この作品をこの読む前に、本書の著者の「私にとって神とは」を読んでみた。
彼がクリリスチャンになった動機、きっかけを知りたかった為である。
理由は簡単で母親がクリスチャンであったため一緒に教会に連れられて行き洗礼をうけ
クリスチャンになっただけの理由であった。
従って、キリスト教に傾倒する気持ちは毛頭なかった。しかし人生経験を経る中で大病を
何度も患い、また様々な苦労を多く重ねるうちに、子供の頃に洗礼を受けた神についての考
えが繰り返し思い浮かぶようになり、作家となったいま、「神」について作家の目で著作し
てみたいと思う様になりこの「沈黙」を描き上げたそうだ。
前置きが長くなったが、この「沈黙」自体、彼のキリスト教に対しての非常に冷徹な
目で見た「キリスト」をテーマにしている。主人公ロドリゴはスペインの宣教師であり自
分の師で大変尊敬していたフェレイラ教父が日本に布教で送られ、結果的に布教に失敗
し、今では棄教してしまったと聞いた。そのことを自分の目で確かめる為日本にはるばる
ポルトガルよりやってきた。
フェレイラ師を探す中多くの隠れキリシタンに頼りにされ、又は助けられ師を探し求
める中、多くの隠れキリシタンが役人から死刑を含め各種の拷問を受ける光景を何度も
目撃する。
その都度ロドリゴは「神」に祈り、その拷問をやめさせてもらう様「祈る」が「神」は
一向にその兆候すらみせてはくれず「沈黙」を続けている。
そうしているうち、自分が探しているフェレイラ師と面会するチャンスが訪れる。
フェレイラ師が語る棄教の動機、経緯はロドリゴが経験したと同じ拷問、死刑を目撃し
同様に「神」にその救いをもとめるが、やはり「神」は「沈黙」を続けるばかりで何も
してくれなかった。フェレイラ師は自分が「棄教」する事により、多くの隠れキリシタン
を救えるなら、それこそ「神の御心」に沿うもので有り、形式的に「踏み絵」を踏み「棄
教」を装うが心の奥では未だに信仰を捨てずに持ち続けている事を知り、ロドリゴ自身も
「棄教」のまねごと「踏み絵」を踏んでしまう。
私の読後感としては主人公達の持つ信仰心はどの宗教についても言える事で、その
宗教の名前と形式のみが異なるだけである。
この本を読んだのは最初に記載した通り遠藤周作がなぜキリスト教(カソリック)を信
ずる様になった事であったが、これまた良くある結果でありチョットがっかりしてしま
った。祈りにより病気が治った、貧しかったものが人並みに暮らせるようになった等
色々な理由があると思うが、昔から多くの宗教に接してきてき「奇跡」を体感する機会
は残念ながら一度もなかった。昔一部の信仰は、入信して初めて「体験」出来る物との誘
いに乗りある宗教の信者となった事もあったが「自分の中の“信仰心“を満たしてくれる
「モノ」を感ずる事は一度もなかった。
この作品で遠藤周作が言いたかった事も「そんな簡単に奇跡など度々起こるものではな
く、宗教心は自分の心の中で“人生のよりどころ”として持つものであり、
何か絶対的な「モノ」を宗教の形をとって自分で考え、持ち続ける事」であると言ってい
る事を強く感じた。
この一冊では遠藤周作の真意を量り知る事は出来ず他の著作も今後
読んでみようと思っている。
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沈黙(新潮文庫) Kindle版
| 価格 | 新品 | 中古品 |
「転びキリシタン」もまた、「神の子」なのか?
