初めて読んだのですが、40年以上前に書かれたものとは、とても思えませんでした。自然の脅威という点だけでなく、社会情勢、国際情勢に関しても、実に予言的です。
これだけのビジョンが小松左京という独りの人間の頭脳から産み出されたのだと思うと、その天才振りに震撼すらさせられます。
日本沈没(上) (光文社文庫) Kindle版
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言語日本語
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出版社光文社
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発売日1995/4/20
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ファイルサイズ460 KB
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
日本列島の下で、何かが起こっている。深海潜水艇“わだつみ”の操艇者・小野寺俊夫は、地球物理学の権威・田所博士と日本海溝に潜り、異変を発見した。日本沈没を警告する田所博士の指示で、政府は“D‐1”計画を立て、極秘に調査を開始した。―危機管理のあり方、世界の中の日本とは、そして日本人とは何か…さまざまな問題を喚起した空前のパニック小説。
--このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。
登録情報
- ASIN : B009KZ593O
- 出版社 : 光文社 (1995/4/20)
- 発売日 : 1995/4/20
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 460 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効にされていません
- Word Wise : 有効にされていません
- 本の長さ : 409ページ
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Amazon 売れ筋ランキング:
- 150,391位Kindleストア (の売れ筋ランキングを見るKindleストア)
- - 636位SF・ホラー・ファンタジー (Kindleストア)
- - 1,309位光文社文庫
- - 19,691位日本の小説・文芸
- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2008年10月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
書店で日本沈没第2部(上下)なるものを見つけた。最初のあたりを斜め読みした時点で、「第一部」なるものを読み、それをベースに読まないと絶対に楽しめないだろうと判断。しかし30年前の作品ということで、どの書店にも、もはや存在せず、古本を手に入れた。
当時日本中がこの話で沸き返った作品とあって、中身の濃い話だった。
日本列島が沈むという地球規模のメカニズムが非常にリアルで、まるで、自分が立っている大地が今裂けてもおかしくないような気分にさせられた。
小松左京氏は最後に「この作品は完全なるフィクションであり、いかなる実在の人物、事件もモデルにしていない」とわざわざ付け加えた理由もおおいにうなずけた。
一方、田所博士や若き研究員達をはじめとする個々の登場人物、一般庶民の動向、政府の動向など、人間の細やかな心理描写も見事。
規模の全く異なる話が、緻密に絡まって、非常に読み応えのある作品だった。そして、なんといっても「日本国」あるいは「日本国土」、「日本人」ということを、改めて考えさせられた。
読後、「異変後の日本国、日本人」はいったい今後どうなるのか?大いに気になる作品だ。小松左京氏自身も、これを書き上げた直後から構想を暖め、実に30年の時を経て、日本沈没第2部(上下)が登場となったわけだ。
当時日本中がこの話で沸き返った作品とあって、中身の濃い話だった。
日本列島が沈むという地球規模のメカニズムが非常にリアルで、まるで、自分が立っている大地が今裂けてもおかしくないような気分にさせられた。
小松左京氏は最後に「この作品は完全なるフィクションであり、いかなる実在の人物、事件もモデルにしていない」とわざわざ付け加えた理由もおおいにうなずけた。
一方、田所博士や若き研究員達をはじめとする個々の登場人物、一般庶民の動向、政府の動向など、人間の細やかな心理描写も見事。
規模の全く異なる話が、緻密に絡まって、非常に読み応えのある作品だった。そして、なんといっても「日本国」あるいは「日本国土」、「日本人」ということを、改めて考えさせられた。
読後、「異変後の日本国、日本人」はいったい今後どうなるのか?大いに気になる作品だ。小松左京氏自身も、これを書き上げた直後から構想を暖め、実に30年の時を経て、日本沈没第2部(上下)が登場となったわけだ。
2015年6月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本作品は「日本滅亡」のタイトルのもと、1964年、東京オリンピックの年に書き始められ、その後、膨大な取材を通して、
9年の歳月をかけて、1973年に完成させられているが、1960年代のはじめにおいては、「大陸移動説」は一部の科学者が述べた仮説に過ぎず、
その動力学的な機序がプレートテクトニクスへと発展していくのは1960年代後半以降ということを知ると、
小松は、1964年という極めて早い時期に、プレートテクトニクスの重要性に気付いていたことになり、その先見性の素晴らしさには驚かされる。
本書は、1973年に光文社カッパ・ノベルスより書き下ろしで刊行され、その年に計385万部発行され「空前の大ベストセラー」と評された。
プレートテクトニクス理論を、地震発生のメカニズムとして、一般的な国民が、常識として、議論できる国は、
世界中で、日本以外ではありえないが、大陸の運動を、国民すべてが等しく理解できるように啓蒙したということにおいて、
この作品の歴史的な役割は、極めて大きく、
まさに、日本の歴史に残る、記念碑的な「国民文学」であり、「SF作品」だということになる。
小松は、本書執筆の契機についてのインタビューで、戦争を体験していなかったSFを書くことはなかったと語っている。
「あの経験をいろいろ延長していくと、そういったものを書く文学はSFしかなかったんだね。だって一億玉砕だもんな」
「それはどういうことになるのかという疑問がずっと残っていたし、国土が全部占領されたのち、日本がどう生きるかってことも考えていいんじゃないかと」
「終戦までのたった一週間で広島・長崎で何10万人が死んだろ。その前に飢餓や空襲で、もちろん戦場で兵士がたくさん死んでいる。
つまり、どうしようのないクライシスが終わって生き残った連中は、どう責任をとるかということなんだ。死んだ人のためにね。
それが僕の14、5歳からのテーマだったんだな」
たかだか、上下2巻の長さながら、作品には、小松の知識、哲学、そして作家として使命感の全てが渾身の力で叩き込まれており、
作品に提示される、あまりに膨大な情報量のために、読了までに疲弊してしまったり、作品の細部を読み飛ばしたという読者も多かったのではないだろうか?
