教育現場では、<江戸しぐさ>について書かれた文章が道徳教材として扱われている。
教師がこれを史実であると思い込んでいるからではない。史実ではないし、教材文に矛盾があることを指摘されても、<社会科の時間ではないんだから、史実かどうかは関係ない><国語の時間ではないんだから、文章を細かく読む必要はない><文科省が教材として取り上げているのだから問題ない><よその学校も皆使っている>などというのだ。
子どもたちはこれを史実として認識していく。これは道徳的なことだと言えるであろうか。
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江戸しぐさの終焉 (星海社新書) 新書 – 2016/2/26
原田 実
(著)
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日本の教育をむしばんだ「江戸しぐさ」を終わらせるために
「江戸しぐさ」は、芝三光という人物が、一九七〇年代以降に“創作”したマナー集とでもいうべきものである。そのネーミングとは裏腹に、実際の江戸時代の風俗とはまったく関わりがなく、西洋風マナーの焼き直しや、軍国主義教育の残滓まで含んだ紛いものである。その「江戸しぐさ」は今や、芝の系譜を引く普及団体のコントロール下を離れ、文部科学省や学校教育までも汚染してしまった。我々はどうして、この「作られた伝統」の普及を許してしまったのか。果たして、社会の隅々に拡散してしまった「江戸しぐさ」を終わらせることは可能なのか。本書では、「江戸しぐさ」の普及史を辿りつつ、その「終焉」に至る道筋を提示する。
「江戸しぐさ」は、芝三光という人物が、一九七〇年代以降に“創作”したマナー集とでもいうべきものである。そのネーミングとは裏腹に、実際の江戸時代の風俗とはまったく関わりがなく、西洋風マナーの焼き直しや、軍国主義教育の残滓まで含んだ紛いものである。その「江戸しぐさ」は今や、芝の系譜を引く普及団体のコントロール下を離れ、文部科学省や学校教育までも汚染してしまった。我々はどうして、この「作られた伝統」の普及を許してしまったのか。果たして、社会の隅々に拡散してしまった「江戸しぐさ」を終わらせることは可能なのか。本書では、「江戸しぐさ」の普及史を辿りつつ、その「終焉」に至る道筋を提示する。
- 本の長さ192ページ
- 言語日本語
- 出版社星海社
- 発売日2016/2/26
- 寸法10.8 x 0.9 x 17.2 cm
- ISBN-104061385828
- ISBN-13978-4061385825
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
「江戸しぐさ」は、芝三光という人物が、一九七〇年代以降に“創作”したマナー集とでもいうべきものである。そのネーミングとは裏腹に、実際の江戸時代の風俗とはまったく関わりがなく、西洋風マナーの焼き直しや、軍国主義教育の残滓まで含んだ紛いものである。その「江戸しぐさ」は今や、芝の系譜を引く普及団体のコントロール下を離れ、文部科学省や学校教育までも汚染してしまった。我々はどうして、この「作られた伝統」の普及を許してしまったのか。果たして、社会の隅々に拡散してしまった「江戸しぐさ」を終わらせることは可能なのか。本書では、「江戸しぐさ」の普及史を辿りつつ、その「終焉」に至る道筋を提示する。
著者について
原田 実
歴史研究家。1961年生まれ、広島市出身。龍谷大学卒。八幡書店勤務、昭和薬科大学助手を経て帰郷、執筆活動に入る。これまでの著作は20冊を超える。元市民の古代研究会代表。と学会会員。ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)会員。日本でも数少ない 偽史・偽書の専門家であり、偽書『東日流外三郡誌』事件に際しては、真書派から偽書派に転じ、以降徹底的な追及を行ったことで知られる。本書は、2014年8月に刊行され、初の「江戸しぐさ」批判的検証本として脚光を浴びた『江戸しぐさの正体』の続編であり、懐疑的立場から行ってきた検証活動の集大成である。
ツイッターアカウントは(@gishigaku)
歴史研究家。1961年生まれ、広島市出身。龍谷大学卒。八幡書店勤務、昭和薬科大学助手を経て帰郷、執筆活動に入る。これまでの著作は20冊を超える。元市民の古代研究会代表。と学会会員。ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)会員。日本でも数少ない 偽史・偽書の専門家であり、偽書『東日流外三郡誌』事件に際しては、真書派から偽書派に転じ、以降徹底的な追及を行ったことで知られる。本書は、2014年8月に刊行され、初の「江戸しぐさ」批判的検証本として脚光を浴びた『江戸しぐさの正体』の続編であり、懐疑的立場から行ってきた検証活動の集大成である。
ツイッターアカウントは(@gishigaku)
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
原田/実
歴史研究家。1961年生まれ、広島市出身。龍谷大学卒。八幡書店勤務、昭和薬科大学助手を経て帰郷、執筆活動に入る。これまでの著作は20冊を超える。元市民の古代研究会代表。と学会会員。ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)会員。日本でも数少ない偽史・儀書の専門家であり、偽書『東日流外三郡誌』事件に際しては、真書派から偽書派に転じ、以降徹底的な追及を行ったことで知られる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