カトリック作家が描く、キリスト教文学の最高峰。
島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。
神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。
著者の言葉
長崎で見た、踏み絵の木枠についた指の跡のことを、東京へ帰ってからも私は忘れられませんでした。夕べに散歩する時、夜に酒を飲む時、黒い指跡が目に浮かびました。
そして三つのことを考え続けたのです。ひとつは、踏み絵を踏んだ時の気持ち。次に、踏んだのはどんな人だったろうか。そして、私がその立場にたたされたら踏むかどうか。
強い信念を貫き通すより、踏む可能性の方がはるかに高いと思ったな。拷問は苦しいだろうし、やはり家族まで殺されるのは可哀そうです。私は弱虫なのです。これは、今日会場にいらっしゃるみなさんの三分の二は私と同じだろうと思う。
小説というのは、やみくもに書くのではなく、自分の視点から書くものです。そして『沈黙』は、〈迫害があっても信念を決して捨てない〉という強虫の視点ではなくて、私のような弱虫の視点で書こうと決めました。弱虫が強虫と同じように、人生を生きる意味があるのなら、それはどういうことか――。これが『沈黙』の主題の一つでした。(「波」2016年10月号、講演採録より)
本書「解説」より
主人公の必死の祈りにもかかわらず、神は頑なに「沈黙」を守ったままである。果して信者の祈りは、神にとどいているのか、いやそもそも神は、本当に存在するのか、と。
これは、キリスト教徒にとっては、怖ろしい根源的な問いであり、ぼくら異教徒の胸にも素直にひびいてくる悩みであろう。このモチーフを追いつめてゆく作者の筆致は、緊張がみなぎり、迫力にあふれていて、ドラマチックな場面の豊富なこの長篇の中でも、文字通りの劇的頂点をなしている。
――佐伯彰一(文芸評論家)
遠藤周作(1923-1996)
東京生まれ。幼年期を旧満州大連で過ごす。神戸に帰国後、12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て1955年「白い人」で芥川賞を受賞。結核を患い何度も手術を受けながらも、旺盛な執筆活動を続けた。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品や歴史小説、戯曲、映画脚本、〈狐狸庵もの〉と称されるエッセイなど作品世界は多岐にわたる。『海と毒薬』(新潮社文学賞/毎日出版文化賞)『わたしが・棄てた・女』『沈黙』(谷崎潤一郎賞)『死海のほとり』『イエスの生涯』『キリストの誕生』(読売文学賞)『侍』(野間文芸賞)『女の一生』『スキャンダル』『深い河(ディープ・リバー)』(毎日芸術賞)『夫婦の一日』等。1995年には文化勲章を受章した。
カトリック作家が描く、キリスト教文学の最高峰。
島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。
神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。
著者の言葉
長崎で見た、踏み絵の木枠についた指の跡のことを、東京へ帰ってからも私は忘れられませんでした。夕べに散歩する時、夜に酒を飲む時、黒い指跡が目に浮かびました。
そして三つのことを考え続けたのです。ひとつは、踏み絵を踏んだ時の気持ち。次に、踏んだのはどんな人だったろうか。そして、私がその立場にたたされたら踏むかどうか。
強い信念を貫き通すより、踏む可能性の方がはるかに高いと思ったな。拷問は苦しいだろうし、やはり家族まで殺されるのは可哀そうです。私は弱虫なのです。これは、今日会場にいらっしゃるみなさんの三分の二は私と同じだろうと思う。
小説というのは、やみくもに書くのではなく、自分の視点から書くものです。そして『沈黙』は、〈迫害があっても信念を決して捨てない〉という強虫の視点ではなくて、私のような弱虫の視点で書こうと決めました。弱虫が強虫と同じように、人生を生きる意味があるのなら、それはどういうことか――。これが『沈黙』の主題の一つでした。(「波」2016年10月号、講演採録より)
本書「解説」より
主人公の必死の祈りにもかかわらず、神は頑なに「沈黙」を守ったままである。果して信者の祈りは、神にとどいているのか、いやそもそも神は、本当に存在するのか、と。
これは、キリスト教徒にとっては、怖ろしい根源的な問いであり、ぼくら異教徒の胸にも素直にひびいてくる悩みであろう。このモチーフを追いつめてゆく作者の筆致は、緊張がみなぎり、迫力にあふれていて、ドラマチックな場面の豊富なこの長篇の中でも、文字通りの劇的頂点をなしている。
――佐伯彰一(文芸評論家)
