私自身は社会的影響力が小さい職業に従事し、残り数年で定年を迎える身である。むしろ社会に影響されるままに生きてきた、といった方が正確だろう。みずからのこうした「社会的に従順」な「羊の市民」としての立場は理解していたし、これを恥じたり悔やんだり不服に思うことはなかった。反面、バグダッド、カブール、ガザ、ダマスカス、アレッポといった都市が激しい爆撃により壊滅的被害に晒される映像を見ても、早くあんな悲惨な戦争が終わって欲しいものだ、程度の小市民的な消極性を恥じることがなかったのも事実である。「私が憤ったところでどうなるんだ?」という都合のよい弁解の陰に隠れて、「せめて実情だけでも詳しく正確に理解しよう」という動機さえ持とうとしなかった。
この本を読んで「活動家」としての伊勢崎先生の巨大なバイタリティーと強い信念に支えられた実行力には、まさに生ぬるい隠れ家から引きずり出されて「張り倒される」実感があった。もし私が何かの間違いでムジャヒディンの兵舎に紛れ込んでしまったとしたら、「兵士たちの戦意を削ぐ無気力及び無信仰」の廉で、あっという間に公開処刑されて映像がインターネットに展示されてしまうのだろうか。
それはともかく、休戦協定から「終戦」が完了するまでにはDDR(武装解除、動員解除、社会復帰)という複雑で膨大なプロセスを必要とし、そこに伊勢崎先生のような稀代の人材が必要とされる。その戦略的な閃きや瞬時の決断力に加え「第六感」とでも言うべき「勘の鋭さ」に助けられ、生命の危機さえ何度となく潜り抜けて来られたお姿は、まるで強い背後霊にでも守られているかのようだ。
憲法九条に関して政府やマスコミが繰り広げる「不毛の神学論争」に対する厳しいご批判は、東ティモール、シエラレオネ、アフガニスタンなどの修羅場を生き延びた強烈な経験と確信に裏付けられており、非常に説得力がある。そこには「不浄な政治家」や「夢見る評論家」などの薄っぺらな「情勢音痴」ではとても太刀打ちできない不動の信念がある。
巻末の「憲法九条は一文一句たりとも変更されることがあってはならない」というご主張は、真の終戦までの長く険しい道程を経て、ようやく到達する平和、先人たちの血と知恵と信念で勝ち取られた平和が、短絡的な「一歩」であっさりと粉砕されてしまいかねない危機への警鐘であり叫びであり祈りである。この本は2004年頃に上梓されたようだが、2019年の現在、まさに不浄な政治家や自由市場主義者たち、無能で無経験な外務省などによって憲法九条が蹂躙されようとしているこんにちの私たちに訴えかけている。
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