歴史研究家。1961年生まれ、広島市出身。龍谷大学卒。八幡書店勤務、昭和薬科大学助手を経て帰郷、執筆活動に入る。これまでの著作は20冊を超える。元市民の古代研究会代表。と学会会員。ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)会員。日本でも数少ない偽史・儀書の専門家であり、偽書『東日流外三郡誌』事件に際しては、真書派から偽書派に転じ、以降徹底的な追及を行ったことで知られる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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登録情報
- 出版社 : 星海社 (2016/2/26)
- 発売日 : 2016/2/26
- 言語 : 日本語
- 新書 : 192ページ
- ISBN-10 : 4061385828
- ISBN-13 : 978-4061385825
- 寸法 : 10.8 x 0.9 x 17.2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 548,396位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 804位常識・マナー (本)
- - 14,442位日本史 (本)
- - 39,444位新書
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
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トップレビュー
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2017年10月28日に日本でレビュー済み
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33人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2016年2月27日に日本でレビュー済み
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3大ピラミッドはオリオン座の三ツ星を地上に再現したものだという綺説を唱えたフランス人がいる。
思考の盲点を突いた、信じてみたくなるロマンチックなアイディアだ。
遺憾なことにこの話は、ヨーロッパ域外の古代文明は[誰か]の関与で成立したものとするベストセラーを書いたイギリス人の著作に引用された。
昔から何度も繰り返し語られている同じ話のべったりとした手垢のせいで、綺説はすっかり精妙な味わいを失ってしまった。
地に投影された星は、ただの石の山になった。
[江戸しぐさ]を取り巻く状況もこれに似ている。
芝三光という変人の夢想は、空想上の江戸っ子の楽園だった。
空想として楽しむのであれば、その箱庭の眺めは面白い。
しかし芝氏の綺想は死後に伝承者たちによっておかしな肉付けをされ、教育現場で使われるようになる過程で、さらに陳腐なものに改変された。
好事家が好む綺説が広く流布する過程では、往々にしてそうしたことが起きる。
綺説のオリジナリティではなく、綺説を核にすることで若干の味付けをされた聞き慣れた話を、世間の人たちは求めるものなのかもしれない。
癖の強い原酒ではなく、割り材で薄められた酒の軽い口当たりを大衆は好むものなのかもしれない。
実のところ、その割り材にはしばしば麻薬や遅効性の毒が含まれている。
中毒をもたらすのは原酒ではなく、実際には割り材である方が多いのだ。
しかし人はなかなかそのことに気づかない。
創作物語に結晶したヒトの創造性を愛する人たちがいて、小説やマンガの文化はそうした人たちに支えられている。
その人たちとは別種の人種に、[本当にあった][いい話]にダボハゼのように食いつく人たちがいる。
彼ら彼女らは[道徳]または[道徳的であること]が大好きだ。
その人たちの[正しさ]を担保するように、[いい話]を自らの手にし、他人に知らしめることで[いい人]であるかのように自らを装う人たちがいる。
自分をそう見せることには、実は彼らにとって現実的な利益がある。
当事者たちは決してそのことを口にはしないが、そうだ。
[江戸しぐさの終焉]を読みながら考え続けていたのはそんなことだった。
[いい話]が好きな気持ちは理解できる。
鳩や野良猫に餌をやることで利他心を満たし、孤独を忘れたい人の気持ちを理解できるのと同じように、理解することはできる。
だが、餌付け行為そのものは容認できない。
明らかに公衆衛生を害するからだ。
[いい話]を取り巻くメカニズムもこれに似ている。
[いい話]に見えるそれは、往々にして害を成す。
科学的・歴史的・論理的な矛盾を抱え込む確率が非常に高いからだ。
[道徳的な][いい話]が大好きな人たちは、往々にして[いい話なのだから多少の嘘が混じっていてもいいではないか]と考える。
その嘘が、[いい話]に嘘が混じってしまうことが、社会に及ぼす悪影響に思慮が及ばない。
始末が悪いことに[いい話]の場合、野良猫や鳩に餌付けしたい衝動を抑えられない人たちを肯定する仕組みが組織化し産業化している。
つまり、[いい話]は金を産む。
本書で取り上げられている江戸しぐさ推進団体のHPの活動内容を見てみる。
・江戸しぐさ協会
・江戸の良さを見直す会 (作成中)
・芝三光の江戸しぐさ振興会
・日本江戸しぐさ協会
[江戸の良さを見直す会]を除くと、いずれの団体も、講演会、研修、資格講座、物販(書籍・映像)が挙げている。
原価率は低く、売上げがあれば利益を上げやすい[商材]だ。
ではなぜ[いい話]の周辺に速やかにマネーメイキングマシンが構築できるのか?