遠藤周作(1923-1996)
東京生まれ。幼年期を旧満州大連で過ごす。神戸に帰国後、12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て1955年「白い人」で芥川賞を受賞。結核を患い何度も手術を受けながらも、旺盛な執筆活動を続けた。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品や歴史小説、戯曲、映画脚本、〈狐狸庵もの〉と称されるエッセイなど作品世界は多岐にわたる。『海と毒薬』(新潮社文学賞/毎日出版文化賞)『わたしが・棄てた・女』『沈黙』(谷崎潤一郎賞)『死海のほとり』『イエスの生涯』『キリストの誕生』(読売文学賞)『侍』(野間文芸賞)『女の一生』『スキャンダル』『深い河(ディープ・リバー)』(毎日芸術賞)『夫婦の一日』等。1995年には文化勲章を受章した。
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日1981/10/19
- ファイルサイズ407 KB
- UNSPSC-Code
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
キリシタン迫害史を背景とする緊迫のドラマの中に、神の存在を問い、信仰の根源を衝いて、西洋と日本の思想的対立を鋭くえぐり出す長編小説。谷崎潤一郎賞、ピエトロザク賞受賞。 --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。
出版社より
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 白い人・黄色い人 | 海と毒薬 | 留学 | 母なるもの | 彼の生きかた | 砂の城 | |
| 【新潮文庫】遠藤周作 作品 | ナチ拷問に焦点をあて、存在の根源に神を求める意志の必然性を探る「白い人」、神をもたない日本人の精神的悲惨を追う「黄色い人」。〈芥川賞受賞〉 | 何が彼らをこのような残虐行為に駆りたてたのか?終戦時の大学病院の生体解剖事件を小説化し、日本人の罪悪感を追求した問題作。〈毎日出版文化賞・新潮社文学賞受賞〉 | 時代を異にして留学した三人の学生が、ヨーロッパ文明の壁に挑みながらも精神的風土の絶対的相違によって挫折してゆく姿を描く。 | やさしく許す”母なるもの”を宗教の中に求める日本人の精神の志向と、作者自身の母性への憧憬とを重ねあわせてつづった作品集。 | 吃るため人とうまく接することが出来ず、人間よりも動物を愛し、日本猿の餌づけに一身を捧げる男の純朴でひたむきな生き方を描く。 | 過激派集団に入った西も、詐欺漢に身を捧げたトシも真実を求めて生きようとしたのだ。ひたむきに生きた若者たちの青春群像を描く。 |
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 悲しみの歌 | 沈黙 | イエスの生涯 | キリストの誕生 | 死海のほとり | 王国への道―山田長政― | |
| 戦犯の過去を持つ開業医、無類のお人好しの外人……大都会新宿で輪舞のようにからみ合う人々を通し人間の弱さと悲しみを見つめる。 | 殉教を遂げるキリシタン信徒と棄教を迫られるポルトガル司祭。神の存在、背教の心理、東洋と西洋の思想的断絶等を追求した問題作。〈谷崎潤一郎賞受賞〉 | 青年大工イエスはなぜ十字架上で殺されなければならなかったのか──。あらゆる「イエス伝」をふまえて、その〈生〉の真実を刻む。〈国際ダグ・ハマーショルド賞受賞〉 | 十字架上で無力に死んだイエスは死後”救い主”と呼ばれ始める……。残された人々の心の痕跡を探り、人間の魂の深奥のドラマを描く。〈読売文学賞受賞〉 | 信仰につまずき、キリストを棄てようとした男──彼は真実のイエスを求め、死海のほとりにその足跡を追う。愛と信仰の原点を探る。 | シャム(タイ)の古都で暗躍した山田長政と、切支丹の冒険家・ペドロ岐部――二人の生き方を通して、日本人とは何かを探る長編。 |
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 真昼の悪魔 | 王妃マリー・アントワネット〔上〕 | 王妃マリー・アントワネット〔下〕 | 女の一生 一部・キクの場合 | 女の一生 二部・サチ子の場合 | 侍 | |
