (2)本書でも詳しく書かれているように、敗戦直前に中国大陸にわたり、敗戦後も帰国せずに1953年まで中国に留まったことにより、1950年代前半の日本映画黄金期(小津「東京物語」、黒澤「七人の侍」、溝口「雨月物語」等)の一翼を担えなかった。(3)吐夢作品の根底には、常に棄民・差別の問題があるが、それが直截にではなく遠回しに描かれ、しかもヒューマニズムや勧善懲悪を必ずしも肯定しない作風(それは映画監督になるまでの数奇な体験や、戦後の中国残留期での過酷な体験を投影したものであることは本書でも分析されている通り)が、今どきの、画面に映っているものしか見ようとしない評論家には理解されないのであろう。 以上の三つの理由から不当に過小評価されているせいで、作品のソフト化も遅れている。DVDが発売されているのは「飢餓海峡」、「森と湖のまつり」、「大菩薩峠」3部作、「宮本武蔵」5部作、「浪花の恋の物語」、「人生劇場・飛車角と吉良常」、「血槍富士」、「たそがれ酒場」ぐらいのもので、「妖刀物語・花の吉原百人斬り」も「恋や恋なすな恋」も、遺作となった「真剣勝負」もDVD化されていない。(「花の吉原百人斬り」はフランスでDVD化されている。「飢餓海峡」「血槍富士」と併せたBOX。さすがは文化先進国フランスだ。) さらに前述の通り、戦前の代表作が消失しているために全貌がつかめないことに加えて、遠回しなテーマ表出ゆえ研究者に敬遠されているためか、研究書の出版も遅れている。内田吐夢関連の書籍として思い当たるものとしては、まず本人による自伝(と言うか覚書)「映画監督五十年」(三一書房、1968年。日本図書センター、1999年)、「飢餓海峡」の助監督を務め、カット事件にも当事者として立ち会った太田浩児氏による「夢を吐く」(社会思想社、1985年)、17回忌を機に編まれた関係者の追悼文集「吐夢がゆく」(吐夢地蔵有志会、1986年)、戦後の吐夢映画の脚本を担当した鈴木尚之氏による「私説・内田吐夢伝」(岩波書店、1997年。岩波現代文庫版、2000年)、雑文・対談・関係者による思い出話を集成した「「命一コマ」 映画監督内田吐夢の全貌」(エコールセザム、2010年)、満映で映画編集者をしていた岸富美子氏からの聞き書きで、中国残留時代の内田吐夢の動向に触れた貴重な本「満映とわたし」(文藝春秋、2015年)ぐらいのもので、本欄の内容紹介にあるように「日本映画史上最大の巨匠のひとりでありながら、正面から論じられてこなかった」。本書は、上述の書籍のエッセンスをすべて取り込み、また関係者からの著者の直接の聞き取りも織り込んだ上で、宗教学を学んだ著者の教養と映画知識を総動員して、主に中国残留体験が戦後の吐夢作品にどのように作用していったのかを分析した、今現在では唯一無二の内田吐夢論である。内容紹介にある「(吐夢の)軌跡と作品、その核心にはじめて挑む記念碑的な力編」との文言は、決して誇大広告ではない。
著者の四方田犬彦氏は、かつて大学の先生であった。大学の先生すなわち学者による映画論と云うと、画面だの音だの、やたらに細かい部分をあげつらい、「奇跡的な演出」なんぞと文学的な修辞で特定の監督を褒めちぎる一方、実はそれが真の狙いであるかのように、他の監督を無能だの凡才だのと上から目線で貶してみたり、そういう独断と偏見を受け入れないであろう映画ファンに向かっては、「映画を見る目が無い」だの「映画について語る資格が無い」だのと、映画鑑賞にまで偏差値を持ちこんで優劣をつけたがるような、嫌味な権威主義の匂いがして不愉快になるものが多いんだが、四方田氏は学者でありながら、その手の「小難しく気取った言葉遊び」とは無縁の、実にわかりやすい文章を書く人で、なによりも作家の人生、作家と作家が生きた時代との相克にまで踏み込んで芸術の全体像を捉えようとする巨視的批評眼を持っている人なので、時代に翻弄され時代と格闘し、四方田氏が喝破しているように「無明の中で光明を探ること」をおのれの芸術の主題とした、小利口なインテリの小手先の言葉遊びなんぞではとてもじゃないが太刀打ちできない文字通りの巨匠(と云うよりも、巨人といった方がふさわしい)である内田吐夢の作家論を書くにあたっては、まさに打ってつけの書き手であると言える。