その秘密が、先述した[割り材]だ。
どのような酒でも口当たりよく飲めるようにする仕組みが、出版、コンサルタント、研修、教育といった産業分野で経験を積み、個人的・組織的にノウハウを得た人たちのネットワークで確立している。
普通の人たちはそれが産業的なものだとはあまり感じないだろうが、([善意]や[正義]に基づくものだと信じるピュアな人たちの方がはるかに多いだろう)それは確実に、利益を上げるために、そうしたビジネスに携わる人たちの日々の生活の糧のために、存在している。
そのシステムが、癖のある原酒を一般人の舌に心地よいものにする。
いつの間にか、[いい話]の中毒にしてしまう。
次から次へと、[いい話]を求めるようになってしまう。
[ピュアな] [スピリチュアルな] [伝統的な] [失われた叡智の] etc.etc.
そういうワーディングは、呆れるほど現実とネット上のコミュニケーションに溢れている。
特定の[いい話]を信じている人が容易に別の[いい話]も信じてしまうのは、つまり[業界]がそういう仕組みになっているからだ。
本書では江戸しぐさ側が盛んに取り上げる比喩として、ムクドリの話を紹介している。
底意地の悪いわたしは、これを実に面白いことだと思う。
[金目当てで儲かりそうなところに集まってはまた去っていく自己中心的な人々]。
そういう人たちをムクドリと呼ぶらしい。
江戸しぐさを信奉する心ある者たちは、そういう人たちの軽佻浮薄を嫌うものらしい。
しかしこの[ムクドリ]のあり方は、江戸しぐさの周辺に蝟集した人たち、[いい話]にダボハゼのように飛びつく人たちそのものではないか。
なんという皮肉だろう。
そしてなんと簡単に自らの矛盾を露呈してしまうのだろうこの人たちは、と心の汚れたわたしはつい考え、ついほくそ笑んでしまう。
[偉い人がやれと言ったから言われた通りやりました。]
[やれと言われたことの[正しさ]を考えるのが、自分たちの仕事です。]
公務員でも企業でもこういう論理で生産される何かを遂行することを[仕事]だと信じている人は多い。
彼らはムクドリではないが、ムクドリの生息には欠かせない存在だ。
そろそろ止めないか?そういうことで疲労し消耗するのは。
それは、健全な労働の心地よい疲れなんかじゃない。
あなたたちも、本心ではそれがわかっているはずだ。
ちなみに、[いい話]の拡散に寄与したメディアも役人も[割り材]の中の人も、その[いい話]が虚妄であったことが明らかになっても、謝らない。
謝らず沈黙を保ち、次の[いい話]を探す。
彼らが罪悪感を感じない厚顔な人たちだという見方も当を得てはいるが、それ以上に[早く次の[いい話]を見つけ、同じように広める方が自分たちの利益に叶う]という経済的な論理を優先していると見るべきだろう。
自らの意識下のストレスに蓋をしても、彼らにはそうする[職業的倫理]のような何かが優先される。
(そういうのは本当に、あなたたちを回復不能なレベルまで蝕んでしまう。)
本書のレビューとして、最も早くインターネット上にアップされた荻上チキさんの紹介は当を得ている。
([江戸しぐさの終焉][荻上チキ]で検索されたい。)
彼のレビューに悪乗りすると、ジャーナリズム関係の人たちは[江戸しぐさ]を教育の場に導入しようとした人たちに徹底的なインタビューを行なうといいと思う。
教科書会社の編集者、文科省の担当者、[親学]周辺の人たち、その他もろもろの人たちに、自分たちが何を信じていたか、あるいはどのように流されてしまったか、[江戸しぐさの正体]とこの本が世に出てしまった今、個人としてどう考えているか、そういったことを複数の当事者を徹底的に問い詰め、異なる立場にいた人たちがそうした/そうせざるを得なかった状況の詳細をネット上だか書籍のカタチだかにまとめればいいと思う。
それはつまり、一羽のムクドリの死骸を、ムクドリの群れが集まりそうな場所にぶら下げておく行為だ。
結構、嗜虐心を満足させてくれるはずだ。
だがそれは、興味半分嗜虐心半分と、その行為をする人がささやかな経済的利益を期待してそれを実行することは、ムクドリが次に群れを成すことを妨げる契機になるかもしれない。
最後になるが、わたしがこの本で一番気に入ったのは、次のエピソードだ。
[と学会]会員の原田先生の[江戸しぐさの正体]を、江戸しぐさ団体の役員が[トンデモ本]呼ばわりする。
トンデモ本呼ばわりしたうえで、何故だか原田先生に面会を望むが、その人は結局ドタキャンする。
つまり、[江戸しぐさ普及団体]の役員が、江戸しぐさがマナーとして否定する[時間どろぼう]を派手に行なう。
その人が書いた本は[父業入門]というタイトルらしい。
冗談としては最高のレベルではなかろうか。
勝てる戦いだと自分で思ったのか周囲に尻を押されたのか、とりあえずはそうしてみて、よく調べ考えてみて到底勝てないと見るや、ドタキャンする[父親]。
おれの背中を見ろ。
おれは男らしく立派なことを、間違った世間に向けて大声で熱意を持って主張するぞ。
でもいざとなると腰砕けになって逃げて、世間の非難には耳を塞ぐんだぞ。
そんな非難はなかったことにする。
