本書は、丸ごと一冊かけて、主に末期の患者が自ら死ぬことの是非について論じている。
筆者の最終的結論は、本書冒頭でも述べられているが、「極めて特殊な場合を除き、積極的手段(致死薬投与など)・消極的手段(生命維持装置の継続をやめる)・間接的なもの(鎮痛剤を多量に投与することにより、死の可能性を上げる)含め、安楽死は認められない」というかなり強い主張である。
本書では、死期を早める行為の擁護論、批判論それぞれを論拠に分けてそれぞれ吟味していく、という構成がとられており、筆者の最終的結論に賛同できなくても、論点整理や事例紹介として本書は有益な著作だと思う。
まず擁護論として、患者の自己決定権、患者の利益、医療費高騰と経済的要因、の三つを挙げている。
自己決定権については、まず判断能力の欠如がある場合を考えることで、それが絶対的でないことを論じている。
また、経済的困窮による自殺や文学的な動機による自殺(久坂葉子の事例を挙げている)は、通常受け入れられないという批判を行っている。
ただしここの議論は「自己決定権が完全に絶対的でないこと」という意味ではその通りだが、筆者は「絶対的か、さもなくばかなり低い重みの考慮か」の誤った二分法を暗黙の裡に前提にしているようにも見える(筆者の言う「バランス論」が実際にはかなり自己決定軽視になっている)。
実際には「自己決定は、それを覆す非常に大きな理由がない限り、原則として最重要要素として尊重される」が妥当な結論だと思われる。
経済的要因による自殺については、本来国家は国民の生存権や社会権を認めていて、一定水準以下の困窮は国家の不正であるため、まず不正除去を訴えるのは妥当であり、安楽死(末期患者の苦痛除去は国家の義務ではない)とは事情が異なる。
患者の利益では、まず功利主義的観点において、どこまでが利益に入るか(家族等はどうか)、強制安楽死が否定できるか、等を検討し、功利主義的な福利一本槍では強制安楽死を排除しきれないと批判する。
次に、判断力喪失とリヴィング・ウィルの論点に移る。そもそも「意識を失った患者の利益」とは何か(当人が知覚も意識も出来ない状況で、何が当人の利益と言えるのか)、という論点はなかなか面白い。経験できない事柄に対する利益の問題として「夫が気付かない妻の不倫」という例が挙げられている。
患者の苦痛については、苦痛緩和のケア医療が普及すれば、この問題は言われているより小さくできるのではないかと論じられている。
「苦痛が小さくなりうる」という望ましい未来像については賛成するが、「望ましい未来の状況」を持ち出すことで(望ましくなっていない)現在の別の策を批判する、という論法が用いられている点には注意が必要である(実際、他の論点において筆者の論法は一貫していない)。
医療費高騰については、安楽死特有の問題とは言い難く(あえて言えば当人の意に反する強制安楽死の擁護論に近くなる)、むしろ医療制度全体の論点としてここで議論する必要性はあまりないように思った。
ただし、筆者の「年齢による傾斜配分」論への批判は「ある特定のタイプの人生観を前提にしている」というものであったが、これは逆に、年齢によらずに平等に取り扱うこともまた「別の特定のタイプの人生観を前提としている」と言えるのであって、この批判はあまり妥当でないと思った。
次に、死期を早める行為への批判論として、社会的弱者が不当に死に追いやられるのではないかという点、生きること自体に価値があるという点が挙げられている。
社会的弱者が援助を受けれずに死なされてしまうのではないか、というのは重要な論点である。
筆者が重ねて論じるように、この問題は強く配慮が必要なのは全くその通りだが、同時に次の点も考える必要がある。
第一に、これはあくまでも「安楽死制度が望ましくない副次的な事態を引き起こしうること」への批判であり、「安楽死そのもの(本当に死にたい人が死期を早めること)」に対する批判ではない。副次的な事態はすべての観点から抑えられるべきだが、同時に制度の工夫でかなりの程度抑えることはできる(極論だが、安楽死に大金がかかるようにすれば、経済的負担から死に追いやられるケースはなくなる)。そしてここでは「望ましい未来社会(不当に安楽死になる人はほぼ避けられている)」ではなく、現実社会に近い状況で問題の比較がされていて、患者の苦痛の場合の論法と異なる論法が都合よく用いられている。
第二に、これは安楽死に限らずすべての自己決定に妥当する。例えば「会社を辞める自由」が従業員にはあり、しばしば会社は特定の社員を窓際族などに追いやることで「自発的にやめるように追い込む」ことがあるが、だからといって「会社を辞める自由」が制限されるべきとはならない。あるいは家計事情に考慮して大学進学をあきらめる事例もあろうが、だからといってそういう人を強制的に大学進学させる制度が妥当とは言い難い。
