柳田国男には、どこかわかりにくいところがある。それは、彼が取り扱った領域が多方面に渡っているからというだけでなく、そもそも、そんな彼を支えている核のようなものが、どうにもハッキリしないからである。そんな「柳田国男という名の精神」を、いろいろな角度から浮かび上がらせようとしているのが、本書の中心となる『柳田国男試論』という長編のエッセイである。
このエッセイを読むと、柳田のわかりにくさが何ゆえか、よくわかる。それは、読み手がひとりひとり考えてみればいいことだが、私としては「なんて孤高の人なんだ」と、つい思ってしまった。だれも柳田の真似はできないし、実のところ、だれもその「学」を継承できないように見えてしまうからだ。これじゃ、毀誉褒貶は当然だろう。
ところで、このエッセイは、今からちょうど40年前の1974年に発表されている。私は80年代半ばの『探究Ⅰ』までの著者のエッセイが好きなので、とくに気にならなかったが、人によっては、タームや引用文献、あるいは、やや文学的な論述スタイルなどに古くささを感じてしまうかもしれない。しかし、それでも一読に値すると思うのは、エッセイの至るところに、まるで断言命題的に、ものを「考えるヒント」が散りばめられているからだ。たとえば、
「柳田にとって大切だったのは、祖先崇拝ということそのものではなく、われわれが、幾重にも堆積されてきた過去の上にあり、将来につながるひとコマを生きているという歴史感覚である。そのような感覚がなければ、われわれは政策をたてることができない。そのような感覚なしにたてられる政策は、ただ現存する者の利益のみを反映し、また、現存する者が恣意的に想定する未来のみを考慮に入れることになるからである」
こんな「歴史感覚」を、とうの昔に失ってしまって久しいような「われわれ」には、今後、いかなる「政策」が立てられるだろうか。
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