おれは、ホントはそういう男だから。
でもお前はおれを尊敬しろ。
おれはお前の[父親]なんだから、お前にはそうする義務がある。
すばらしい。
[親学]は是非この人のことを道徳の教科書か市販書に載せるよう努めて欲しい。
この人は、 [かつて青春の煩悶をいやすために山歩きしたことがある]らしい。
つまりは[インテリ]だ。
しかし、中途半端で不出来で甘ったれたインテリだ。
だから簡単に信じる。
本気で何かを信じ考える過程で、絶対に必要になる論理的・批評的な思考の訓練を、自らに課していない。
課さないままに何かにすがりついているうちに、やがて自分の[正しさ]を信じてしまった。
[正しさ]を信じるあまり、言動に矛盾が生じる自分さえ正当化してしまった。
[江戸しぐさ]推進団体の理事がこういうタイプの人であるなら、[江戸しぐさ]を信じる全国の善男善女もたぶん似たようなナイーブさと弱さと自分の弱さに目を瞑る厚顔な自己正当化の傾向を強く持ち、自らのその醜さを糊塗する[正しさ]を必要とする人たちだということは簡単に推論できる。
だからこそ、彼ら彼女らには江戸っ子大虐殺といった荒唐無稽な神話や、コインロッカー・ベイビーのような[純粋な]子供たちを求めるのだ。
義務教育の[道徳]の授業で教える価値と意義のある何かとは、事例を提供したうえで子どもたちに考えさせる意味がある何かとは、それは人間のそういう弱さと矛盾と、怯懦または卑劣に接近してしまいがちな心の働きなのではないか?
わたしは、そう思う。
この2年ほど原田先生につきあって[江戸しぐさ]に触れている間に自分なりに考え、学ばせてもらったのは、そうしたことだ。
さて、どうやってムクドリを狩ろうか?
実に意地悪く、わたしはそう考える。
思考の盲点を突いた、信じてみたくなるロマンチックなアイディアだ。
遺憾なことにこの話は、ヨーロッパ域外の古代文明は[誰か]の関与で成立したものとするベストセラーを書いたイギリス人の著作に引用された。
昔から何度も繰り返し語られている同じ話のべったりとした手垢のせいで、綺説はすっかり精妙な味わいを失ってしまった。
地に投影された星は、ただの石の山になった。
[江戸しぐさ]を取り巻く状況もこれに似ている。
芝三光という変人の夢想は、空想上の江戸っ子の楽園だった。
空想として楽しむのであれば、その箱庭の眺めは面白い。
しかし芝氏の綺想は死後に伝承者たちによっておかしな肉付けをされ、教育現場で使われるようになる過程で、さらに陳腐なものに改変された。
好事家が好む綺説が広く流布する過程では、往々にしてそうしたことが起きる。
綺説のオリジナリティではなく、綺説を核にすることで若干の味付けをされた聞き慣れた話を、世間の人たちは求めるものなのかもしれない。
癖の強い原酒ではなく、割り材で薄められた酒の軽い口当たりを大衆は好むものなのかもしれない。
実のところ、その割り材にはしばしば麻薬や遅効性の毒が含まれている。
中毒をもたらすのは原酒ではなく、実際には割り材である方が多いのだ。
しかし人はなかなかそのことに気づかない。
創作物語に結晶したヒトの創造性を愛する人たちがいて、小説やマンガの文化はそうした人たちに支えられている。
その人たちとは別種の人種に、[本当にあった][いい話]にダボハゼのように食いつく人たちがいる。
彼ら彼女らは[道徳]または[道徳的であること]が大好きだ。
その人たちの[正しさ]を担保するように、[いい話]を自らの手にし、他人に知らしめることで[いい人]であるかのように自らを装う人たちがいる。
自分をそう見せることには、実は彼らにとって現実的な利益がある。
当事者たちは決してそのことを口にはしないが、そうだ。
[江戸しぐさの終焉]を読みながら考え続けていたのはそんなことだった。
[いい話]が好きな気持ちは理解できる。
鳩や野良猫に餌をやることで利他心を満たし、孤独を忘れたい人の気持ちを理解できるのと同じように、理解することはできる。
だが、餌付け行為そのものは容認できない。
明らかに公衆衛生を害するからだ。
[いい話]を取り巻くメカニズムもこれに似ている。
[いい話]に見えるそれは、往々にして害を成す。
科学的・歴史的・論理的な矛盾を抱え込む確率が非常に高いからだ。
[道徳的な][いい話]が大好きな人たちは、往々にして[いい話なのだから多少の嘘が混じっていてもいいではないか]と考える。
その嘘が、[いい話]に嘘が混じってしまうことが、社会に及ぼす悪影響に思慮が及ばない。
始末が悪いことに[いい話]の場合、野良猫や鳩に餌付けしたい衝動を抑えられない人たちを肯定する仕組みが組織化し産業化している。
つまり、[いい話]は金を産む。
本書で取り上げられている江戸しぐさ推進団体のHPの活動内容を見てみる。
・江戸しぐさ協会
・江戸の良さを見直す会 (作成中)
・芝三光の江戸しぐさ振興会
・日本江戸しぐさ協会
[江戸の良さを見直す会]を除くと、いずれの団体も、講演会、研修、資格講座、物販(書籍・映像)が挙げている。
原価率は低く、売上げがあれば利益を上げやすい[商材]だ。
ではなぜ[いい話]の周辺に速やかにマネーメイキングマシンが構築できるのか?