第三に、「安楽死制度があることによる負担」と「安楽死制度があろうがなかろうが患者にかかる負担」とが区別されていない。安楽死制度がなくても、介護負担が家族に重ければ「邪魔だ」「早く死んでくれたらいいのに」などと思われたり、逆に周りへの負担から自らを責めることも十分に起こりうる(現に起きている)。このような非難や自責の問題は、安楽死制度があろうとなかろうと解消されるべき問題であり、安楽死制度の是非との結びつきは一見したイメージよりも弱い。
最後に「生きること自体に価値がある」だが、これは筆者が恐らく力を入れているはずなのに(だから、かもしれないが)、極めて的を外した議論になっていた。
筆者はカント主義に立って生きること自体の価値を擁護するが、最重要な点は「そもそもなぜ国民は(カント主義を信じないとしても)カント主義を強制されねばならないか」であるはずにもかかわらず、筆者はカント主義の枠内でどう議論が整合的になるか、あるいはカント主義は各論点にどうこたえるかを語るだけで、カント主義を押し付けるべき理由が何も提示されていない。
「本人がたとえ生きたくないと思っていて、苦痛も重かったとしても、それでもなお生き続けないといけない」という思想をある人が持つのは自由だが、カント主義を持たない人にそれを無理やり押し付けてよいだけの論拠は全く提示されていない。
そもそもこの論理だと、患者の自己決定よりも生命維持が優位に来てしまうため、「『受けると苦痛の大きい体で延命が出来る手術』を受けたくない患者(寿命が短くなっても、快適な環境で生きる時間を長くしたいと考えている)を、縛り付けてでも無理やりその手術を受けさせるのがよい」というのが筆者の論理構造の帰結になる(筆者自身は認めたくないようだが)。
全般的な筆者のスタンスから感じることとして、「曖昧でないことに価値を置きすぎている」印象を受ける。
確かに死期を早める行為を認める・認めないの線引きは曖昧にならざるを得ず、望ましからざる事例も入り込みうるだろう。それと比べると「ほぼ一律禁止」は明快で分かりやすいし、頭を悩ませる必要もなくなる。
しかし、例えば無政府状態も完全なる国家支配も、ともに明快で分かりやすいが妥当な政治体制とは言い難く、実際には自由がありつつ国家の介入もある状況(当然線引きは曖昧だし、不適切な介入や不適切な不介入もある)の方が妥当で、その曖昧な状況を少しずつ頑張ってクリアにしていこうという粘り強い試みが政治の探求である。
実際の社会は十分に曖昧なものである以上、曖昧さを忌避しすぎると極端に飛びつくことになってしまう。曖昧さの中で苦闘する方がよりよいものだと思われる。
以上のように、最終的な筆者の結論には同意できないが、しかしさまざまな論点を挙げて検討し、また事例も多数取り上げてくれている点は非常に有益である。
安楽死などの死期を早める行為を論じる際のたたき台としては十分な意味を持っている著作だろう。
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死ぬ権利はあるか――安楽死、尊厳死、自殺幇助の是非と命の価値 単行本 – 2019/2/15
有馬斉
(著)
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人の死期を早めうるふるまいを自身、家族、医療者がとることは許されるか。終末期のあり方を巡る問題からその倫理的是非を問い直す。
- 本の長さ558ページ
- 言語日本語
- 出版社春風社
- 発売日2019/2/15
- ISBN-104861106249
- ISBN-13978-4861106248
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
医療技術が進展するなか、人の死の望ましいありかたとは。死ぬ権利について擁護派と反対派の議論を広く集めて整理するとともに、豊富な事例や、各国・地域の政策的取り組みも参照しながら検討。人の命が持つ価値の大きさと根拠を問い直し、倫理的・政策的な判断の基礎となる考えを提示する。
著者について
有馬斉(アリマ・ヒトシ)
1978年生まれ。国際基督教大学教養学部卒。米国ケース・ウェスタン・リザーヴ大学大学院生命倫理学修士課程、米国ニューヨーク州立大学バッファロー校大学院哲学博士課程を修了。博士(哲学)。専門は倫理学、生命倫理。立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー、東京大学大学院医学系研究科特任助教を経て、2012年より横浜市立大学大学院都市社会文化研究科准教授。
主な著書に『生死の語り行い 1―尊厳死法案・抵抗・生命倫理』(生活書院、共著)、『生命倫理と医療倫理 第三版』(金芳堂、共著)、The Future of Bioethics: International Dialogues (Oxford University Press、共著)等。
