先日、再放送されたNHKのテレビドラマ「東京裁判」を観て、自分が、何も知らないことを痛感。
日本人なのに、この当時のことを含め、「日本の歴史」について語ることができない。
遅きに失した感は否めないものの、まずは、この本から紐解いてみようと思い立った。
テレビドラマは、戦勝国から選出された判事の目を通し、「敗戦国・日本」「東京裁判」が描かれていたが、本書では、当時、大学生だった著者が傍聴した内容、資料を礎に、戦犯となった人々の姿が書かれている。
他のレビュアーさんとは異なり、私は、「目から鱗」状態。鱗が、ポロポロ、落ちるは、落ちるわは…。
恥ずかしいことに、戦犯の決められ方も、東条英機が自殺を図ったことも、戦争犯罪の定義も、全く知らなかったのだから。
第5章 広田弘毅夫人の死では、鱗とともに、涙がポロポロ。
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東京裁判 上 (中公新書 244) 新書 – 1971/3/25
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- 本の長さ271ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日1971/3/25
- ISBN-10412100244X
- ISBN-13978-4121002440
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年11月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
非常に面白かったです。
_本書上巻で記載されているのは,東京裁判のうち,マッカーサー元帥が来日して対日政策を決定する所,から,キーナン検事団が論告・証人喚問・立証をし終える所までです。
_本書の記述スタイルは,ノンフィクション小説という感じでした。だから,何でそんな細かい描写まで出来るんだ,と感じる点はありました。
_本書では,著者自身の意見は極力控えると言うスタンスは感じました。しかし,裁判での裁判長・検事・弁護団らのやりとりは長期間で膨大なものであるのに,裁判での会話の資料はどういう判断で取捨選択しているのかなという感は持ちました。
_本書上巻で記載されているのは,東京裁判のうち,マッカーサー元帥が来日して対日政策を決定する所,から,キーナン検事団が論告・証人喚問・立証をし終える所までです。
_本書の記述スタイルは,ノンフィクション小説という感じでした。だから,何でそんな細かい描写まで出来るんだ,と感じる点はありました。
_本書では,著者自身の意見は極力控えると言うスタンスは感じました。しかし,裁判での裁判長・検事・弁護団らのやりとりは長期間で膨大なものであるのに,裁判での会話の資料はどういう判断で取捨選択しているのかなという感は持ちました。
2013年8月11日に日本でレビュー済み
初歩的な入門書としては適切。
ただ、これを読んでいて感じるのは、今でもそうだが、日本人は人前で話をするのが苦手な人種だということ。ましてや昔、裁判で証言するのは、とても無理な人が多かったのだろう。
裁判の政治性等、色々な問題はあるが、そういったことよりも、もっと本質的な問題の方が重要だ。日本は、裁判にはふさわしくない国民性だったし、連合国も、それを理解しようとする姿勢がなかった。責められるとすぐ屈服してしまう人が多いので、パール判事も、「日本はもっと主張すべきだ」と言っている。南京大虐殺にしても、弁護人が「国際的に宣伝されたので、あまり反論しなかった」と言う。たったこれだけ。これでもって、日本はやったことにされてしまった。それがいまだに尾を引いている。清瀬弁護人が裁判長に抗議した、というのも、映画で見ると、小さく「裁判長」と言っているだけ。全く情けない。原爆投下に対する抗議だって、米人弁護人が言ってる。日本側は誰も言わない。終戦直後なので、通訳の問題など、物理的な問題もあったが、もう少し何とかやりようがなかったのだろうか。例えば、被告全員が裁判を一切無視して一言も言わない、とか。(中国の4人組裁判の一人みたいだが、)そうすれば、全員が有罪を認めた場合と同じように、少なくとも、日本人にはわかる何物かを永久に残しただろう。(これ、児玉誉士夫が若い将校から聞いたという話になってるけど、児玉自身の感想かな)
日本人は、とにかく相手のことを思いやって、話をよく聞こうとする。しかし、欧米ではそうじゃない。質問に答える気がないとみるや、すぐ中止してしまう。乱暴だが、欧米ではそうなんだ。
広田はやや美化されてるな。一切発言しなかったのは、欧米からすると、裁判を無視してる、と見られてかえって心証を悪くした。
ところで、ニュルンベルク裁判では処刑後の写真を公開してるけど、日本では撮らなかったのだろうか。近衛の写真だけは公開されてるけど。
ただ、これを読んでいて感じるのは、今でもそうだが、日本人は人前で話をするのが苦手な人種だということ。ましてや昔、裁判で証言するのは、とても無理な人が多かったのだろう。