その秘密が、先述した[割り材]だ。
どのような酒でも口当たりよく飲めるようにする仕組みが、出版、コンサルタント、研修、教育といった産業分野で経験を積み、個人的・組織的にノウハウを得た人たちのネットワークで確立している。
普通の人たちはそれが産業的なものだとはあまり感じないだろうが、([善意]や[正義]に基づくものだと信じるピュアな人たちの方がはるかに多いだろう)それは確実に、利益を上げるために、そうしたビジネスに携わる人たちの日々の生活の糧のために、存在している。
そのシステムが、癖のある原酒を一般人の舌に心地よいものにする。
いつの間にか、[いい話]の中毒にしてしまう。
次から次へと、[いい話]を求めるようになってしまう。
[ピュアな] [スピリチュアルな] [伝統的な] [失われた叡智の] etc.etc.
そういうワーディングは、呆れるほど現実とネット上のコミュニケーションに溢れている。
特定の[いい話]を信じている人が容易に別の[いい話]も信じてしまうのは、つまり[業界]がそういう仕組みになっているからだ。
本書では江戸しぐさ側が盛んに取り上げる比喩として、ムクドリの話を紹介している。
底意地の悪いわたしは、これを実に面白いことだと思う。
[金目当てで儲かりそうなところに集まってはまた去っていく自己中心的な人々]。
そういう人たちをムクドリと呼ぶらしい。
江戸しぐさを信奉する心ある者たちは、そういう人たちの軽佻浮薄を嫌うものらしい。
しかしこの[ムクドリ]のあり方は、江戸しぐさの周辺に蝟集した人たち、[いい話]にダボハゼのように飛びつく人たちそのものではないか。
なんという皮肉だろう。
そしてなんと簡単に自らの矛盾を露呈してしまうのだろうこの人たちは、と心の汚れたわたしはつい考え、ついほくそ笑んでしまう。
[偉い人がやれと言ったから言われた通りやりました。]
[やれと言われたことの[正しさ]を考えるのが、自分たちの仕事です。]
公務員でも企業でもこういう論理で生産される何かを遂行することを[仕事]だと信じている人は多い。
彼らはムクドリではないが、ムクドリの生息には欠かせない存在だ。
そろそろ止めないか?そういうことで疲労し消耗するのは。
それは、健全な労働の心地よい疲れなんかじゃない。
あなたたちも、本心ではそれがわかっているはずだ。
ちなみに、[いい話]の拡散に寄与したメディアも役人も[割り材]の中の人も、その[いい話]が虚妄であったことが明らかになっても、謝らない。
謝らず沈黙を保ち、次の[いい話]を探す。
彼らが罪悪感を感じない厚顔な人たちだという見方も当を得てはいるが、それ以上に[早く次の[いい話]を見つけ、同じように広める方が自分たちの利益に叶う]という経済的な論理を優先していると見るべきだろう。
自らの意識下のストレスに蓋をしても、彼らにはそうする[職業的倫理]のような何かが優先される。
(そういうのは本当に、あなたたちを回復不能なレベルまで蝕んでしまう。)
本書のレビューとして、最も早くインターネット上にアップされた荻上チキさんの紹介は当を得ている。
([江戸しぐさの終焉][荻上チキ]で検索されたい。)
彼のレビューに悪乗りすると、ジャーナリズム関係の人たちは[江戸しぐさ]を教育の場に導入しようとした人たちに徹底的なインタビューを行なうといいと思う。
教科書会社の編集者、文科省の担当者、[親学]周辺の人たち、その他もろもろの人たちに、自分たちが何を信じていたか、あるいはどのように流されてしまったか、[江戸しぐさの正体]とこの本が世に出てしまった今、個人としてどう考えているか、そういったことを複数の当事者を徹底的に問い詰め、異なる立場にいた人たちがそうした/そうせざるを得なかった状況の詳細をネット上だか書籍のカタチだかにまとめればいいと思う。
それはつまり、一羽のムクドリの死骸を、ムクドリの群れが集まりそうな場所にぶら下げておく行為だ。
結構、嗜虐心を満足させてくれるはずだ。
だがそれは、興味半分嗜虐心半分と、その行為をする人がささやかな経済的利益を期待してそれを実行することは、ムクドリが次に群れを成すことを妨げる契機になるかもしれない。
最後になるが、わたしがこの本で一番気に入ったのは、次のエピソードだ。
[と学会]会員の原田先生の[江戸しぐさの正体]を、江戸しぐさ団体の役員が[トンデモ本]呼ばわりする。
トンデモ本呼ばわりしたうえで、何故だか原田先生に面会を望むが、その人は結局ドタキャンする。
つまり、[江戸しぐさ普及団体]の役員が、江戸しぐさがマナーとして否定する[時間どろぼう]を派手に行なう。