思えば、かつての映画論はそうした人物・作品論が主流だった。佐藤忠男氏、田山力哉氏を始め、批評の矛先を映画の画面の中だけに収めることなく、作家の人間性、作家の活きた時代、文化的伝統にまで筆致を及ばせながら芸術の全体像を捉えようとしていた。四方田氏も、あとがきでこう述べておられる。「日本の監督たちをトリュフォーやジョン・フォードと同じくらい美しいとか、すばらしいと賛美するだけですんだ牧歌的な時代は、とうに終焉を迎えている。日本映画を築き上げてきた背後の文化的蓄積について、いささかも言及しないまま一本のフィルムの美と感動を説得的に語ることが、はたして今後も可能なのだろうか。映画を造る側の監督や俳優、スタッフばかりでなく、造られたフィルムを受容して来た観客の心性の歴史を問わなくてもよいのだろうか。すでに評価の定まった映画作家の作品について、いくたびもDVDで細部を確認し、精緻な分析を施すだけで、映画を研究したことになるのだろうか。すべてありえないことだと、わたしは思う。」(P.361~362) 全面的に賛同する。作者の依って立つ思想的基盤、人生経験、そういったものを遡上に載せて作品との関係性を分析せずして、この画面はどうだの、この音はどうだの・・・、フランス料理を味わっているわけじゃないんだからさ、映画鑑賞ってのは。その点で、1980年代から2010年代までの40年間は映画批評の不毛時代であり、批評が不毛であるがゆえに映画のスケールもどんどん小さくなっていった日本映画の終末期である。本書を機に、かつてのような巨視的な映画論が復権し、映画もかつての勢いを回復していくことを望みたい。
個人的な吐夢映画体験を述べておく。私が内田吐夢の名前を初めて知ったのは、中学生の頃、テレビで「飢餓海峡」が二週にわけて放映された時である。この世の中に、これほどまでにスケールが大きくて深い映画が存在したのかと驚嘆した。その後、東京・京橋のフィルムセンターに出かけた折に購入した「内田吐夢回顧上映」のカタログに記載のフィルモグラフィーから、小学生の頃にテレビで観て、やはりその大きさと深さに強く惹きつけられた「大菩薩峠」3部作が、吐夢作品であったことを知った。さらに1975年秋、東京銀座の丸の内東映で「飢餓海峡」完全版(3時間強。1965年の初公開時は、いくつかの映画館を除き、2時間50分のカット版を上映)がリバイバル上映された際に初めて大画面で鑑賞したが、テレビで二週に分かれて鑑賞した時以上に(当たり前だが)、社会と人間の営みを丸ごと捉えるようなスケールの大きさ、人物描写・キャラクタリゼーションの深さ、画面全体を覆う虚無感とでも言うような独特の荒涼とした空気に圧倒された。その後だいぶ経ってからのことだが、1960年代に観ていた伊吹吾郎主演のテレビドラマ「無用ノ介」の監修を務めていたのが吐夢であり、毎回冒頭で繰り返される、山伏の集団の中から無用ノ介が現れる、異様な迫力のオープニング映像を演出したのも吐夢だったと聞いた(この点については真偽未確認)。要するに、私は幼少期から一貫して吐夢フリークなのである。黒澤、溝口、大島渚、若松孝二らの作品群を集中的に追いかけた時期もあったが、結局最後は、吐夢に舞い戻った。吐夢作品の、あの大きさ、深さ、独特の荒涼とした空気はいったいどこから来るものなのか、長年気になっていた。そのヒントは、本書(P.25)でも引用されている「映画監督五十年」における野辺の送りの場面であるが、数年前に出版された「満映とわたし」での岸富美子氏の証言により、中国残留時代の吐夢のなめた辛酸、極限状況下の人間が見せる醜さ・弱さ、その悲惨な状況をより具体的に知ることができた。本書は、それらを戦後復帰後の個々の吐夢作品と結びつけて分析した、私にとっては待ち望んだ本である。しかも著者の四方田氏には、吐夢と並んで私が敬愛してやまないパゾリーニやブニュエルに関する著作もあり、かねてより今どき吐夢論を書くのなら四方田氏しかいないと思っていたので、本書の出版情報を目にして以来、発売を待ちわびていたのである。