◆日本医学哲学・倫理学会 第14回学会賞 受賞
1978年生まれ。国際基督教大学教養学部卒。米国ケース・ウェスタン・リザーヴ大学大学院生命倫理学修士課程、米国ニューヨーク州立大学バッファロー校大学院哲学博士課程を修了。博士(哲学)。専門は倫理学、生命倫理。立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー、東京大学大学院医学系研究科特任助教を経て、2012年より横浜市立大学大学院都市社会文化研究科准教授。
主な著書に『生死の語り行い 1―尊厳死法案・抵抗・生命倫理』(生活書院、共著)、『生命倫理と医療倫理 第三版』(金芳堂、共著)、The Future of Bioethics: International Dialogues (Oxford University Press、共著)等。
◆日本医学哲学・倫理学会 第14回学会賞 受賞
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
有馬/斉
横浜市立大学国際総合科学部准教授。1978年生まれ。国際基督教大学教養学部卒、米国ニューヨーク州立大学バッファロー校哲学博士課程修了。博士(哲学)。専門は倫理学、生命倫理。東京大学大学院医学系研究科特任助教などを経て、2012年より現職。論文「利益のボーダーライン―大脳機能の不可逆的な喪失と代理決定」で日本生命倫理学会若手論文奨励賞、「自殺幇助は人格の尊厳への冒涜か」で日本倫理学会和辻賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
横浜市立大学国際総合科学部准教授。1978年生まれ。国際基督教大学教養学部卒、米国ニューヨーク州立大学バッファロー校哲学博士課程修了。博士(哲学)。専門は倫理学、生命倫理。東京大学大学院医学系研究科特任助教などを経て、2012年より現職。論文「利益のボーダーライン―大脳機能の不可逆的な喪失と代理決定」で日本生命倫理学会若手論文奨励賞、「自殺幇助は人格の尊厳への冒涜か」で日本倫理学会和辻賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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登録情報
- 出版社 : 春風社 (2019/2/15)
- 発売日 : 2019/2/15
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 558ページ
- ISBN-10 : 4861106249
- ISBN-13 : 978-4861106248
- Amazon 売れ筋ランキング: - 441,020位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 19,416位倫理学・道徳 (本)
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
5つ星のうち4.4
星5つ中の4.4
5 件のグローバル評価
評価はどのように計算されますか?
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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ベスト500レビュアー
60人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2021年9月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
全体としてみると、安楽死(尊厳死)について読みやすい読み物だと思います。著者のスタンスは、ごく一部の例外をのぞいて、患者の死期をはやめる医療者のふるまい(安楽死)は、倫理的に正当化できない、というものですが、安楽死の賛成論と反対論がわかりやすくまとまっています。
ただし、本書のいたる所で「結論ありき」の議論運びが目立ちます。例として、自宅では治療不可能な免疫障害の患者がその性格の未熟さから「家に帰りたい」と強く要求するとき、著者は「この事例の患者の選択がそのまま尊重されるべきだと考える人はほとんどいないにちがいない」と断言しています。しかし、自宅では治療不可能であることを伝えてもなお自宅に帰ろうとする患者を無理に引き留めようとするほうが違和感を覚えます。「医療者ならばこうするはずだし、こうするべきだ」という著者の独断が漏れ出ていて、議論を意図的に誘導しているように思います。