その人が書いた本は[父業入門]というタイトルらしい。
冗談としては最高のレベルではなかろうか。
勝てる戦いだと自分で思ったのか周囲に尻を押されたのか、とりあえずはそうしてみて、よく調べ考えてみて到底勝てないと見るや、ドタキャンする[父親]。
おれの背中を見ろ。
おれは男らしく立派なことを、間違った世間に向けて大声で熱意を持って主張するぞ。
でもいざとなると腰砕けになって逃げて、世間の非難には耳を塞ぐんだぞ。
そんな非難はなかったことにする。
おれは、ホントはそういう男だから。
でもお前はおれを尊敬しろ。
おれはお前の[父親]なんだから、お前にはそうする義務がある。
すばらしい。
[親学]は是非この人のことを道徳の教科書か市販書に載せるよう努めて欲しい。
この人は、 [かつて青春の煩悶をいやすために山歩きしたことがある]らしい。
つまりは[インテリ]だ。
しかし、中途半端で不出来で甘ったれたインテリだ。
だから簡単に信じる。
本気で何かを信じ考える過程で、絶対に必要になる論理的・批評的な思考の訓練を、自らに課していない。
課さないままに何かにすがりついているうちに、やがて自分の[正しさ]を信じてしまった。
[正しさ]を信じるあまり、言動に矛盾が生じる自分さえ正当化してしまった。
[江戸しぐさ]推進団体の理事がこういうタイプの人であるなら、[江戸しぐさ]を信じる全国の善男善女もたぶん似たようなナイーブさと弱さと自分の弱さに目を瞑る厚顔な自己正当化の傾向を強く持ち、自らのその醜さを糊塗する[正しさ]を必要とする人たちだということは簡単に推論できる。
だからこそ、彼ら彼女らには江戸っ子大虐殺といった荒唐無稽な神話や、コインロッカー・ベイビーのような[純粋な]子供たちを求めるのだ。
義務教育の[道徳]の授業で教える価値と意義のある何かとは、事例を提供したうえで子どもたちに考えさせる意味がある何かとは、それは人間のそういう弱さと矛盾と、怯懦または卑劣に接近してしまいがちな心の働きなのではないか?
わたしは、そう思う。
この2年ほど原田先生につきあって[江戸しぐさ]に触れている間に自分なりに考え、学ばせてもらったのは、そうしたことだ。
さて、どうやってムクドリを狩ろうか?
実に意地悪く、わたしはそう考える。
2020年4月28日に日本でレビュー済み
しかし、人間というのは簡単に騙されてしまうということに感心しました。一種の詐欺ですね。
まず出版社の社員、江戸しぐさの本を買った人、江戸しぐさの講義を受けた人,文部科学省の役人などなど、かくいう私も半信半疑?でした。
面白いのは、それを信じている人たちでウソだと言われると一生懸命に反論する人や正当化しようとする人たちです。
ですが、「あの人たち」は江戸しぐさの本などで相当儲けたんでしょうね、夜中に印税のお金を数えていたりして。
まず出版社の社員、江戸しぐさの本を買った人、江戸しぐさの講義を受けた人,文部科学省の役人などなど、かくいう私も半信半疑?でした。
面白いのは、それを信じている人たちでウソだと言われると一生懸命に反論する人や正当化しようとする人たちです。
ですが、「あの人たち」は江戸しぐさの本などで相当儲けたんでしょうね、夜中に印税のお金を数えていたりして。
ベスト500レビュアー
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ニセの「伝統」である「江戸しぐさ」(の教育界での利用)批判の書。『江戸しぐさの正体』の続編である。
著者は「私の眼前で『江戸しぐさ』問題の終息にいたるまでの道筋が次第に明らかになってきたようである(p.4)」と述べており、本書を読む限り、著者の前著刊行を大きなきっかけに、この1年半で「江戸しぐさ」のアヤシサへの認知が日本でも広がってきているようである。ご同慶の至りと言えよう。
なお、単純な誤植だが、158ページにある「『週刊SPA!』2015年11月7日号」は、119ページと同じく「11月17日号」の誤り。出典に当たろうと検索して、一瞬「11月7日号なんて無いじゃないか!」と思ったぞ。
著者は「私の眼前で『江戸しぐさ』問題の終息にいたるまでの道筋が次第に明らかになってきたようである(p.4)」と述べており、本書を読む限り、著者の前著刊行を大きなきっかけに、この1年半で「江戸しぐさ」のアヤシサへの認知が日本でも広がってきているようである。ご同慶の至りと言えよう。
なお、単純な誤植だが、158ページにある「『週刊SPA!』2015年11月7日号」は、119ページと同じく「11月17日号」の誤り。出典に当たろうと検索して、一瞬「11月7日号なんて無いじゃないか!」と思ったぞ。