本レビュー冒頭で、内田吐夢を「日本映画のさらなる高峰」と書いた。この40年ほどの間、この高峰は厚い雲(前述3つの理由による自然雲、怠惰な映画ジャーナリズムが作った人工雲)に覆われてなかなか姿を現さなかった。注意深く観察しなければ、そこに山があることにすら気づかない人が多かった。高峰の輪郭が麓からでも見えるように、厚い雲を吹き飛ばすべく吹いた一陣の風、それが本書だ。ただ、本書の意義は別にして、「吐夢論」ということに関してだけ言えば、遅すぎた感も無いではない。戦前の吐夢作品は、依然として闇の中である。直にそれらを観てきた人、前掲の滋野辰彦氏辺りがもっと早く書いていてくれればとも思うが、昔の映画評論家は個別の作品批評が中心のようで、作家論はあまりお書きにならなかったようである。そこで戦後の評論家ということになるわけだが、やはりこの分野の第一人者と云えば、佐藤忠男氏である。なぜ佐藤さんは吐夢論をお書きにならなかったのだろうか。戦前の映画を端折っての吐夢論は片手落ちと感じて手を付けなかったのか。もう一人が竹中労氏である。前述の「日本映画監督全集」(キネ旬、1976年)でも内田吐夢の項を執筆し、いろいろな紙面で「妖刀物語・花の吉原百人斬り」を生涯のベストワン映画として挙げておられたように、氏もまた内田吐夢フリークであった。1970年代前半、白井佳夫編集長時代のキネ旬に連載していた「日本映画縦断」も、1930年前後の傾向映画から、満映、そして戦後の東映、現代(1970年代当時)の「仁義なき戦い」へとつながるもう一つの日本映画史の試みであり、その陰の主役として、内田吐夢を想定していたのではなかろうか。1976年、白井氏の解任と同時に連載打ち切りになってしまったが、日本映画史研究にとっての損失は計り知れない。もっとも、それ以上に、戦前の吐夢作品が散逸せずに残っていれば、また完全な形で復元されていれば、いささか神格化され過ぎている戦後の巨匠連の評価も一変してしまっていたに違いないのだが。日本映画史には損失が多すぎる。
最後に蛇足だが、かつて文藝春秋のPR誌「本の話」というのがあって、その中に座談会形式の書評コーナーがあったんだが、鈴木尚之氏の「私説・内田吐夢伝」を俎上に載せた際(1997年に刊行された本なので、その頃)、書評メンバーの内の一人の、団塊の世代で漫画の原作を書いたり軍事政権下の韓国や金丸訪朝団後の北朝鮮に観光に出かけて旅行記を書いたりした文筆業者のS氏が、「飢餓海峡」について、「青函連絡船が廃止された後の今の人は、内容にピンと来ないのではないか(意訳)」「小津安二郎ほどの深さは無い」なんぞとエラそうにノタマっていた。「薄味の旅行記しか書かん野郎が何を言ってやがる」「こんな思慮の浅いことを言っているようでは、コイツも物書きとしては大成せんだろうな」と感じたが、結局やっこさん、70歳近くなった今になっても、大きな仕事を成し遂げた気配は無い。映画鑑賞のみならず、すべての芸術鑑賞はあくまでも個人的体験であり、作る側の人生と観る側の人生とが、作品の創造と鑑賞と云う関係を通して一対一で格闘するものだと思っている私にとっては、吐夢と小津のどちらが「深い」かなんて設問自体が愚問だが、あの文筆業者S氏が、想像を絶するほど「浅い」人物だということだけは、その時点で確信した。あんたが生まれた頃、吐夢は中国の寒風吹きすさぶ辺境の地で地獄を見ていたんだよ。地獄を見たこともない奴が、軽々しく「深さは無い」などと言うな。まあ元々、あの世代にはやたらに声がでかくて威張っている奴が多いんだが、そんなものは経験の無さを隠すための鎧に過ぎない。
追記 上述の拙レビューは、本書の意義を強調しただけで終わってしまった感があるので、読後感を4点だけ述べておく。