| 大病院を舞台に続発する奇怪な事件。背徳的な恋愛に身を委ねる美貌の女医。現代人の心の渇きと精神の深い闇を描く医療ミステリー。 | 苛酷な運命の中で、愛と優雅さを失うまいとする悲劇の王妃。激動のフランス革命を背景に、多彩な人物が織りなす華麗な歴史ロマン。 | 幕末から明治の長崎を舞台に、切支丹大弾圧にも屈しない信者たちと、流刑の若者に想いを寄せるキクの短くも清らかな一生を描く。 | 第二次大戦下の長崎、戦争の嵐は教会の幼友達サチ子と修平の愛を引き裂いていく。修平は特攻出撃。長崎は原爆にみまわれる……。 | 藩主の命を受け、海を渡った遣欧使節「侍」。政治の渦に巻きこまれ、歴史の闇に消えていった男の生を通して人生と信仰の意味を問う。〈野間文芸賞受賞〉 |
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 夫婦の一日 | 満潮の時刻 | 十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。 | 人生の踏み絵 | 【単行本】影に対して | 【単行本】善人たち | |
| たびかさなる不幸で不安に陥った妻の心を癒すために、夫はどう行動したか。生身の人間だけが持ちうる愛の感情をあざやかに描く。 | 人はなぜ理不尽に傷つけられ苦しみを負わされるのか──。自身の悲痛な病床体験をもとに、『沈黙』と並行して執筆された感動の長編。 | 大作家が伝授する「相手の心を動かす」手紙の書き方とは。執筆から四十六年後に発見され、世を瞠目させた幻の原稿、待望の文庫化。 | もっと、人生を強く抱きしめなさい──。不朽の名作『沈黙』創作秘話をはじめ、文学と宗教、人生の奥深さを縦横に語った名講演録。 | 新発見された表題作は遠藤文学の鍵となる傑作だった──。あの時、私は母を棄てたのだろうか?いや、母と本当に別れることなど誰にもできはしない……。名品集。 | 戦前の米国で留学生が味わった悲劇を描く「善人たち」、名作を深く語り直す「戯曲 わたしが・棄てた・女」他、話題の新発見戯曲集! |
登録情報
- ASIN : B00BIXNMTO
- 出版社 : 新潮社 (1981/10/19)
- 発売日 : 1981/10/19
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 407 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効
- Word Wise : 有効にされていません
- 本の長さ : 254ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 12,338位Kindleストア (の売れ筋ランキングを見るKindleストア)
- カスタマーレビュー:
著者について
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(1923-1996)東京生れ。
幼年期を旧満州大連で過ごし、神戸に帰国後、11歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て、1955(昭和30)年「白い人」で芥川賞を受賞。
一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品、歴史小説も多数ある。主な作品は『海と毒薬』『沈黙』『イエスの生涯』『侍』『スキャンダル』等。1995(平成7)年、文化勲章受章。1996年、病没。
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カスタマーレビュー
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2019年11月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今は、キリスト教の信者が耐え難い迫害を受けて殺されるという時代ではないが、そういう時代に生きていた信者たちは、どのようにキリスト教と向かい合わなければならなかったか。
この点は不明な部分が多いが、「迫害されても殺されても、絶対にイエスを否定するな」というのが教会の教えだったのではないか。しかし、そんなことができるのは不屈の精神をもった一部の人間だけである。なのに、どうしてそんな無理難題を神は望むのか、神は本当にそんなことを望んでいるのか――というのが、本書が提起した問題である。
この問題に対する本書の回答もはっきりしない。だが私なりの理解に基づいていえば、「無理してイエスを肯定しなくてよい、やばくなったら踏み絵を踏んでいい」というのが本書の主張であり、著者が言いたかったことではないだろうか。
世の中には強い人間も弱い人間もいるが、キリスト教的な見方でいえば、誰でも例外なく罪を犯さざるをえない弱い存在である。イエスはすべての人間の罪を背負い、身代わりとなって苦痛を受けたのだから、理論的にいって、もはやわれわれが命の危険を冒してまでもイエスを肯定する必要は全然ないのである。だから堂々と踏み絵で踏んでよろしい(!)。
