この作品をこの読む前に、本書の著者の「私にとって神とは」を読んでみた。
彼がクリリスチャンになった動機、きっかけを知りたかった為である。
理由は簡単で母親がクリスチャンであったため一緒に教会に連れられて行き洗礼をうけ
クリスチャンになっただけの理由であった。
従って、キリスト教に傾倒する気持ちは毛頭なかった。しかし人生経験を経る中で大病を
何度も患い、また様々な苦労を多く重ねるうちに、子供の頃に洗礼を受けた神についての考
えが繰り返し思い浮かぶようになり、作家となったいま、「神」について作家の目で著作し
てみたいと思う様になりこの「沈黙」を描き上げたそうだ。
前置きが長くなったが、この「沈黙」自体、彼のキリスト教に対しての非常に冷徹な
目で見た「キリスト」をテーマにしている。主人公ロドリゴはスペインの宣教師であり自
分の師で大変尊敬していたフェレイラ教父が日本に布教で送られ、結果的に布教に失敗
し、今では棄教してしまったと聞いた。そのことを自分の目で確かめる為日本にはるばる
ポルトガルよりやってきた。
フェレイラ師を探す中多くの隠れキリシタンに頼りにされ、又は助けられ師を探し求
める中、多くの隠れキリシタンが役人から死刑を含め各種の拷問を受ける光景を何度も
目撃する。
その都度ロドリゴは「神」に祈り、その拷問をやめさせてもらう様「祈る」が「神」は
一向にその兆候すらみせてはくれず「沈黙」を続けている。
そうしているうち、自分が探しているフェレイラ師と面会するチャンスが訪れる。
フェレイラ師が語る棄教の動機、経緯はロドリゴが経験したと同じ拷問、死刑を目撃し
同様に「神」にその救いをもとめるが、やはり「神」は「沈黙」を続けるばかりで何も
してくれなかった。フェレイラ師は自分が「棄教」する事により、多くの隠れキリシタン
を救えるなら、それこそ「神の御心」に沿うもので有り、形式的に「踏み絵」を踏み「棄
教」を装うが心の奥では未だに信仰を捨てずに持ち続けている事を知り、ロドリゴ自身も
「棄教」のまねごと「踏み絵」を踏んでしまう。
私の読後感としては主人公達の持つ信仰心はどの宗教についても言える事で、その
宗教の名前と形式のみが異なるだけである。
この本を読んだのは最初に記載した通り遠藤周作がなぜキリスト教(カソリック)を信
ずる様になった事であったが、これまた良くある結果でありチョットがっかりしてしま
った。祈りにより病気が治った、貧しかったものが人並みに暮らせるようになった等
色々な理由があると思うが、昔から多くの宗教に接してきてき「奇跡」を体感する機会
は残念ながら一度もなかった。昔一部の信仰は、入信して初めて「体験」出来る物との誘
いに乗りある宗教の信者となった事もあったが「自分の中の“信仰心“を満たしてくれる
「モノ」を感ずる事は一度もなかった。
この作品で遠藤周作が言いたかった事も「そんな簡単に奇跡など度々起こるものではな
く、宗教心は自分の心の中で“人生のよりどころ”として持つものであり、
何か絶対的な「モノ」を宗教の形をとって自分で考え、持ち続ける事」であると言ってい
る事を強く感じた。
この一冊では遠藤周作の真意を量り知る事は出来ず他の著作も今後
読んでみようと思っている。
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