2016年3月30日に日本でレビュー済み
『はじめに』にあるように、「江戸しぐさ」に対して漠然と抱えていた疑問や違和感に解答を明示してくれた。
一見、道徳教育やモラル啓蒙に良い!と見えるシロモノに公的機関が飛びついた。そして活動する組織は巨大化。
組織が大きくなるとお定まりの分裂・拡散。
そこへ前著「江戸しぐさの正体」である。
その後大きくなったネットやマスコミからの批判的な声と学界の対応、組織の動向を分析したものが本書で、
返す刀で「江戸しぐさ」に代表される「見た目いい話」や疑似科学的な運動へも切り込んでいく。
私個人としては、著者の文章とともに知的な考察を進めていくのが大変楽しい。
「江戸しぐさ」は、そもそも『昔は良かった』的な不満を抱えたジイ様が自己の理想とする「幻想の江戸」を語り始めたのが(他人に押し付けたともいえる)
発端ではないか。
そのため、現存する江戸時代の古文書たとえば、NHKでも資料として使用している「守貞漫稿」(放送禁止用語みたいですがちゃんとした史書で私は図書館で借りました)や数多の庶民が残した日記など等や伝統芸能には江戸しぐさはまったく存在しないし、存在しえない。
なにしろ、昭和時代の一老人の知識内から発生したモノだから。。
それに対し、一部信奉者はブログなどで
「江戸しぐさは口伝だから文書では残っていなくて当然」とか「現存している古文書は新政府が認めたものしか残っていない」と反論をする。
NPO代表のK川女史は史料が無いことに対して「私は歴史家ではない」と一言で切って捨てた。では、「史実」として活動することに矛盾があるのでは?
また、江戸っ子大虐殺なんて実際にあったら包み隠すことは可能なのか?
そこでNPO江戸しぐさ~に何度も何度も実名実住所でまじめに教えを乞うたのだが、一度も返事は無かった。
これって… ひょっとして「江戸しぐさ」が標榜する精神に反するのではありませんか?
と思っていたところに本著である。
上記誰でも湧くであろう疑念に対し、この著に書かれているとおり、「江戸しぐさ」批判のTV番組が昨年放映されたときにはNPO側は「伝承だから」と回答したという。
NPOに所属する人たちは、自分たちが立っている基盤がグズグズであることに危惧を懐かないのであろうか?
もしできれば、著者には今後もこの団体へのウォッチを続けていただきたいと期待をこめて星4つ
一見、道徳教育やモラル啓蒙に良い!と見えるシロモノに公的機関が飛びついた。そして活動する組織は巨大化。
組織が大きくなるとお定まりの分裂・拡散。
そこへ前著「江戸しぐさの正体」である。
その後大きくなったネットやマスコミからの批判的な声と学界の対応、組織の動向を分析したものが本書で、
返す刀で「江戸しぐさ」に代表される「見た目いい話」や疑似科学的な運動へも切り込んでいく。
私個人としては、著者の文章とともに知的な考察を進めていくのが大変楽しい。
「江戸しぐさ」は、そもそも『昔は良かった』的な不満を抱えたジイ様が自己の理想とする「幻想の江戸」を語り始めたのが(他人に押し付けたともいえる)
発端ではないか。
そのため、現存する江戸時代の古文書たとえば、NHKでも資料として使用している「守貞漫稿」(放送禁止用語みたいですがちゃんとした史書で私は図書館で借りました)や数多の庶民が残した日記など等や伝統芸能には江戸しぐさはまったく存在しないし、存在しえない。
なにしろ、昭和時代の一老人の知識内から発生したモノだから。。
それに対し、一部信奉者はブログなどで
「江戸しぐさは口伝だから文書では残っていなくて当然」とか「現存している古文書は新政府が認めたものしか残っていない」と反論をする。
NPO代表のK川女史は史料が無いことに対して「私は歴史家ではない」と一言で切って捨てた。では、「史実」として活動することに矛盾があるのでは?
また、江戸っ子大虐殺なんて実際にあったら包み隠すことは可能なのか?
そこでNPO江戸しぐさ~に何度も何度も実名実住所でまじめに教えを乞うたのだが、一度も返事は無かった。
これって… ひょっとして「江戸しぐさ」が標榜する精神に反するのではありませんか?
と思っていたところに本著である。
上記誰でも湧くであろう疑念に対し、この著に書かれているとおり、「江戸しぐさ」批判のTV番組が昨年放映されたときにはNPO側は「伝承だから」と回答したという。
NPOに所属する人たちは、自分たちが立っている基盤がグズグズであることに危惧を懐かないのであろうか?