本書は小説だからこれでよいのだろう。しかし詰めて考えると、なかなか難しい話になる。脅されたら簡単に踏み絵を踏んでしまうような輩は、そもそもイエスを愛していないから、そんな人間を救う義理は神にはないだろう。だから、神が救うような人間は、最終的に踏み絵を踏むにしても、ぎりぎりまで苦しんで踏んだ奴ということになる。では、どのくらい苦しめばいいのか? 強くて真面目な人間は、イエスが悲しそうな顔をして「あなたは3度私を知らないというだろう」などとぼやいた聖書の例の嫌味なシーンが頭に浮かんでくるので、結局死ぬまでがんばってしまうだろう。実際そうやって殉教した人はたくさんいたわけだし。そこまで強くない人間でも、目ん玉くらいは犠牲にするまでがんばるかもしれない。迫害の時代では、キリスト教をどのように解釈しようと、これを信じる者が命や身体を粗末にすることにかわりはないのである。
この点は不明な部分が多いが、「迫害されても殺されても、絶対にイエスを否定するな」というのが教会の教えだったのではないか。しかし、そんなことができるのは不屈の精神をもった一部の人間だけである。なのに、どうしてそんな無理難題を神は望むのか、神は本当にそんなことを望んでいるのか――というのが、本書が提起した問題である。
この問題に対する本書の回答もはっきりしない。だが私なりの理解に基づいていえば、「無理してイエスを肯定しなくてよい、やばくなったら踏み絵を踏んでいい」というのが本書の主張であり、著者が言いたかったことではないだろうか。
世の中には強い人間も弱い人間もいるが、キリスト教的な見方でいえば、誰でも例外なく罪を犯さざるをえない弱い存在である。イエスはすべての人間の罪を背負い、身代わりとなって苦痛を受けたのだから、理論的にいって、もはやわれわれが命の危険を冒してまでもイエスを肯定する必要は全然ないのである。だから堂々と踏み絵で踏んでよろしい(!)。
本書は小説だからこれでよいのだろう。しかし詰めて考えると、なかなか難しい話になる。脅されたら簡単に踏み絵を踏んでしまうような輩は、そもそもイエスを愛していないから、そんな人間を救う義理は神にはないだろう。だから、神が救うような人間は、最終的に踏み絵を踏むにしても、ぎりぎりまで苦しんで踏んだ奴ということになる。では、どのくらい苦しめばいいのか? 強くて真面目な人間は、イエスが悲しそうな顔をして「あなたは3度私を知らないというだろう」などとぼやいた聖書の例の嫌味なシーンが頭に浮かんでくるので、結局死ぬまでがんばってしまうだろう。実際そうやって殉教した人はたくさんいたわけだし。そこまで強くない人間でも、目ん玉くらいは犠牲にするまでがんばるかもしれない。迫害の時代では、キリスト教をどのように解釈しようと、これを信じる者が命や身体を粗末にすることにかわりはないのである。
2020年5月15日に日本でレビュー済み
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キリスト教迫害が続く日本で棄教したと噂されるフェレイラ神父。彼の弟子、ロドリゴはその真偽の程を確かめるため、そして日本の信徒を救うべく日本に渡る。地下組織として潜伏しながらも布教活動を続けていたが、ある日当局に日本の貧しい信者たちとともに逮捕される。拷問にかけられ、ロドリゴの目の前で何人も殉教していく。
殉教とは強い感動を伴なうもの、と思っていたロドリゴが愕然としたのは、その前後で何も変わらなかったこと。神はなぜ黙っているのか?いったい神とは?神に対する疑いすら抱き、師フェレイラと再会する。変わり果てた姿になったフェレイラ。そしてロドリゴが最後に出した結論は・・・棄教。踏絵を踏むこと。自らのアイデンティティかつ自分の一部たる神を足蹴にする行為で痛みを感じた時、始めて神からの語りを聞く。
「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためこの世に生まれ、お前たちの痛みを分かち合うため十字架を背負ったのだ」
神とは何か?生きとし生きる全てに等しく愛を授ける。それは強きもの、弱きものに等しく授ける。信仰を貫き通して死んでいった人たちにも愛を授ける。彼らは彼等で自分の運命と苦痛を納得して死んでいった。信仰を貫くことが出来ずに己を曲げて生き続ける者たち。彼らは生き続けることで、葛藤を持ち続け、苦痛を持ち続ける。体の痛み、心の痛み、そのすべてを受けとめる。それが神。そして神により我々の苦痛はいずれ癒され昇華される。
たとえ神を否定したとしても、自分自身の中に生き続ける。神は我々一人一人の中に存在し、かつ我々自身でもある。神を愛する行為とは、自分自身を愛することに他ならない。そして、それは人を愛することでもある。それがたとえどのような人であっても。
