あまりよいやり方ではないかもしれないが、2冊の本を往復してみた。本書ともう一冊、アパルトヘイトや内戦という厳しい現実の世界で、紛争解決に取り組んできたアダム・カヘン氏の『Power and Love(邦題は『未来を変えるためにほんとうに必要なこと』英治出版、2010年)。
なぜこんなことをしたかといえば、書き出しが全く同じだったから。
『Power and Love』の内容は、実践には粘り強い修練が必要だが、シンプルだ。ひとことで言えば「愛のない力は暴力であり、力のない愛は無力だ。だから両方を使って、よろめきながらでも、前に進んでいこう」ということ。このことについて、南アフリカやコロンビア、グアテマラ、イスラエルなど、様々なステークホルダーが、厳しい対立構造にある中での経験、それも成功だけでなく失敗も含めて語られている。
他方、『母性のディストピア』の内容は、戦後アニメーションを基軸にしているが、政治や文学、テクノロジーが重ねられており、複雑だ。ただ、これから僕らが向き合うべき大きな問いが提示されていると思う。
『Power and Love』と『母性のディストピア』を往復しながら考えこんでしまったのは、戦後の日本ではパワー(父性)が挫折をしてしまったこと。だとすると、世界が変わる両輪の片方を、日本にいる僕らは欠いているということではないのか。
父性と母性がねじれてしまった日本を『母性のディストピア』はどう論じているのだろうか。
日本に降り立ったマッカーサー元帥は「日本(の民主主義)は12歳の少年」と言ったが、そこには幼いということだけでなく、成長する未来があるという意味もあった。
『母性のディストピア』では、しかしながら、その後、日本は成長・成熟することなかった。そして、そのことがアニメの世界の天才達の作品から読み取れるとする。
軍隊を持たず、したがって外交を大きく欠いたまま、経済成長に邁進してきた戦後の日本社会において、民主主義が成熟するというのは、ストレートな問いではなかった。それゆえ、アニメという虚構が一定の役割を引き受けてきた。
ひとつは、成長しない身体=キャラクターを用いて成熟を描く「アトムの命題」。もう一つは、虚構でしか描くことのできない現実(例:戦争)を捉える「ゴジラの命題」。ともに50年代に現れた。
70年代後半になり、アニメは児童向けから、若者文化を牽引するようになり、国民的なものとなった。平成が終わる今、定期的にアニメを見る国民は3千万人に達している。
その流れを決定づけた機動戦士ガンダム(79年)は、宇宙世紀という緻密な虚構で「ゴジラの命題」に応えつつ、少年のままでも、ニュータイプという認識力の拡大によって相互理解が深まる革新によって、「アトムの命題」にも突破口を開くものだった。それは「世の中ではなく自己の内面を変える」という世界的な若者文化の潮流にものっていた。
距離を超えて人間が他の人間の存在を感じ、触れ合うという富野由悠季が描いた世界は、30数年後に、ソーシャルネットワークが張り巡らされた現代の情報社会を予見している。
しかし「12歳」が成熟する物語は生まれなかった。そして、1作目以降のガンダムでは、認識力の拡大によって、相互理解が進むことよりも、逆にエゴのぶつかり合いや分断が強まる、という世界観となった。
アニメが日本社会を映し出す優れた鏡だとすれば、日本において、父性は矮小化し、母性は肥大化したと言える。
『母性のディストピア』には父性と母性の上に、重要な概念が重ねられている。「映像の世紀」の終わりだ。そこから、吉本隆明の『共同幻想論』に接続するし、直接触れられてはいないがハラリの『サピエンス』にもつながってくる。
人間がどのように幻想/物語/虚構を共有するか。そしてそのことの変化がどのように起こっているかということだ。
20世紀は「映像の世紀」と言われる。映像が、さまざまな物語を、これまでとは比較にならない深さと広さで共有することを可能にした。戦後の日本では、天才が集まったアニメーションが、独自の進化を遂げながら、大きな役割を果たした。そうした前提に本書は立っている。
1995年は、Windows95によってインターネットの普及が加速し、映像の世紀の終わりが始まり、大きな物語の共有が難しくなっていったと言われている。
この年に、地下鉄サリン事件が起こった。アニメブームが頂点に達したと言われる1984年に設立された「オウム神仙の会」が、精神世界だけで充足できずに、現実世界で毒ガスを撒くというテロ行為に及んでしまったのはなぜなのか。それは「虚構」が機能しなくなったからだという。
同じ95年に社会現象となった『新世紀エヴァンゲリオン』は、これまでのアニメの潮流を引き継ぎつつ、最終2話で主人公が自己開発セミナーで内面を吐露し、周囲の人物から承認されて終わるという、制作的には破綻していると言われる結末となった。虚構としてのアニメは終わりを迎えた。
一連の考察から導き出される課題認識は、ガンダム、エヴァンゲリオンを通して、「自己の内面が変わることが、世界の変革につながる」という物語が、日本では力を失ったということ。
アニメ、それも一部の作品と社会をここまで重ねられるのか。そうした疑問も当然あると思うけれど、僕はこの問題提起はとても重要だと思っている。
平成は、日本がグローバル化と情報化に失敗した時代、と『母性のディストピア』では総括している。そして、政治にしろ、経済にしろ、この国の現実について語るべきものは何もないと。そこで、虚構、その中でももっとも才能が集まったアニメーションについて戦後にさかのぼって考察したのが本書だ。しかし、アニメでつむがれた虚構では、父性は矮小化/母性は肥大化し、自己の変化から世界が変わるという希望も失われた。さらに、その虚構の力も1995年を境に、機能しなくなり始め、20余年が経つ。
平成が終わるいま、2つの問いがあると思う。
・「映像の世紀」は、意識の高い「市民」と受け身の「大衆」を生んだ。「ネットワークの世紀」といわれる今世紀は、どのように虚構/物語が共有され、それは何を生むのだろうか。
・その物語では、父性と母性のバランスは、どのように語られるのだろうか。
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