私は、3.11の震災後、これまで2回、本書を通読してきたが、
今回新たに、kindle版の書籍として、約一か月かけて、検索機能を総動員させて本書を通読してみたが、
以前の通常の書籍による読書では、内容を3割ぐらいしか理解できていなかったことに気付かされた。
作品に描かれる情報の中で読者を疲弊させるのは、地名を含めた固有名詞の多さであろう。
例えば、
田所博士は眼をあげた。床柱をはさんで、床の反対側が違い棚になっており、その奥の柱に瓢箪の一輪ざしがかかっていて、
小さな、真紅の花が、濃緑の葉を2、3枚そえて、ひっそり開いている。
「侘助--ですな.....」と、田所博士はつぶやいた。
という文章でも、「違い棚」や、「瓢箪の一輪ざし」、「侘助」をgoogleで検索すると、その画像が掲示されて文意が明確になり、
小松が描こうとした世界がありありと目に浮かぶようになる。
同様に、
日本列島の中央部には、もう一つ、フィリピン海盆中心の湧昇塊によって形成されつつあるマントル不連続線の前線弧が、
南方から北方にかけてクロスする。マリアナ=小笠原弧だ。前線弧にそって火山列島ができ、その地熱流の高い弓状線から、
西へ204、50キロはなれた所を、前線弧と並行して、地下400キロもの深いところで発生する、深発性震源帯が走っている。
富士火山帯は日本列島中央部でとまっているが、深発性震源帯は、日本列島をよこぎってさらに日本海の下をウラジオストックまでのび、
そこで東へ殆んど90度折れて、沿海州海岸に沿ってオホーツク海までのびている。
以上のような文章でも、「フィリピン海盆」「マリアナ=小笠原弧」「富士火山帯」「ウラジオストック」「オホーツク海」といった言葉が、
検索により、地図や図、写真で示されると、突然、目の前に日本をめぐるプレートの状況がはっきりと理解できるようになる。
どうだろうか、私と同じように、以前の読書では、あまりの地名や固有名詞の多さに読み飛ばしてしまっていた読者は少なくはないのではないだろうか?