「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」
殉教とは強い感動を伴なうもの、と思っていたロドリゴが愕然としたのは、その前後で何も変わらなかったこと。神はなぜ黙っているのか?いったい神とは?神に対する疑いすら抱き、師フェレイラと再会する。変わり果てた姿になったフェレイラ。そしてロドリゴが最後に出した結論は・・・棄教。踏絵を踏むこと。自らのアイデンティティかつ自分の一部たる神を足蹴にする行為で痛みを感じた時、始めて神からの語りを聞く。
「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためこの世に生まれ、お前たちの痛みを分かち合うため十字架を背負ったのだ」
神とは何か?生きとし生きる全てに等しく愛を授ける。それは強きもの、弱きものに等しく授ける。信仰を貫き通して死んでいった人たちにも愛を授ける。彼らは彼等で自分の運命と苦痛を納得して死んでいった。信仰を貫くことが出来ずに己を曲げて生き続ける者たち。彼らは生き続けることで、葛藤を持ち続け、苦痛を持ち続ける。体の痛み、心の痛み、そのすべてを受けとめる。それが神。そして神により我々の苦痛はいずれ癒され昇華される。
たとえ神を否定したとしても、自分自身の中に生き続ける。神は我々一人一人の中に存在し、かつ我々自身でもある。神を愛する行為とは、自分自身を愛することに他ならない。そして、それは人を愛することでもある。それがたとえどのような人であっても。
「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」
2019年9月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
カトリック作家、遠藤周作の代表作で、キリシタン弾圧時代に日本に密航した宣教師の物語。
輝かしい殉教をしていく信者と、苦しみや痛みが怖くて棄教をしてしまう信者。
神は迫害者をなぜ罰せぬのか。心の弱い卑怯者は救われる価値がないのか。
キリスト教の本質を問いかけた作品で、発表当時はキリスト教会からの反発も多かったという。
伝わりやすいシンプルな文体と淡々とした描写が逆に過酷な内容を際立たせている。
長崎のキリシタン関連の史跡が世界遺産に登録されたことと、十数ヶ国語に翻訳されているこの作品が無関係だとは思いにくい。長崎を訪れる前にぜひ読みたい作品。
映画化、オペラ化もされているので、そちらから入ってもいいかもしれない。
輝かしい殉教をしていく信者と、苦しみや痛みが怖くて棄教をしてしまう信者。
神は迫害者をなぜ罰せぬのか。心の弱い卑怯者は救われる価値がないのか。
キリスト教の本質を問いかけた作品で、発表当時はキリスト教会からの反発も多かったという。
伝わりやすいシンプルな文体と淡々とした描写が逆に過酷な内容を際立たせている。
長崎のキリシタン関連の史跡が世界遺産に登録されたことと、十数ヶ国語に翻訳されているこの作品が無関係だとは思いにくい。長崎を訪れる前にぜひ読みたい作品。
映画化、オペラ化もされているので、そちらから入ってもいいかもしれない。
2021年12月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ようやく手にとった。
日本がキリシタンを弾圧する中、現地に赴いている布教使が「ころんだ」(踏み絵を踏んで棄教の意を示した)と聞いたロドリゴは、自分はそうはならぬと思いながら苦しい海路を経て日本にたどり着く。隠れるように過ごし、司教である彼らに儀式を求める日本人の信者たち。ロドリゴは、「なぜ神は沈黙しているのか」そう思いながら、彼のために命を捨てていく日本人信者たちのむごい最期を見ていく。
この小説は、キリシタンの話であって、なぜか日本的、自分には浄土真宗的に読んでしまうものがある。これが遠藤周作の宗教観を反映しているところなのかと思う。
自分はキリスト教の教義をよく知っているわけではない。しかし、この物語の中で、「これがないと生きていけない」という人たちの姿は、尊いというか、自分自身の大事なところに切っ先をつきつけられているような気持ちで見るしかなかった。自分は考える。「なにが正しいのか」それは宗教的ななにかを軸としての正しさを考えて登場人物を見てしまう。なんという傲慢な読み方だ。でも読者の自分はそれしかできない。宗教的な正しさって正しいのだろうか。ロドリゴと同じように自分がガタガタに揺すられる。ロドリゴが揺さぶられるのはきっと自分が感じる揺れより激しいのだろう。