もしできれば、著者には今後もこの団体へのウォッチを続けていただきたいと期待をこめて星4つ
2016年3月1日に日本でレビュー済み
マクラで本書とは関係のない話をすると、3.11以降、日本全体がいくつかの価値観で分断されている。
一方が反知性主義と叫べば、他方はブサヨと罵る。
一方が反原発でデモを打てば、他方はビジョンなき無責任と反論する。
一方が子供の貧困を訴えれば、他方は無軌道なデキ婚のクズと切り捨てる
お互いの価値観を語ることなく、高い高い壁がつくられ、まるで日本に二つの国があるようだ。
閑話休題というか本題に入ると、こうした二つの日本においても、広く壁を越えて共有されるストーリーがある。
それは、いい話、感動する話だ。
上記の対立軸を便宜上、右派と左派に分けてみると、右派であれば「日本人はこんなにすごいぞ話」で、左派であれば「民主主義と憲法を護ることはこんなに素晴らしい、素晴らしいぞ我らは話」だろうか。
しかし、本書が指弾する江戸しぐさは、その対立軸を超越した絶対的善とでもいうべき話として流布している。
いわく、譲り合う作法、江戸の昔からの教え、欧米にはない美徳・・・日本人特有の「日本人すごい」をくすぐる江戸しぐさ
この美しい話が、文科省まで動かした!すごいよ、江戸しぐさ!
この根底に、善きこと・正しきことを疑う文化のない日本がある。
STAP細胞はあります!という割烹着の若い女性を、一部の科学者の懐疑の声を「嫉妬」と踏みにじり、礼賛したことに通底する非科学的日本人らしさ。
この日本という議論・論証の文化のない中で、コツコツ丹念に絶対善に対峙した著者に敬意を表したい。
私達読者が本書から学ぶことは、江戸しぐさウソだよねではないし、その語り部や関係者を断罪することでもないと思う。
もし、別のどこかで、江戸しぐさ的なものや言説(疑似科学とか陰謀論とか、もっともらしいネットの意見とか)に出遭ったときに、懐疑の心を以て冷静に論証する科学的視点こそが、「すごいぞ日本人なのは私達だよ」的な凝り固まった間抜けな対立の壁を超えていく一つのアイテムだということを本書から私達は受け止めるべきではないだろうか。
最後にタイトルの言葉を逆説的に言いたい。
善いこと・正しきことという大文字を声高に叫ぶ勢いより、自身で必死に考え抜いた真実を心の中で唱え時に小さな声で語る者。
そういう者に私はなりたい。そして、そういう気持ちに気付かせてくれた本書と著者に改めて感謝したい。
一方が反知性主義と叫べば、他方はブサヨと罵る。
一方が反原発でデモを打てば、他方はビジョンなき無責任と反論する。
一方が子供の貧困を訴えれば、他方は無軌道なデキ婚のクズと切り捨てる
お互いの価値観を語ることなく、高い高い壁がつくられ、まるで日本に二つの国があるようだ。
閑話休題というか本題に入ると、こうした二つの日本においても、広く壁を越えて共有されるストーリーがある。
それは、いい話、感動する話だ。
上記の対立軸を便宜上、右派と左派に分けてみると、右派であれば「日本人はこんなにすごいぞ話」で、左派であれば「民主主義と憲法を護ることはこんなに素晴らしい、素晴らしいぞ我らは話」だろうか。
しかし、本書が指弾する江戸しぐさは、その対立軸を超越した絶対的善とでもいうべき話として流布している。
いわく、譲り合う作法、江戸の昔からの教え、欧米にはない美徳・・・日本人特有の「日本人すごい」をくすぐる江戸しぐさ
この美しい話が、文科省まで動かした!すごいよ、江戸しぐさ!
この根底に、善きこと・正しきことを疑う文化のない日本がある。
STAP細胞はあります!という割烹着の若い女性を、一部の科学者の懐疑の声を「嫉妬」と踏みにじり、礼賛したことに通底する非科学的日本人らしさ。
この日本という議論・論証の文化のない中で、コツコツ丹念に絶対善に対峙した著者に敬意を表したい。
私達読者が本書から学ぶことは、江戸しぐさウソだよねではないし、その語り部や関係者を断罪することでもないと思う。
もし、別のどこかで、江戸しぐさ的なものや言説(疑似科学とか陰謀論とか、もっともらしいネットの意見とか)に出遭ったときに、懐疑の心を以て冷静に論証する科学的視点こそが、「すごいぞ日本人なのは私達だよ」的な凝り固まった間抜けな対立の壁を超えていく一つのアイテムだということを本書から私達は受け止めるべきではないだろうか。
最後にタイトルの言葉を逆説的に言いたい。
善いこと・正しきことという大文字を声高に叫ぶ勢いより、自身で必死に考え抜いた真実を心の中で唱え時に小さな声で語る者。
そういう者に私はなりたい。そして、そういう気持ちに気付かせてくれた本書と著者に改めて感謝したい。