(1)まず私の認識が改められた点。遺作「真剣勝負」については、ポーランド映画「パサジェルカ」と同様、吐夢の死後にスタッフが吐夢の意図に沿うように編集し、現在の形にまとめられた「未完の作品」との認識でいたが、本書によれば、病院の病室に編集機材を持ち込んで、吐夢自ら最終形態として完成させた作品とのことであった。(「真剣勝負」は、本書でも指摘されている「簡潔」を旨とする吐夢演出の真骨頂。まったく無駄のない傑作。病身をおして、しかも70歳を過ぎた高齢でこれほどエネルギッシュな映画を作った吐夢の執念に脱帽する。ラストの幼児の笑顔は、無明のなかで光明を探した吐夢の遺言に他ならない。)
(2)市川右太衛門主演「千両獅子」(1958年)、大友柳太朗主演「酒と女と槍」(1960年)については言及されていない。「千両獅子」は、右太衛門扮する義賊の活躍を描く作品だが、最後に官憲の追手を振り切り、船で東南アジアを目指す出航の場面で幕を閉じる。小説の後半にはあるものの映画では描かれなかった「大菩薩峠」の登場人物たちの理想郷を求めての東南アジア遠征、実際に五族協和のユートピアとして喧伝された満州、その無残な崩壊と地獄を味わった吐夢の体験、それらと「千両獅子」のラストとの関係性について、四方田氏の分析と見解が知りたかった。
(3)戦後の小津について、四方田氏はかなり厳しく評価しておられるようだ。「(内田吐夢と小津安二郎の)二人の監督の戦後はどうだったのか。簡潔に結論だけ述べておきたい。小津は日本人がスクリーンの上に見たいと思っている日本だけを、美しく、ときにノスタルジックに描いた。内田はあまりに長く日本を不在にしていたことも手伝ってか、戦後日本を表象することにきわめて慎重であった。だがひとたび心を決めると、日本人がなんとか忘れたいと思っている日本、目の当たりにしたくないと回避してきた日本を、あえてスクリーンの上に描いた。二人は盟友ではあったが、彼らの戦後作品を同列に論じることは、道徳的に許されることではない。」(P.347) 前述の、深い考えも無しに軽々しくクダラんことを口走る文筆業者S氏にぜひ読ませてやりたい文章ではあるが、はたして小津は「日本人がスクリーンの上に見たいと思っている日本だけを描いた」のだろうか。私の眼には、小津は「日本人が見たいと思っている日本」を抒情を排して冷やかに描くことで、「日本人が見たくないと思っている日本人の姿(固陋、利己、老残)」をも浮かび上がらせていたように映る。むしろ問題なのは小津ではなく、小津の「日本(を構成する家庭、家族の絆)に対する冷徹な視線」から目を背け、小津映画の中に「見たいと思っている日本」だけしか見ようとしない日本人であろう。そういう連中が、小津の行き過ぎた神格化に加担している。神格化されている小津は、かえってあの世で当惑しているのではなかろうか。(戦後の小津のフィルモグラフィーからは、「日本人が見たくないと思っている日本人像」を大人目線で冷やかに描いた重厚な作品と、「日本人が見たいと思っている日本」を前面に押し出した軽快な作品とを交互に作ってきたことが見て取れる。前者の代表が「東京暮色」で、後者の代表が「彼岸花」だ。後者は、いわば息抜きであろう。)
(4)準備段階で吐夢を無視した形で企画がとん挫した「野麦峠」に絡んで、四方田氏は女優・吉永小百合氏を否定的に見ておられる。「(現在の吉永氏は)内田吐夢などと云う名前は、とうに忘れてしまっただろう」(P.283)との見立てだが、2010年刊行の白井佳夫氏の「対談集・銀幕の大スタアたちの微笑」における吉永氏との対談では、「野麦峠」制作中止の経緯が語られており、また数年前にCSだったかで放映された吉永氏が選定した日本映画特集では、「飢餓海峡」が1本目に選ばれていた。こうした事実から、吉永氏は吐夢の名前を忘れておらず、悔悟の念をお持ちであるようにも推察される。
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