キチジローという登場人物がいる。詳細はストーリーに関わるので省略するが、ロドリゴが蔑んでみるような行動をする人間だ。この人物は、どうしてもロドリゴの行く先に現われる。執拗に。苦難があっても現われる。共にあったのではないか・・・と感じる。
”自分が闘ったのは自分自身の信仰にたいしてだった”
ロドリゴの言葉。自分が必死で堅く信じて守っていくことと、赦し。自分が見せられてきたのはこの物語だ。正邪の区別が出来ない物語を見せられていたのだ。
メインのストーリーとは離れて思うことがひとつあった。日本のキリスト教は日本において別のものになってしまっていたという話。それが本当かどうかわからないけれど、堅く信じた人たちだけの間で「これが正しい」と狭い狭い世界に閉じこもっていたならば、変質してしまうものはあると思う。自分はこれをたまに今の仏教においてもみている気がする。なんだかそういうことが重なって、そのタイミングでこの本読んでしまったのだ。宗教の力というのは、自分になくてはならないかもしれない(断言が出来にくい)が、同時に畏れを感じている。
タイトルの「沈黙」は、ロドリゴがこの物語の中において静寂に身を委ねるときに考えていること。最初は、次々と迫害されて死んでゆく信者に救いの手が差し伸べられないという意味を含んでいた。でもこれは静かだということじゃなくて、なにかが聞えそうなのに聞えないことなのかなと最後は思った。わかりそうでわかれないもの。
人間がなぜ宗教を必要としているのか。その本質を明確に言い当てるのではなく、読み手の中にいろんな衝撃を与えることで思考のスタートを促しているような本。このキャラクターはこうだって判断出来ない。自分はこんなにも他人のことがわからない。そのことも絶望的に思うのだった。本当にわからない。
日本がキリシタンを弾圧する中、現地に赴いている布教使が「ころんだ」(踏み絵を踏んで棄教の意を示した)と聞いたロドリゴは、自分はそうはならぬと思いながら苦しい海路を経て日本にたどり着く。隠れるように過ごし、司教である彼らに儀式を求める日本人の信者たち。ロドリゴは、「なぜ神は沈黙しているのか」そう思いながら、彼のために命を捨てていく日本人信者たちのむごい最期を見ていく。
この小説は、キリシタンの話であって、なぜか日本的、自分には浄土真宗的に読んでしまうものがある。これが遠藤周作の宗教観を反映しているところなのかと思う。
自分はキリスト教の教義をよく知っているわけではない。しかし、この物語の中で、「これがないと生きていけない」という人たちの姿は、尊いというか、自分自身の大事なところに切っ先をつきつけられているような気持ちで見るしかなかった。自分は考える。「なにが正しいのか」それは宗教的ななにかを軸としての正しさを考えて登場人物を見てしまう。なんという傲慢な読み方だ。でも読者の自分はそれしかできない。宗教的な正しさって正しいのだろうか。ロドリゴと同じように自分がガタガタに揺すられる。ロドリゴが揺さぶられるのはきっと自分が感じる揺れより激しいのだろう。
キチジローという登場人物がいる。詳細はストーリーに関わるので省略するが、ロドリゴが蔑んでみるような行動をする人間だ。この人物は、どうしてもロドリゴの行く先に現われる。執拗に。苦難があっても現われる。共にあったのではないか・・・と感じる。
”自分が闘ったのは自分自身の信仰にたいしてだった”
ロドリゴの言葉。自分が必死で堅く信じて守っていくことと、赦し。自分が見せられてきたのはこの物語だ。正邪の区別が出来ない物語を見せられていたのだ。
メインのストーリーとは離れて思うことがひとつあった。日本のキリスト教は日本において別のものになってしまっていたという話。それが本当かどうかわからないけれど、堅く信じた人たちだけの間で「これが正しい」と狭い狭い世界に閉じこもっていたならば、変質してしまうものはあると思う。自分はこれをたまに今の仏教においてもみている気がする。なんだかそういうことが重なって、そのタイミングでこの本読んでしまったのだ。宗教の力というのは、自分になくてはならないかもしれない(断言が出来にくい)が、同時に畏れを感じている。
タイトルの「沈黙」は、ロドリゴがこの物語の中において静寂に身を委ねるときに考えていること。最初は、次々と迫害されて死んでゆく信者に救いの手が差し伸べられないという意味を含んでいた。でもこれは静かだということじゃなくて、なにかが聞えそうなのに聞えないことなのかなと最後は思った。わかりそうでわかれないもの。
人間がなぜ宗教を必要としているのか。その本質を明確に言い当てるのではなく、読み手の中にいろんな衝撃を与えることで思考のスタートを促しているような本。このキャラクターはこうだって判断出来ない。自分はこんなにも他人のことがわからない。そのことも絶望的に思うのだった。本当にわからない。