地名や固有名詞をおさえると、特に第1章の日本海溝の深海のシーンや、第5章の列島の動きをシュミレーションしながら繰り広げられる
列島沈没を引き起こす機序の仮説が示される過程のもたらす緊迫感は、「ハードSF]ファンには心が震えるような喜びをもたらしてくれるはずである。
今回iPad上で読了したが、電子書籍とその周辺の環境の整備により、書籍の本文から、シームレスに言葉の意味、画像、動画、地図検索を行えるようになり、
まさに、野崎まどが「know」に描いた、人造の脳葉〈電子葉〉の移植が義務化された世界と同様のことが可能な社会に突入したと感じた。
その意味で、超情報化社会における読書として、過大な情報をぶち込んだ作品である本書で、
小松が「本当は何を描き、何を伝えたかったのか」、
作品が伝えようとしたものの真価が、多くの読者に理解される時代に突入したといえるのではないか。
本書は、今こそ、電子書籍として改めて読まれるべき作品なのだと思う。
是非、電子書籍として再読されることをお勧めする。
9年の歳月をかけて、1973年に完成させられているが、1960年代のはじめにおいては、「大陸移動説」は一部の科学者が述べた仮説に過ぎず、
その動力学的な機序がプレートテクトニクスへと発展していくのは1960年代後半以降ということを知ると、
小松は、1964年という極めて早い時期に、プレートテクトニクスの重要性に気付いていたことになり、その先見性の素晴らしさには驚かされる。
本書は、1973年に光文社カッパ・ノベルスより書き下ろしで刊行され、その年に計385万部発行され「空前の大ベストセラー」と評された。
プレートテクトニクス理論を、地震発生のメカニズムとして、一般的な国民が、常識として、議論できる国は、
世界中で、日本以外ではありえないが、大陸の運動を、国民すべてが等しく理解できるように啓蒙したということにおいて、
この作品の歴史的な役割は、極めて大きく、
まさに、日本の歴史に残る、記念碑的な「国民文学」であり、「SF作品」だということになる。
小松は、本書執筆の契機についてのインタビューで、戦争を体験していなかったSFを書くことはなかったと語っている。
「あの経験をいろいろ延長していくと、そういったものを書く文学はSFしかなかったんだね。だって一億玉砕だもんな」
「それはどういうことになるのかという疑問がずっと残っていたし、国土が全部占領されたのち、日本がどう生きるかってことも考えていいんじゃないかと」
「終戦までのたった一週間で広島・長崎で何10万人が死んだろ。その前に飢餓や空襲で、もちろん戦場で兵士がたくさん死んでいる。
つまり、どうしようのないクライシスが終わって生き残った連中は、どう責任をとるかということなんだ。死んだ人のためにね。
それが僕の14、5歳からのテーマだったんだな」
たかだか、上下2巻の長さながら、作品には、小松の知識、哲学、そして作家として使命感の全てが渾身の力で叩き込まれており、
作品に提示される、あまりに膨大な情報量のために、読了までに疲弊してしまったり、作品の細部を読み飛ばしたという読者も多かったのではないだろうか?
私は、3.11の震災後、これまで2回、本書を通読してきたが、
今回新たに、kindle版の書籍として、約一か月かけて、検索機能を総動員させて本書を通読してみたが、
以前の通常の書籍による読書では、内容を3割ぐらいしか理解できていなかったことに気付かされた。
作品に描かれる情報の中で読者を疲弊させるのは、地名を含めた固有名詞の多さであろう。
例えば、
田所博士は眼をあげた。床柱をはさんで、床の反対側が違い棚になっており、その奥の柱に瓢箪の一輪ざしがかかっていて、
小さな、真紅の花が、濃緑の葉を2、3枚そえて、ひっそり開いている。
「侘助--ですな.....」と、田所博士はつぶやいた。
という文章でも、「違い棚」や、「瓢箪の一輪ざし」、「侘助」をgoogleで検索すると、その画像が掲示されて文意が明確になり、
小松が描こうとした世界がありありと目に浮かぶようになる。
同様に、
日本列島の中央部には、もう一つ、フィリピン海盆中心の湧昇塊によって形成されつつあるマントル不連続線の前線弧が、
南方から北方にかけてクロスする。マリアナ=小笠原弧だ。前線弧にそって火山列島ができ、その地熱流の高い弓状線から、
西へ204、50キロはなれた所を、前線弧と並行して、地下400キロもの深いところで発生する、深発性震源帯が走っている。
富士火山帯は日本列島中央部でとまっているが、深発性震源帯は、日本列島をよこぎってさらに日本海の下をウラジオストックまでのび、
そこで東へ殆んど90度折れて、沿海州海岸に沿ってオホーツク海までのびている。
以上のような文章でも、「フィリピン海盆」「マリアナ=小笠原弧」「富士火山帯」「ウラジオストック」「オホーツク海」といった言葉が、
検索により、地図や図、写真で示されると、突然、目の前に日本をめぐるプレートの状況がはっきりと理解できるようになる。
どうだろうか、私と同じように、以前の読書では、あまりの地名や固有名詞の多さに読み飛ばしてしまっていた読者は少なくはないのではないだろうか?
