刺激的な論考であると同時に、相当にイデオロギー色が濃い、かつての四方田はこんなに左翼的だったろうか。前半は2011年刊行の岩波講座シリーズ”日本映画は生きている”に著者が書いた論考を集めたもの。いわゆるヌーベルバーグ以来の作家主義を理論的に考察したり、ひいては俳優なる存在の自明性に疑問を投げかけたりする。”工場の出口”を撮ったリュミエールに俳優という考えは微塵も無かったろう事を考えてみれば良いだろう。また、映画が誕生したのは、たった120年前だが、大衆演劇の伝統のありやなしや、によって国ごとにその発達の度合いや道筋は異なる事の指摘等、大変興味深かった。
著者は蓮実の小津論以来、その神話化が進む小津評価に相当のいらだちを見せる。日本語が理解できないことを逆手に取って小津映画を映画言語さえわかれば理解できるとしたジャック・リヴェットにならって理解しようとする欧米を知る日本人たち、あるいは小津の些細な人間関係のみに拘泥する人びと、例えば小津とある種の芸妓の関係を多大な労力を使って解明する事に専心する人たち、双方に批判的だ。”東京物語”の最後のあたり、尾道の笠智衆の家からカメラは埠頭のあたりを映し出すが、その間には港周辺に在日朝鮮人たちの国際マーケット(闇屋街)がびっしりとあるはずだが、そんな物は映さない。著者はこのことを土本典昭のドキュメンタリーで知った。この小津の姿勢はさらに批判される。小津は中国戦線に派遣され、その日記から、慰安婦も体験したらしいし特殊弾(毒ガスか)を撃った事も判明している。そのような体験が戦後の彼の映画に一切反映していない事が批判の中身だ。それに加えて、小津の庶民の家庭生活に対する無知をやんわり指摘している中野翠の”小津ごのみ”も高く評価されている。それに対して同じように満州での体験を持つ内田吐夢は、戦後作風を一変させ虚無的なくらさを持つ大菩薩峠などの作品を生んだ事から高く評価され、そのモノグラムを執筆中である事が明かされる。評者は、小津の姿勢は彼のひとつの信条を反映しているし、そういう立場もあって良いとは思うが、四方田の批判にも理はあると思った。付け加えれば、四方田は小津の美学的な信条についても十分知っているはずなので、あえて言挙げするのはよほどのことだろう。しかし、そのあとで自分の指導した韓国人博士院生が今井正を取り上げた事に関連して以下のように述べるとなると、その姿勢は一貫していないと感じた。今井正は戦前は国策映画を撮り、戦後は一転して共産党支持の立場の映画を撮ってきており、四方田はその姿勢を唾棄すべき物と感じていたのだが、その院生の仕事で、戦前の自らの姿勢を反省した知識人がどのようにしてその恥をそそぐのか、真摯に追求しつつ生きたプロセスを知ることができた、と書くのである。これは、ご都合主義ではないのだろうか。小津に対する批判は、単に蓮実重彦に対する反感が原因ではないのかと思ってしまう。
なお、四方田の称揚する大島渚の映画は、評者は見てもちっとも面白くない。”愛のコリーダ”は陰鬱な映画でそこには愛などちっとも無かったし、”マックス、モン・アムール”もよくわからなかった。四方田は大島渚の晩年の電波芸者ぶりを困惑しつつ何とか理解しようとするのだが、それに成功しているとは思えなかった。
どうも悪口が多くなってしまったが、読んでいてそれだけ挑発される文章である事を証明している訳で、日本映画について真剣に考えてみたい読者には強く推薦する。なお表紙は、水俣湾の写真である。
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