裁判の政治性等、色々な問題はあるが、そういったことよりも、もっと本質的な問題の方が重要だ。日本は、裁判にはふさわしくない国民性だったし、連合国も、それを理解しようとする姿勢がなかった。責められるとすぐ屈服してしまう人が多いので、パール判事も、「日本はもっと主張すべきだ」と言っている。南京大虐殺にしても、弁護人が「国際的に宣伝されたので、あまり反論しなかった」と言う。たったこれだけ。これでもって、日本はやったことにされてしまった。それがいまだに尾を引いている。清瀬弁護人が裁判長に抗議した、というのも、映画で見ると、小さく「裁判長」と言っているだけ。全く情けない。原爆投下に対する抗議だって、米人弁護人が言ってる。日本側は誰も言わない。終戦直後なので、通訳の問題など、物理的な問題もあったが、もう少し何とかやりようがなかったのだろうか。例えば、被告全員が裁判を一切無視して一言も言わない、とか。(中国の4人組裁判の一人みたいだが、)そうすれば、全員が有罪を認めた場合と同じように、少なくとも、日本人にはわかる何物かを永久に残しただろう。(これ、児玉誉士夫が若い将校から聞いたという話になってるけど、児玉自身の感想かな)
日本人は、とにかく相手のことを思いやって、話をよく聞こうとする。しかし、欧米ではそうじゃない。質問に答える気がないとみるや、すぐ中止してしまう。乱暴だが、欧米ではそうなんだ。
広田はやや美化されてるな。一切発言しなかったのは、欧米からすると、裁判を無視してる、と見られてかえって心証を悪くした。
ところで、ニュルンベルク裁判では処刑後の写真を公開してるけど、日本では撮らなかったのだろうか。近衛の写真だけは公開されてるけど。
2005年7月15日に日本でレビュー済み
始めにはっきりさせておきたいことがある。
「歴史学」の基本はあくまで「過去に起きた事実」にあります。少なくとも近代的な人文「科学」として批判に堪える「史書」たる為には、一切のフィクションを排し、「事実」のみによる記述が求められます。
これは、「東京裁判」に限らず、「歴史学」の基本であります。無論、例えば「義経」について史実と違う「英雄」として語られ文学・芸能にまで発展したことも、歴史的事実であって、それを支えた庶民の「考え方」として歴史学的に貴重。また「記紀」のような古代の歴史書は、そのまま「事実」としては受容できぬが、当時の為政者がこういう「歴史像」を描いたという事もまた貴重な「歴史的事実」である。
その上で、どの事実に「意味」を見出し、「歴史」叙述に高めるかが「歴史家」の仕事。ここでいろいろな「立場」が発生する可能性があるけど、基本には徹頭徹尾「過去の事実」の集積がなければならない。
これは「歴史学」の根本命題だと愚生は考えます(余りに当前のことだと思うが、今、私はこの「歴史の基本」を再確認せねばいけない必要を痛感している)。
前置きが長くなったが、「東京裁判史観」などというようなことが言われるなか、まず必要なのは「歴史的事実」、つまりこの多くの問題をはらんだ裁判の「詳細な事実」を知ることが決定的に重要だと思うから。
無論、あらゆるやり取りの記録はあるが、それを全部読むことは現実には不可能。だから、幾度かは実際に裁判を傍聴した経験があり、相当な量の資料に当たりつつ、新書2冊というコンパクトな形で「裁判の実像」をかなり上手く書き込んだ本書は、その概要を知ろうという積極的な読者の要望をかなりの程度満たしてくれる書として、僕は高く評価する。
無論、欠点はある。裁判と並行して進められた占領政策に触れていないのは、特に天皇の地位問題で惜しまれる。が、本書の意義を否定するほどのものではなかろう。
「歴史学」の基本はあくまで「過去に起きた事実」にあります。少なくとも近代的な人文「科学」として批判に堪える「史書」たる為には、一切のフィクションを排し、「事実」のみによる記述が求められます。
これは、「東京裁判」に限らず、「歴史学」の基本であります。無論、例えば「義経」について史実と違う「英雄」として語られ文学・芸能にまで発展したことも、歴史的事実であって、それを支えた庶民の「考え方」として歴史学的に貴重。また「記紀」のような古代の歴史書は、そのまま「事実」としては受容できぬが、当時の為政者がこういう「歴史像」を描いたという事もまた貴重な「歴史的事実」である。
その上で、どの事実に「意味」を見出し、「歴史」叙述に高めるかが「歴史家」の仕事。ここでいろいろな「立場」が発生する可能性があるけど、基本には徹頭徹尾「過去の事実」の集積がなければならない。
これは「歴史学」の根本命題だと愚生は考えます(余りに当前のことだと思うが、今、私はこの「歴史の基本」を再確認せねばいけない必要を痛感している)。
前置きが長くなったが、「東京裁判史観」などというようなことが言われるなか、まず必要なのは「歴史的事実」、つまりこの多くの問題をはらんだ裁判の「詳細な事実」を知ることが決定的に重要だと思うから。
無論、あらゆるやり取りの記録はあるが、それを全部読むことは現実には不可能。だから、幾度かは実際に裁判を傍聴した経験があり、相当な量の資料に当たりつつ、新書2冊というコンパクトな形で「裁判の実像」をかなり上手く書き込んだ本書は、その概要を知ろうという積極的な読者の要望をかなりの程度満たしてくれる書として、僕は高く評価する。
無論、欠点はある。裁判と並行して進められた占領政策に触れていないのは、特に天皇の地位問題で惜しまれる。が、本書の意義を否定するほどのものではなかろう。