また、著者が本書で繰り広げる安楽死批判のほとんどは、既存の意見をなぞっているだけになっているので、その点も非常に残念でした。著者が最終的に共感を抱く意見は、人は内在的価値を備えていて、自殺ほう助は人の尊厳・価値を毀損し、人の手段化につながるために許容できないというものですが、これはディヴィッド・ヴェレマンという名の研究者のほとんど受け売りであるようで、悲しいことに著者は受け売り以上の仕事をしていません。人という合理的本性が備わった理性的存在者が内在的価値を備えているという意見は、あまりにもカント的な前提や思い込みが入り込んでいるように見えるので、せめて、もうちょっと言葉を継ぎ足してほしかったように思います。私も安楽死には反対の立場ですが、安楽死の反対論者が「他人のふんどし」を借りている限りその言葉はどこか上滑りしていて空疎に響きます。本邦で安楽死の議論がじゅうぶんに尽くされないままである理由もそのあたりに隠されている気がします。
それに、人の生命を短縮することができるのは、合理的に思考することができないほどに限度を超えた苦痛がある場合にかぎられると著者は主張していますが、これも率直にみて説得力がありません。他のページで著者は、「成功に役立たないからという理由で高齢期や機能障害のともなう生活に小さな価値しか認めない人生観は、老年と機能障害にたいする差別的偏見そのものだも考えうる」と非難していますが、私には合理的な思考や理性だけに特別な内在的価値を見出す考えも、差別的偏見以外ではないように感じます。合理的本性が備わった理性的存在者でない重度の知的障害者は内在的価値を備えていないのでしょうか。なぜそこまで「合理的な思考」の能力を重視しなければいけないのでしょうか。
著者は、安楽死を制度化すると社会的弱者が安楽死を強いられてしまうリスクに敏感ですが、人の尊厳という文脈にうつるとその敏感さは著者のなかで途端に鈍化しています。人が内在的価値を備えるというのはいかにも哲学者らしいご立派な主張だと思いますが、それがはらむ差別的な思想やリスクに無自覚であるのは哲学者の大きな罪だと思わざるを得ません。
ただし、本書のいたる所で「結論ありき」の議論運びが目立ちます。例として、自宅では治療不可能な免疫障害の患者がその性格の未熟さから「家に帰りたい」と強く要求するとき、著者は「この事例の患者の選択がそのまま尊重されるべきだと考える人はほとんどいないにちがいない」と断言しています。しかし、自宅では治療不可能であることを伝えてもなお自宅に帰ろうとする患者を無理に引き留めようとするほうが違和感を覚えます。「医療者ならばこうするはずだし、こうするべきだ」という著者の独断が漏れ出ていて、議論を意図的に誘導しているように思います。
また、著者が本書で繰り広げる安楽死批判のほとんどは、既存の意見をなぞっているだけになっているので、その点も非常に残念でした。著者が最終的に共感を抱く意見は、人は内在的価値を備えていて、自殺ほう助は人の尊厳・価値を毀損し、人の手段化につながるために許容できないというものですが、これはディヴィッド・ヴェレマンという名の研究者のほとんど受け売りであるようで、悲しいことに著者は受け売り以上の仕事をしていません。人という合理的本性が備わった理性的存在者が内在的価値を備えているという意見は、あまりにもカント的な前提や思い込みが入り込んでいるように見えるので、せめて、もうちょっと言葉を継ぎ足してほしかったように思います。私も安楽死には反対の立場ですが、安楽死の反対論者が「他人のふんどし」を借りている限りその言葉はどこか上滑りしていて空疎に響きます。本邦で安楽死の議論がじゅうぶんに尽くされないままである理由もそのあたりに隠されている気がします。
それに、人の生命を短縮することができるのは、合理的に思考することができないほどに限度を超えた苦痛がある場合にかぎられると著者は主張していますが、これも率直にみて説得力がありません。他のページで著者は、「成功に役立たないからという理由で高齢期や機能障害のともなう生活に小さな価値しか認めない人生観は、老年と機能障害にたいする差別的偏見そのものだも考えうる」と非難していますが、私には合理的な思考や理性だけに特別な内在的価値を見出す考えも、差別的偏見以外ではないように感じます。合理的本性が備わった理性的存在者でない重度の知的障害者は内在的価値を備えていないのでしょうか。なぜそこまで「合理的な思考」の能力を重視しなければいけないのでしょうか。
著者は、安楽死を制度化すると社会的弱者が安楽死を強いられてしまうリスクに敏感ですが、人の尊厳という文脈にうつるとその敏感さは著者のなかで途端に鈍化しています。人が内在的価値を備えるというのはいかにも哲学者らしいご立派な主張だと思いますが、それがはらむ差別的な思想やリスクに無自覚であるのは哲学者の大きな罪だと思わざるを得ません。






