第二次大戦下の欧州のリトアニアで日本の外交官として赴任中に、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人6000人以上にビザを発行した杉原千畝氏の業績を間近で見ていた奥様が書き残されている。
リトアニアは最初の赴任先だったフィンランドのヘルシンキからの転属で、
ビザ発行のタイミングは第二次大戦初期の1940年です。もっと遅い時期かと思いましたが、ドイツの東方への進出がユダヤ人の東への逃亡に繋がっていたので、1939年ポーランド侵攻後のタイミングで起きたということですね。
視点が奥様の幸子様なので、当然に結婚前の出会いからプロポーズを受けて結婚する辺りからのお話のスタートで、奥様が千畝さんと出会う前の時系列については記載は年表のみになります。
リトアニアはバルト三国の一角を占めており、地理的にはポーランドの北ですが当時はソ連の支配下に入るしか生き残りの道が無かった。日本の領事館もソ連の占領に併せて退去を求められ、千畝さんはギリギリのタイミングまでビザの発行を続け一人でも多くのユダヤ人の人たちが日本を通過してアメリカや南米へと逃れられるようにしました。
戦時中ですが外交官の千畝さんとその家族なので優先的に物資を回してもらえたようなので、そこは恵まれていたのですが、やはり本国である日本の許可を受けないビザの発行は躊躇が当然にあった模様です。
リトアニアを去った杉原一家はベルリンに移り、そこから今度はチェコの首都・プラハへ移ります。さらに、東プロイセンのケーニヒスベルグ、ルーマニアのブカレストと仕事の場所を移していきます。
その間、本国の日本では真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まるなどして目まぐるしく情勢が変わっていき、基本的には当時「日独伊三国同盟」を締結していた関係で、友好国のドイツの情報のやり取りが主な任務だったようです。
リトアニアを去った後もナチスドイツ支配下ではユダヤ人の大量輸送などが続けられていたかと思うのですが、その辺の具体的な記述はありません。勿論、杉原さんや奥様がナチスのやっていたことを知っていたはずはないので、記述がないのは当然とも言えますが、ユダヤ人の大量輸送などを目撃しなかったのでしょうか?
外交官で日々、情報を収集していた千畝さんにはこの戦争における日本の敗北が早くから見えていたようです。
当然、情報第一の仕事ですから情報統制されて真実を知らない本国の多くの国民とは訳が違います。
事実、戦況は日々悪くなる一方で、日本は広島・長崎に原子爆弾を投下されて無条件降伏し終戦を迎えました。
終戦後の杉原一家はソ連軍により軟禁状態に置かれていましたが、シベリアを経由して船で日本に無事に帰国出来ました。
しかし、その後千畝さんは外務省を辞めさせられました。
奥様の視点では詳細は記載されていませんが、やはりピザの無断発行が問題とされたのだろうと。
戦後は三男と苦楽を共にした妹様がいずれも病死されるなど、苦しくなった杉原家でしたが、奥様は常に千畝さんの傍らにあって、旦那さんを支え続けていた。
やがて戦後の復興の中で全ての事が過去に成り掛けたとき、リトアニアでの千畝さんの業績が評価され今日多くの人に知られるようになったということです。最初の表彰は千畝さんのビザで命が助かったユダヤ人が築いたイスラエルです。日本は外国が千畝さんを表彰してから後追いの形で表彰しました。本来なら、日本が他の国に先駆けて表彰しなければならないところを、外務省を辞めさせるなど冷遇しておき、外国が認め始めてようやく表彰する。恥ずかしい。
けれど、この本を読んで分かった。イスラエルより先に「奥様がご主人を表彰していた」ということ。
それで十二分だったのですね。
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