地名や固有名詞をおさえると、特に第1章の日本海溝の深海のシーンや、第5章の列島の動きをシュミレーションしながら繰り広げられる
列島沈没を引き起こす機序の仮説が示される過程のもたらす緊迫感は、「ハードSF]ファンには心が震えるような喜びをもたらしてくれるはずである。
今回iPad上で読了したが、電子書籍とその周辺の環境の整備により、書籍の本文から、シームレスに言葉の意味、画像、動画、地図検索を行えるようになり、
まさに、野崎まどが「know」に描いた、人造の脳葉〈電子葉〉の移植が義務化された世界と同様のことが可能な社会に突入したと感じた。
その意味で、超情報化社会における読書として、過大な情報をぶち込んだ作品である本書で、
小松が「本当は何を描き、何を伝えたかったのか」、
作品が伝えようとしたものの真価が、多くの読者に理解される時代に突入したといえるのではないか。
本書は、今こそ、電子書籍として改めて読まれるべき作品なのだと思う。
是非、電子書籍として再読されることをお勧めする。
ベスト500レビュアー
この作品に勝るリアリティを持った大地震・大災害小説には、まだ出会ったことがない。それほどインパクトが強くて、しかもきわめて現実に近い状況が書かれている作品。
描写が、災害時の人間関係だけに偏ることもなく、その災害から逃げだす描写だけに偏ることもなく、その後の描写だけに偏ることもない。もちろん主人公はいるのだが、その人間の描写だけに偏ることもないので飽きが来ない。登場人物それぞれの人生や背景までしっかり書かれているからだ。
大災害の前触れを、日常生活の中からじわじわと描き、その背後で、すでに動き出している国の対応策を描き、最初の大地震や大噴火を描き、来るべき悲劇的な結末を何とか最小限に抑えるために、しかも国民にはまだオープンにできない状況の中で国際的に対応を始めている人々を描き…。そして、破滅的な大災害の頻発…。気がつくと物語の世界に没頭し、これが現実だったらどうしようとまで思わせてくれる。まさに近未来SF小説だと思う。
描写が、災害時の人間関係だけに偏ることもなく、その災害から逃げだす描写だけに偏ることもなく、その後の描写だけに偏ることもない。もちろん主人公はいるのだが、その人間の描写だけに偏ることもないので飽きが来ない。登場人物それぞれの人生や背景までしっかり書かれているからだ。
大災害の前触れを、日常生活の中からじわじわと描き、その背後で、すでに動き出している国の対応策を描き、最初の大地震や大噴火を描き、来るべき悲劇的な結末を何とか最小限に抑えるために、しかも国民にはまだオープンにできない状況の中で国際的に対応を始めている人々を描き…。そして、破滅的な大災害の頻発…。気がつくと物語の世界に没頭し、これが現実だったらどうしようとまで思わせてくれる。まさに近未来SF小説だと思う。
2001年4月7日に日本でレビュー済み
日本が沈没してしまうという漫画的な大ボラ話を、地質学的知見を援用しつつあくまでまじめな顔をして語りきり、その未曾有の天変地異が引き起こす地獄絵図を読者の眼前に突きつけてみせた作者の力技にまずは脱帽。本書が世に出たのは1973年だが、阪神大震災後に刊行された文庫版に寄せられた、作者の「日本が地震列島であるという現実と、それに対応する政治的、社会的システムが、いまだに無力であるという情況に変わりはない」(1995年3月)という言葉が持つ意味はあまりにも重い。
いっぽう、国家とは何か、日本人が日本人であることの拠り所は何か、日本人は異質の文化や人々とどのように対峙していけるのか等々、興味深いテーマが提示されながら、それらが十分展開しきらないうちに、中途半端な形で物語が終わってしまったのは残念だ。それらは『日本漂流』と題される第2部に書き継がれる予定だったようだが、今日なおその続編は陽の目を見ていない。だが、見方を変えれば、もう作者の手をわずらわせる必要はなくなってしまったのかもしれないとも思う。とっくの昔に国際社会との密接な協力関係、あるいは戦略的なかけひき抜きでは存立し得ない状況に置かれているこの日本が、地質学的な大変動を持ちだすまでもなく、政治的にも経済的にもいまや沈没寸前となっている状況下で、ほかならぬ私たち自身が今この続編を現に生きているかもしれないのだから。
いっぽう、国家とは何か、日本人が日本人であることの拠り所は何か、日本人は異質の文化や人々とどのように対峙していけるのか等々、興味深いテーマが提示されながら、それらが十分展開しきらないうちに、中途半端な形で物語が終わってしまったのは残念だ。それらは『日本漂流』と題される第2部に書き継がれる予定だったようだが、今日なおその続編は陽の目を見ていない。だが、見方を変えれば、もう作者の手をわずらわせる必要はなくなってしまったのかもしれないとも思う。とっくの昔に国際社会との密接な協力関係、あるいは戦略的なかけひき抜きでは存立し得ない状況に置かれているこの日本が、地質学的な大変動を持ちだすまでもなく、政治的にも経済的にもいまや沈没寸前となっている状況下で、ほかならぬ私たち自身が今この続編を現に生きているかもしれないのだから。